02 どうして男の子じゃないんだろう?
03 僕は理想の僕じゃない
04 初めてのカミングアウト
05 女として生きられるかもしれない
==================(後編)========================
06 とにかく母親を安心させたい
07 性同一性障害の診断書
08 心の声に耳を傾けて
09 再びのカミングアウト
10 誰でも人生を謳歌できる
01古風な母親と愉快な兄貴
「女らしさ」への疑問
幼い頃の家庭の記憶をたどると、そこにはキビキビ家事をこなす母親の姿があった。
毎朝、誰よりも早く起き、朝食の準備。食事が終われば、父親の身支度を手伝い、立て膝で靴下まで履かせる。
そして笑顔で「いってらっしゃい」。毎日父親を見送ることも忘れない。
「まさに良妻賢母、という言葉が当てはまる人でした」
「母の実家は商家だったんですが、実母、つまり僕の祖母が早くに他界したんです。だから母は自分がしっかりしないと、家のことをみないと、と責任感を持って育ったようで。結果、結婚後も、専業主婦を完璧にこなしていました」
子供のしつけにも、細やかだった。
自分のような女性に育って欲しい、そう思って、娘に接していてくれたのだろう。
「かわいい洋服をたくさん買ってくれました。でもどうして女の子の服を着ないといけないのだろうって、いつも疑問だったんです」
「5歳の時、母がシルバニアファミリーの人形を1つ、プレゼントしてくれたんです。周りの女の子もウサギの人形で遊ぶことに熱中していて。けれど僕はゴレンジャーのお面を買ってくれないかなぁ、と思っていました。それを着けて、男の子と一緒に遊びたかったんです」
その違和感を母に告げることはなかった。
口にすると困らせてしまう、と、なんとなく察していたからだ。
妹思いの兄
兄は7つ上だった。
ゆえに歳の近い兄弟のように、近所の子供達と混じって遊ぶことはなかったが、よくユニークな発想で楽しませてくれた。
「母がファストフードを好まなかったので、マクドナルドに行ったことがなかったんです」
「小学校低学年の頃だったと思います、中学生だった兄が『出かけよう』と言って、僕に目隠しするんです。視界が遮られるのは怖かったけど、一体、どこに連れて行ってくれるんだろうと、手を引かれながら一緒に外に繰り出したんです」
「『はい着いたよ』と目隠しを外されたら、マクドナルドの前で。兄は自分の小遣いで、ハンバーガーを買ってくれて。初めてだったので、嬉しかったです」
ほかにも「UFOを探しに行こう」と言われて後ろを付いていくと、「ほら、あれ!」と言われたものが、ただのパチンコ屋のネオンだったり。
他愛もない遊びだったが、それを一緒に楽しめる兄のことが大好きだった。
「今でもブラコンです。向こうは結婚して家族もできて、もう昔ほどは会えなくなりましたが」
生きていくなかで幾度となく困難に出会ったが、常に兄は自分の味方でいてくれた。
02どうして男の子じゃないんだろう?
悩みなき日々
優しい母と楽しい兄。
父親は黙って子供の成長を見守るタイプ。
何の問題もない、平和な家庭で生まれ育った小学生時代、勉強の方はそこそこ、好きな科目は断然、体育だった。
「あと、よく喋るので、クラスでも目立っていました。よく学級委員にも選ばれていましたよ」
髪型はおかっぱだった。母親がそう決めていたからだ。
活発で目立つから、男子からもよくモテた。子供なりの愛の告白を受けたこともあった。
「小学生の頃に男の子から告白されても、嫌な感じは全くしませんでした。ああそうなんだ、と受け流していました」
「ただ自分が好きになるのは、必ず女の子でした。かわいい子にばかり、目が行くんです」
男の子から思いを寄せられることも、自分が女の子しか好きにならないことも、特別おかしなことだとは思っていなかった。
「そういうもんだろう」という意識もしないくらい、ただ毎日を楽しく過ごしていただけだった。
湧いてきた戸惑い
しかし中学校に入学すると、転機が訪れた。
突然、挫折を味わうようになったのだ。
「まず部活です。小学校のクラブは陸上だったんですが、思い切ってバスケットボール部に入ったんです。そしたら、全く練習に付いていけなくて」
周りは小学校のときからバスケをしていた同級生ばかり。敗北感の日々が続く。
「悔しいから隠れて一人で練習しました。それに気づいた友達がシュートの仕方を教えてくれて、練習も付き合ってくれたので、その後なんとかレギュラーになることができました」
負けず嫌いは人一倍。けれどだからと言って、同級生といがみ合うタイプでもなかった。
もともと人見知りせず、誰とでも打ち解けられる性格だったことが幸いした。
もうひとつ。これは中学生時代を通して、解決しなかった問題だ。
どうして自分が男ではないか、と悩み始めたのだ。
「小学生の頃は、運動でも男子には負けなかったんです。それに身体の大きさも同じくらいだった」
「それが中学生になると、力比べでも勝てなくなる。身体もどんどん筋肉質になっていくし」
「なのに自分は、全くそうならない。その事実に苦しみ始めました」
小学生の時にはなかった、男と女の違いを目の当たりにし、もがき始めた。
「生まれたときから『自分は男だ』と、どこかで信じ込んでいたと気付いたんです。だから小学生の頃に、女の子しか好きにならなくても、おかしいとは感じなかった」
「けれど成長期に自分の身体が男性化しないという現実に直面して、『どうして自分は男じゃないんだ?』と肉体と精神の不一致に、激しく悩み始めました」
女になっていく自分が嫌なのではない。男にならない自分を憎んだのだ。
その感情は常に自問自答で言葉にならない。
だから誰にも相談できなかった。
03僕は理想の僕じゃない
最初の彼女
実は中学1年生のとき、すでに女性と交際していた。
きっかけは、同級生のからかいだった。
「学年でベスト3に入るんじゃないか、っていうくらい可愛いテニス部の女の子がいて。以前から気にはなっていたんですけど、話しかけられなかったんです」
「でも廊下でばったり会った時に、話しかけてみたんです。それを見つけた僕の女友達の何人かが『ふたり付き合ったら?』って、突然、言い出して」
「以来、校内で彼女と話しているのを見つけると、必ずその友人たちが『だから二人付き合えって!』と、けしかけるんです。あまりに言われるから一度、冗談で彼女に『付き合ってみる?』って聞いてみたんです」
「答えは『うん!』でした。『嘘?マジか?』って感じでしたけど、夢じゃなかったんです。こんな可愛い子と付き合えるなんて、本当に幸せでした」
交際のきっかけになった友人たちのからかいは、ただの思いつきではなかったかもしれない。
当時は小学生の頃のおかっぱ頭から卒業し、ショートカットでバスケットボールに打ち込んでいた。
もともとの顔つきも手伝って、ずいぶんとボーイッシュな風貌だった。
「中学生の頃は自分のことを『おいら』って言ってたんです。『わたし』が嫌だったから」
するとこれまた女友達が「『おいら』は変だから、『おいち』にしたら?」と助言してくれた。以来、一人称は「おいち」になり、あだ名も「おいち」になった。
性自認の悩みは打ち明けていなかったが、周囲の友達は自分の風貌や言動から、なんとなく状況を察していてくれたのかもしれない。
そんな初恋も終わりがやってくる。
中学3年生の時に転校することになったからだ。
苦しみ疲れて
自分が男の身体になれないことに悩み始めてから、寝る間も惜しんで筋トレをするようになった。
「自分は女」と認めたくなかったからだ。
「今思えば、あれは自傷行為みたいなもんだったのかな、と。高校に上がったら、ますます男子との違いを感じて、今度は苦しくて眠れなくなってしまったんです」
不眠は常態化した。思い悩んでいたことも理由だが、寝ている暇があったら、身体を鍛えて、少しでも男に近づきたかったからだ。
「僕が僕じゃない、男じゃない。毎日毎日、そんなことばかり考えていました」
そうして肉体と精神の疲弊も限界に近づいた頃、ある事実との出会いが訪れる。
04初めてのカミングアウト
母との衝突
「テレビで性同一性障害のことを知りました。海外では性別適合手術が行われていることも。そしていずれ日本でも、この手術がおこなわれると聞いて、僕の中のもやもやが一気に晴れて行ったんです」
17歳のときの話だった。
その番組が終わったあと、すぐ母親に、自分が性同一性障害かもしれない、と告げる。
「高校生のときも、クラスの女の子と付き合っていました。でももう、中学生の時のようには隠さず、周りの友達に話していました」
「初めは『そうなんだ!』と驚かれるけど、結局はみんな、認めてくれました。髪の毛もベリーショートだし、どんどん筋肉質になっていくし、言動も男みたいだし。なんとなく勘付いていたんだと思います」
高校の同級生が簡単に分かってくれたように、母親もまた、理解してくれるだろうと思った。
しかし母親は激高した。売り言葉に買い言葉、お互いに語気が荒くなってくる。
「『おかん、僕は女として生きられへんねん。性同一性障害やねん』と母親にカミングアウトしたんです。そうしたら『そんなん、納得できるわけないやん』って怒って返されて」
「口論の最中に『なんで俺を産んだんよ!』って、なかば叫ぶように言いました」
その言葉に対する答えは、今でも脳裏に焼き付いている。
「『あんたやって分かってたら、産んでない!』。母もまた泣きながら、混乱のなか、残っていた力を振り絞るように、そう叫んだんです」
実はカミングアウトの前から、不協和音はあった。
男の子のように髪を短く切り、メンズの服を着る娘を見て、母親はよく不満を口にしていた。
「『なんで、そんな格好してんの!』『女の子なんやから、男みたいにしてるなら出て行って!』と、よく怒鳴られました」
「『何があかんねん!』って僕が言い返すと、『その言葉遣いもイヤ、男女(オトコオンナ)イヤ!』と叫んで、母がお膳をひっくり返して怒ることもありました」
加えて中学生のときも特定の女の子からばかり電話が掛かってきたこと、また寝ずに筋トレしている姿を見て、母親はなんとなく、いや確信に近いくらい、娘は普通の女の子とは違う、と気づいていたかもしれない。
『あんたやって分かってたら、産んでない!』。
それは娘からの突然の告白、また当時は一般的でない性同一性障害という言葉に対する不理解がもたらした言葉だろう。
しかし真実を悟っていたからこそ、なお現状が受け入れ難く、発してしまった一言なのかもしれなかった。
欲しかった言葉
「母の言葉に傷ついたし、それにもう、この家にはいれない、と思ったんです。家出しました。友達の家を転々としながら、学校に通いました」
カミングアウトしたのは、母親に「そのままでいいよ」と言って欲しかったからだ。
でも、その言葉はなかった。それどころか家出をしてもポケベルを鳴らすことすら、してくれなかったのだ。
「もう僕は見捨てられたのかな、と思ったんです。でも後で、友達が母に僕の無事を知らせてくれていたことを知りました。それでも向こうから連絡が来るまで、絶対に帰らない、と思ったんです」
当時、進学して香川県にいた兄のところにも身を寄せた。
事情を説明したら、自分の性の問題も含め、受け入れてくれた。
しかしさすがに根負けして、両親の元に戻ることになった。
以来、母親も娘の性の問題には触れず、冷戦状態が続いた。
「帰って父にもカミングアウトしたんです。『僕は、オトンが17歳の時と同じような性欲があるねん。この気持ち、分かるやろ?』と付け加えて」
「父は問題の核心には触れず、『性欲が解消できんのは辛いな。お母さんにも相談してみよう』と苦笑いしていました。火に油を注ぎたくないから、もちろん、相談なんてしてませんでしたけど」
根本のところでは理解し合えないまま、奇妙な同居生活が続いた。
05女として生きられるかもしれない
新たな門出
高校を卒業し、地元・神戸の大学に進学した。家から通ったので、引き続き、息苦しい実家暮らしが続く。
「大学でもバスケットボールのサークルに入りました。親にカミングアウトして以降は、もう誰にでも『僕はGIDだよ』と言えるようになりました」
「友達は皆、僕のことを男として受け入れてくれて。男性用トランクスをプレゼントしてくれる人もいました」
当たり前のように夜、風呂に入る前、履いたトランクスを実家のランドリーケースに放り込んでいた。が、それを洗濯する母は、何も言わない。
本当はよくは思っていないけれど、もう敢えて揉め事を起こしたくない。
それが母の心境だったのだろう。
意外な処方箋
しかし周りに認められても、男性用のトランクスを履いても、根本のところで自分の性自認の問題は解決していなかった。
「結局、どうあがいても、女の身体のままなんです。いつまでも心と身体が一致しない。もうどうにも苦しくなって『女の身体のままなら、女の心が欲しい』『男の心のままなら、男の身体が欲しい』、そんなことばかり考えていました」
しかしあるとき、不思議な夢を見た。20歳のことだ。
「男の家、もしかしたら彼氏の家かもしれない、そこに自分がいる夢を見たんです。目覚めたとき、これは自分が女性として生きられるのかもしれない、と思いました。『女の心をあげるから、女の身体のまま生きなさい』という、予知夢なのかもしれないと」
もうどちらでも構わない、とにかく身体と心の不一致の苦しみから逃れたい。
そんな心の悲鳴がもたらした声かもしれなかった。
「この気持ち、女になれるかもという思いを、とにかく母に伝えてみようと思いました」
長く膠着していた親子の関係が、新たな局面を迎えようとしていた。
<<<後編 2016/10/10/Mon>>>
INDEX
06 とにかく母親を安心させたい
07 性同一性障害の診断書
08 心の声に耳を傾けて
09 再びのカミングアウト
10 誰でも人生を謳歌できる