INTERVIEW

「ニューハーフ」のプライドとともに生きて【前編】

「私たちの時代は、ニューハーフになるしか女として生きる道はなかったのよ」。心理カウンセラーの熟田桐子さんは、かつてはショーパブなど華やかな夜の世界にいた。そんな熟田さんから見た、古きよきニューハーフの時代や、現在のLGBTを取りまく環境をたっぷりと語ってもらった。

2016/09/15/Thu
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Momoko Yajima
熟田 桐子 / Kiriko Jukuta

1957年、東京都生まれ。「ニューハーフ」の世界に入り20年以上。新宿の有名なショーパブ『黒鳥の湖』でショーダンサーを務め、舞台『毛皮のマリー』では主役に抜擢された経歴も。現在は、株式会社東京メンタルヘルス所属の心理カウンセラーとしてLGBT当事者に対しるカウンセリングの他、渋谷区のLGBT相談支援業務などを行っている。

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INDEX
01 男性化を受け入れつつも女性に憧れた子ども時代
02 芝居の世界に救われて
03 女性として、美しくなりたい
04 サナギが蝶になり羽ばたくように
05 まだ表立って性別適合手術ができなかった時代に
==================(後編)========================
06 「ニューハーフ」から「トランスジェンダー」へ
07 心理カウンセラーとして
08 逆境にくじけず、強さに変える
09 人並み以上の努力で身に着けた「武器」
10 理想は、美しく品があり、凛とした女性

01男性化を受け入れつつも女性に憧れた子ども時代

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女の子でいることを許されていた子ども時代

「私、これは恵まれていると思うんですけど、子どもの頃から家では女の子でいることを許されていたの」

実家は銭湯を営んでおり、両親ともに忙しく、夕飯はいつも隣に住む子どものいない夫婦の家に食べに行っていた。

その家には豪華な鏡台があった。

一度だけ、勝手に化粧品を使って親に怒られたことがあるが、そこに並ぶ口紅やマニキュア、アイシャドウは、憧れの対象だった。

銭湯の仕事は忙しく、小学生の頃から手伝っていた。

夜12時過ぎに営業が終わってから掃除をするため、いつも睡眠不足で登校する。

「親もそういう苦労をさせたと思っていたからか、私の女の子っぽいところに対して何も言わなかったのかもしれないですね」

家では好みの野球選手の話しをしたり、女性歌手の歌ばかり歌う。

女優のドレスや、バービー人形のモデルのようなスタイルに憧れたが、そういう女性らしい言動を両親に咎められることは一度もなかった。

小学校では男の格好をして、女言葉は使わず、自分のことも「僕」と言っていたけれど、やはり女っぽい男の子だったと思う。

「女の子になりたいというより、女の子だと思っていたのよ、自分のこと。だから『女みたい』なんて言われると『は? あんたバカじゃないの? だってあたし、女ですもん』って心の中で思ってたわ(笑)」

男性に生まれたことを受け入れた幼少期

当時は男女が一緒に遊ぶことをよしとしない風潮があり、遊び相手は男の友だちだったが、小学生の頃は性別が原因で嫌な思いをしたことはあまりない。

それより、つらかったのは思春期以降だ。

「ひげが生え、骨が太くなって、がたいがよくなってくるでしょう? ひげを剃りながら、『私、女のはずなのに・・・・・・』って思ってたわ」

中学は共学、高校は男子部と女子部で校舎が分かれていたが、好きになるのはやはり男性。

この人のためだったら死んでもいいと思うぐらいに苦しい初恋は、高校2年生の時の先生だった。

当然、自分が男が好きなどということは他人には言えない。友だちの間で好きなタレントの話が上がれば、自分は山口百恵が好きだと答えていた。

「心にもないことよ~!(笑)。でも、歌が好きだったから、そういう話には乗れていたのよね」

自分の身体が男性化していくことは嫌ではあったけれど、受け入れがたいほどの苦痛ではなかった。なぜだろう。

「私は小学生の頃から、こういう風に男に生まれてきた自分を受け入れてしまっていたんです。男性化していくことも、それはそれで受け入れないと、あとは自殺するしかないから、そっちにいかないようにと思って・・・・・・」

「だから、口で言うほどそんなに嫌なことでもなかったんですね」

02芝居の世界に救われて

「電気ショックで同性愛を治す」実験の衝撃

男性しか好きになれないことに悩み、「心理学を勉強したら何か解決のヒントが見つかるのでは」と、大学では心理学を学ぶ。

そこで同性愛について勉強するうちに、驚愕のできごとを知る。

当時は、電気ショックを与えることで同性愛を異性愛に変えられるかの実験がなされていた時代だったのだ。

「男性の写真が出たら電気ショックを与え、女性の写真の場合は与えない。もう、パブロフの犬とおんなじよ。そんな、人を好きになるのは条件反射の問題じゃない、もっと内面的な問題だってことぐらい分かってるわけですよ」

「こんな実験がなされていることを知って、もうこれはあかん、心理学を勉強したって答えなんか出やしないと思った時に、お芝居に出会ったの」

芝居にのめり込むうちに、自分の居場所は芝居の世界にあると感じるようになる。

芝居があったおかげで、自分の性に関する悩みにもそんなに苦しまずに済んだと思う。

しかし劇団でも、自分の女性性は受け入れてもらえなかった。

「養成所にいた時に、好きなセリフを言っていいという授業があったの。そこで私が女性のセリフを選んだら、周りがものすごく引いてしまってね。『何か変わったことをやろうと思ってるんだろう』と軽蔑する男の人もいたわ。だから男役しかやらせてもらえませんでした」

『黒鳥の湖』のダンサーオーディションへ

折しも時代はミュージカルブーム。役者には芝居だけでなくダンスも歌も求められた。

「目指していたのは役者なんだけど、容姿や肉体が特別に恵まれていたわけでもないから、きっかけをつかむためには何かで訴える力をつけなくてはと思って。踊りは好きだったので、ジャズダンスのレッスンに頑張って行っていたんです」

そこで、ダンスの先生から「踊ってお金を稼げる仕事がある。あなたはこういう方が合ってるかもしれない」と紹介されたのが、新宿歌舞伎町にあるショーパブ『黒鳥の湖』のダンサーオーディションだった。

オーディションの倍率は20人に1人と高く、難関だった。

応募者のセクシュアリティは様々、男性や女性、ニューハーフなど、プロダンサーとして経験を積んできた人ばかり。

まったくの「男」の状態で、舞台しか経歴がなく、夜の世界も知らない自分は明らかに異質だった。

「プロを採りたいなら彼らを採るだろうと思いました。でも、もしお店が新しい風を求めているなら、私にもチャンスはあるかもしれない、そう思いました」

そして、見事合格。

これをきっかけに、20代後半でニューハーフの世界に入ることとなる。

03女性として、美しくなりたい

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ニューハーフの世界で知った驚きと喜び

『黒鳥の湖』には当時、ショーのメインを飾るニューハーフがいた。完全に性別適合手術は終わっていなかったが、身も心も美しくすぐに魅了された。

「もう涙が出るぐらいに素敵な人で、本当にきれいだったの。時には厳しくしかってくれるしね……。お店にはいろんなニューハーフさんがいましたけど、やっぱり私にはその人がピカイチだった」

年齢は自分とあまり変わらなかったが、経歴は長く、10代の頃からすでに夜のお店に出ていたと聞いた。

美しく華やかで、人間的にも素敵な人。

しかも彼女は一流のエグゼクティブの男性からもひっきりなしに口説かれていたのだ。

「自分は男性を好きになったら諦めるものと思っていたのに、その方はめちゃくちゃモテるんですよ。きれいだし、嫌というほど男性が口説いてくるのね。その姿はものすごくカルチャーショックでした」

「だって要は、男が男を口説いているわけでしょう?(笑) それもとびきり素敵な男性が。もう、私には考えられない世界でしたね」

彼女を通してニューハーフがいかに素晴らしい存在かを目の当たりにしたが、かたや、自分はまだ容姿も身体も男性である。

自分もきれいになりたい、ニューハーフになりたいと言いたかったが、そんな美しい人と毎日そばで仕事をしていて言えるわけがなかった。

好きな人に認めてもらいたい一心で

しかしとにかくニューハーフの世界に入った時の驚きと喜びは大きかった。

一度は、芝居の世界に戻るため『黒鳥の湖』を辞めたが、舞台と舞台の間が開いている時など、夜の時間を持て余してさみしくなってしまう。

自宅の近くで探すと、自由が丘にゲイバーが見つかった。『黒鳥の湖』に比べれば規模は小さかったが、きちんとショーもやっていて、すぐに採用された。

「その店で、私は変わったの」

そこには若くてきれいなニューハーフがいた。彼女たちと一緒にレッスンやショーで踊ったり、接客したりしているうちに、自分の中でニューハーフになりたい気持ちが固まっていった。

そして、店で一緒に働いていた子が、思い立ったが吉日と、女性ホルモンを打ってくれる新宿の病院に連れて行ってくれた。

29歳の時のことで、これがニューハーフへの第一歩となる。

また、その店では強烈に好きな男性ができた。

「やっぱり美しくなろうと思うには、きっかけとなる強いパワーが必要なのよ(笑)」

あとから分かったことだが、実は彼は大企業の御曹司で、フィアンセもいた。

「でも恋はスタートしたら止められないし(笑)、きれいになって見返してやるというか、認めてもらいたいと思ったら、エネルギーが溢れてきたの」

彼には気持ちを伝えたが、大企業の御曹司でフィアンセもいる人だ。

恋は実らなかった。

04サナギが蝶になり羽ばたくように

舞台『毛皮のマリー』の主役に大抜擢

女性ホルモンを打ち始めて3ヶ月。

夜の仕事と並行して続けていた芝居の方で、『毛皮のマリー』の主役に抜擢される。

『毛皮のマリー』といえば、俳優の美輪明宏が主役を務めてきた芝居だ。

「ちょうど小劇場『ジァン・ジァン』の小屋主が、美輪さんができなくなったので、若手でやりたいと役者を探していたんです。そこでたまたま別の小劇場で私がやっていた芝居を見て、声がかかったんです」

これを逃したら二度とできないぐらい大きな役。しかも初めての主役だった。店には休みをもらい、稽古に励む。

プレッシャーは大きかった。

「主役だし、弱音を吐けないじゃないですか。何が自分のエネルギーだったのか不思議だけど、もうやるしかないって気合いしかなかった。絶対失敗できないという意気込みはすごくありました」

舞台には店の仲間やお客さんも足を運んでくれた。

ちょうどこの『毛皮のマリー』の舞台を踏んだ頃と、ニューハーフとして頑張っていこうと決意した時期が重なったのもあり、何かが自分の中で明らかに変わっていくがわかった。

「バブルの波も来ていて、時代もすごくよかったんですよ。本当にキラキラした世界で、自分がやっとサナギから蝶になって羽ばたける感覚が、日々、あった」

「それに、『女性になる』という意識を強く持っている時って、不思議なもので、町でナンパされたり、タクシーの運転手にきれいですねとほめられたり。そういうひと言、ひと言が自信になって、すべてが私にとって追い風に思えたんです」

時代の波と、自分の変化。そこに大きなうねりのようなものを感じていた。

きれいになりたいと思うことは恥ずかしいことじゃない

お店にきれいな子がたくさんいる中、ニューハーフになるためには気合を入れて頑張るしかないという気持ちで、「きれいになる、私はきれいになる」と2年間、毎日唱え続けた。

努力の甲斐あってか、フランスのショーダンサーが来日してステージをする際の、東京のニューハーフ12人に選ばれたこともある。

時はニューハーフブームでもあった。

「私たちの時代は、”女性として生きていく、イコール、ニューハーフになる” ということだったし、品や美しさもセットでないといけなかったんです」

ただ女になれればいいということではなく、大事なのは「どういう女になりたいか」だ。

「これは私がいまカウンセリングの仕事をしていて、MTFのクライアントさんがよく言うんですけど。最初はみんな、『きれいにならなくてもいい、この違和感をなくすために女性になりたい』と言うんです。でも信頼関係ができてきて、3回目、4回目の面談でもう一度聞くと『やっぱりきれいになりたいです』と言うんですよ」

「どうせ女になるなら、きれいになりたいのは当たり前。きれいになれば、より自分を受け入れやすくなるのだから、恥ずかしいことではないし、自分でしっかり言った方がいいんですよ」

「私自身もそうでしたから。すぐそばにきれいなニューハーフさんがいるのに、自分もあなたたちみたいにきれいになりたい、女になりたいなんて、恥ずかしくて言えなかった。自信もなく、そういう気持ちを抑えてしまっていた」

「でも、きれいになれるわけがないと思っていたコンプレックスがあったからこそ、きれいになってやる!って頑張れたのも確か」

「だから、私はコンプレックスはとても大事なものだと思ってるんです」

05まだ表立って性別適合手術ができなかった時代に

「ニューハーフ」のプライドとともに生きて【前編】,05まだ表立って性別適合手術ができなかった時代に,熟田桐子,トランスジェンダー、MTF

当事者が望んでも手術してもらえる時代ではなかった。

30歳から40歳ぐらいの10年間は、店でナンバーワンの地位を得ていたり、地方のホテルにショーに呼ばれたり、テレビの仕事も受けたりと、自己顕示欲が満たされていた期間だった。

「大変だけれど実入りも多く、頑張れば頑張るだけ結果がついてきた時代。だからすぐに身体を変えたいとも思わなくて。でも、いずれは絶対に変えるとは思っていたので、時機を見ていましたね」

35歳で睾丸摘出の去勢手術を行うが、表立って手術ができない、つまり「闇」での手術だった。

「当時は規制がとても厳しくて、たとえば私が手術する件で、病院に誰かから問い合わせが入るだけでも手術をしてもらえないんです。だから名前も偽名でやりました」

さかのぼること1969年、ある医師が性転換手術を希望する男性に精巣摘出を施したことが優生保護法違反に問われ、有罪となった。

俗にいう「ブルーボーイ事件」である。

それ以降、医師の間で性別適合手術はタブーとされ、日本で公然と手術をすることはできなくなってしまったのだ。

「80年代、90年代初頭はそういう時代で、闇ですべてをやるしかなかったんです。でも去勢手術は男性化するのを防ぐ手術なので、やっぱりやりたいもの。どこの病院でやってくれるか、推薦者がいればやってくれるのかなど、ニューハーフ同士の情報網で、みんな情報を得ていました」

有名な和田先生の手により完全な「女」となる

1997年には「性同一性障害」のガイドラインが学会で発表されたが、公の医療機関は埼玉医大と岡山大学のみで、手術まで長く待たされることが多かった。

だが当時、大阪の和田耕治医師が独自に手術を行っていることがニューハーフの間では知られていた。

「友だちが和田先生のところで手術して成功したのを聞いていたので、自分もやるならそこでと思いました。もう亡くなってしまったけれど、私が日本で手術をすることができたのは先生のおかげです」

そうして、40歳の時に完全な性別適合手術を受ける。

ガイドラインに沿ったGIDの診断書はなく、和田医師が「手術した方がいい人」を見極め、手術するかどうかを判断した。

「でもね、私が手術してみて分かったことなんですけど、結局、手術をして何か変わることがあるかといったら、何もないんです。手術をする前はやっぱりどこかで王子様がやって来てくれることを期待していたんですが(笑)、王子さまは来ないし、すべてが劇的によい方向に変わることはないわけです」

「手術が終わった後こそ、自分の人生をなんらかの力で築き上げていかなくてはならないですよね。最近でも、やっぱりメンタル面の病気を抱えていたりすべてを悪い方に考えてしまう性格の人だと、SRSの許可が下りるのは厳しいと思う」

<<<後編 2016/09/18/Sun>>>

INDEX
06 「ニューハーフ」から「トランスジェンダー」へ
07 心理カウンセラーとして
08 逆境にくじけず、強さに変える
09 人並み以上の努力で身に着けた「武器」
10 理想は、美しく品があり、凛とした女性