INTERVIEW

私は、私――。性分化疾患で揺らいだ性の認識と、自分が何者か分からない苦悩を経て【前編】

ずっと、何の疑いもなく「女の子」として生きてきた。そう、あの日までは――。「子宮も卵巣もない」という突然の宣告を受け、自分が女性なのか、男性なのか、何者か分からないまま、荒れて夜の世界へ飛び込んで一度は男性として生きようとしたこともあった。しかし主治医の力強い言葉、同じ性分化疾患を持つ人たちとの出会い、再構築した家族関係、様々な環境に支えられ、ようやくここまで来られた。次は私が、みんなからもらった恩を誰かに送る番――。同じように孤独な当事者に、「ここで私も、生きてるよ」と伝えたい。

2017/01/18/Wed
Photo : Mayumi Suzuki Text : Momoko Yajima
小池 知香子 / Chikako Koike

1986年、千葉県生まれ。胎児として母体で成育する間、様々な要因で典型的な男女の性に分化せず発達、誕生する、「性分化疾患(インターセックス)」と呼ばれる疾患を持つ。診断名は「男性型仮性半陰陽完全型アンドロゲン不応症(CAIS)」。高校1年生で診断を受けて以来性自認が揺らぎ、性同一性障害と思い込む時期を経て、23歳で再告知を受ける。現在は設計関係の会社で働きながら、NPO法人バブリングでマイノリティのカミングアウトを支える活動をしている。

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INDEX
01 女でも男でもない “バケモノ”
02 急速に崩れていく自分
03 「私は女の子として生きていてはいけない人間」
04 「男」として生きる覚悟
05 やっと聞けた、本当のこと
==================(後編)========================
06 やり直し
07 性分化疾患の人たちとの出会い
08 今度は自分が手を挙げる側に
09 あの時、何があればよかったのか
10 家族をもう一度捉え直す

01女でも男でもない “バケモノ”

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「子宮と卵巣がない」という突然の宣告

「ほら、ふつうはここに子宮と卵巣があるはずなんだけど、あなたの身体の中にはないみたいなの」。

エコー画面を指し示して医師から告げられた言葉を、いまでも忘れることはできない。

高校1年生の時、お腹が痛いと言って学校を休んだ。生理がなかなか来ないこともあり、母に連れられた地元の病院で婦人科にかかった。

初めての婦人科で、初めての触診。

思春期の少女にとって、下着を脱ぎ診察台の上で足を広げる、ましてや診察のためとはいえ有無を言わさず他人に身体を触られるのは屈辱的なことこの上なかった。

しかしさらにショックだったのが、この医師の言葉だった。

一度外に出され、母だけが診察室に呼ばれた。

「私は初めての触診があまりにショックで、ずっとえーんって泣いてました。診察室から出てきた母は何も答えてくれなかったですね。ただ、一点を見つめて、とても怖い顔をしていました」

「うちの病院ではこれ以上は診られない」と、世田谷区にある国立成育医療センターを紹介され、検査入院をした。

下された診断は「性分化疾患」。

その中でも、見た目は女性だが、染色体の型は男性という「男性型仮性半陰陽完全型アンドロゲン不応症(CAIS)」という疾患名だった。

「性分化疾患」とは

人間の性は受精した時にすべてが決まるわけではなく、母親のお腹の中で6週目までは両性が共存している。

たいていは7週から12週の間に性の分化が行われ、この間、遺伝子やホルモンなど様々な因子が複雑に作用し、男女の性に分かれていく。

「性分化疾患」は、この過程で問題が生じ、適切な分化が阻まれることで、染色体や性腺(卵巣や精巣など)、性器が、典型的な男女と異なる発育状態になる疾患である。

疾患は70種類以上あるとみられ、日本では6500人以上の患者がいると言われている。

下された「男性型仮性半陰陽完全型アンドロゲン不応症」という疾患は、染色体はXYの男性型で、精巣も存在する。

「染色体が男性の私の身体には、もともと子宮も卵巣もできない代わりに、精巣ができる信号は出ていたんです。あとは男性ホルモンである「アンドロゲンシャワー」というものがあるんですけど、それに身体の中の受容体が反応してくれれば、男の子としてのベースができて、お腹の中で男の子として育っていくはずだったんですけど、その受容体がまったく反応しなかったんです」

「それは鍵と鍵穴がまったく合わないようなもので、そのまま男性化せずお腹の中で大きくなって、オギャーと生まれてきたんですね」

生まれた子はたいてい股間のあたりを見て、男の子か女の子か判断される。

外性器も女性のような見た目だったから、「女の子」として出生することになったのだった。

しかし男性型仮性半陰陽完全型アンドロゲン不応症は、外見上は普通の女の子と変わりなく、性自認も女性であることが多いとされる。

その上で身体の内部や染色体が男性という事実をつきつけられるのは精神的な打撃が大きく、本人への告知はタイミングと時期を見て、思春期をずらして行われることが多い。

そう、本来の疾患名は知らされず、ただ「性腺機能不全」と伝えられたのだ。

しかし最初の病院で見たエコーと医師の言葉、そしてその後真実を知らされない不安に、徐々に心が蝕まれていく。

「最初に子宮も卵巣もないと聞いて、私は “バケモノ” なんだ、と思いました」

02急速に崩れていく自分

「私ってなんなんだろう?」

自分の病気のことを聞いても、母は詳しいことを何ひとつ教えてくれなかった。

薬も、なんのために飲むのか聞いても「飲めと言われたんだから飲みなさい」の一点張り。

実は当時、母は父に自分の疾患のことをまったく伝えていなかったことを数年後に知る。

「母もたぶん、ひとりで抱えていっぱいいっぱいだったんですよね。だから母もなんて答えていいか分からなかったんだと思う」

何も答えてくれない母に、検査は自分にとって屈辱的なことの繰り返し。

そして中学から続いていた反抗期も重なり、この頃から「徐々に壊れて」いった。

当時からずっと「私はなんなの?」と思っていたが、自分で自分のことをよく分かっていないので、周りに話しようもなかった。

「なんか私、生理こないらしいよ」という感じには言えるのだが、気持ちのもやもやした感情を言葉にすることは難しかった。

「私、4人きょうだいの2番目なんで、放っとかれると感じてしまうこともあって。でもこの時は、さすがにもっと話を聞いてほしかったなって、いまでは思うんですけど・・・・・・」

高校中退と、性腺摘出手術

通院が始まってからの自分は、ものすごい勢いで精神的に崩れていったと思う。

しかし疾患のことを知らされていない父は、ただの反抗期としか見てくれなかった。

怒られるたびに、「どうして私がここまでボロボロなのに、両親はどっちも私のことを見てくれないの?」と感じ、親との溝はどんどん深まっていった。

家には自分の居場所を感じられず、地元の先輩たちと遊んでばかりいたため単位が足りなくなり、結局、高校2年生の終わりに中退した。

「もう全部どうでもよくなっちゃったんですよ、本当に。先輩も私も、『ふつうに学校行けばいいじゃん』って思うことができないタイプの子たちだったし、その当時は私も、とにかく自分自身の状況についていけなかったんですよね・・・・・・」

高校中退後、18歳の時、身体の中に残る「停留睾丸」を摘出するための手術を行った。

手術は「性腺機能不全による、性腺摘出手術」と告げられた。

「もうずいぶん前のことで記憶もあいまいなのですが、その時にはまだ自分の身体の中に停留睾丸があるとか、詳しいことを聞いた覚えはないんです」

「ただ、手術するんだと母に言われて、やらなきゃいけないものだからやる、みたいな感じで・・・・・・」

手術は無事に終わったが、その後押し寄せてきたのは「私はもう女の子じゃなくなっちゃったんだ」という思い。

摘出したのは男性の内性器である停留睾丸だったが、具体的な説明がされていない状況で、自分の身体からなんらか性にまつわるものが取り除かれたという事実は、自分をとても混乱させた。

「よく分からないけど、私の大事なものがなくなっちゃったんだなって・・・・・・。お腹をさすってよく泣いていました」

これで私は本当に気持ち悪いものになっちゃった――。

“バケモノ” という言葉が心のうちに響いていた。

03「私は女の子として生きていてはいけない人間」

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性同一性障害だと思い込む

この頃、両親が離婚することになり、家族はぐちゃぐちゃな状態だった。

本来なら親や医師が本人告知のタイミングを計りながら治療を継続していくはずが、母が出て行ってしまったことで、治療がそこで中断されてしまった。

ホルモン治療のための薬も途中から飲まなくなり、以後、20代半ばまで一切飲まなかった。

学校も辞め、家族もバラバラになり、治療もやめた。自分を止めるものは何もなかった。

ちょうど地元の先輩がやっていたスナックの厨房で働いている時に、「おなべ」という世界があることを知った。

「そっか、私は性同一性障害なんだ、と思ったんです」

まだ正確に理解していたわけではなかったが、その頃には自分の身体が本来は男の子で生まれるはずだったということは何となく知っていて、「身体の中身が男の子」という認識でいた。

「私の身体は男の子であって、私が自分のことを女の子だと思っていることが間違いなんだって、性自認が揺らいだんですよね」

「身体が男の子だから、男の子として生きなきゃいけないんだ、つまり性同一性障害みたいなものなんだっていうのが、その頃の私の少ない知識に基づいた結論で(笑)」

「おなべ」の世界へ

「とにかく、“自分は女の子として生きていてはいけない” という強迫観念があったので、ネットで色々と調べたんですよ。そうしたらどうやら男の子になりたい人は、水商売をするなら『おなべ』になるらしいと」

「そうなんだあ、と思って(笑)」

さっそく何軒かお店に電話をかけた。未成年のため断られ続け、ようやく新宿・歌舞伎町にある店に面接を取りつけた。

「ずっと千葉にいたので、新宿って? 歌舞伎町ってどこにあるの?って(笑)。しかも何ココ、こわいんだけど!!みたいな感じで(笑)」

お店は、「おなべ」と呼ばれる男装した女性たちが接客するクラブ。

「お前、男になりたいんだろ?」と聞かれれば、元気よく「うっす!」と答えた。

「だけど本当は、私、別に男の子になりたいわけじゃないんだけど・・・・・・って思ってた(笑)。その辺のこと、まだよく分かってなかったんですよね」

「私は身体が男だから男として生きていくしかないと思っていただけで、そもそも、もともと子宮も卵巣もないから、いまさら子宮と卵巣を手術で取りたいんだろう?と言われても・・・・・・というのはありましたね」

客には男性、女性、同業者などが訪れ、スタッフは歌って踊ってしゃべってお酒を作るなどすべてを1人でこなす、いわゆる「サパークラブ」。

ホストやキャバ嬢など同業者の知り合いは増えたが、逆におなべの人との関わりは薄かった。

でも、歌舞伎町や新宿の他の店のおなべの人と会うと、何かが違うように感じた。

「自分はこの人たちとは違うんじゃないか」

04「男」として生きる覚悟

「ここでしか生きていけない」という、あきらめと決意と

2軒目の店は普通のホストクラブで、性別を隠して男として働いた。

男同士の世界は厳しく、いじめもあった。怖い思いもしたこともあるが、しかし辞めようとは思わなかった。

「この世界でしか生きていけない」という思いがあったからだ。

「あきらめと、決意ですね。私はもうここ以外では生きていけないのだ、居場所がないんだって思っていたから」

「いま思えば『何言ってるんだよ、もっと他に目を向けなさいよ』って思うんですけど(笑)。でも当時は本当に、もうどこにも私を受け入れてくれる場所はない、だって私は “バケモノ” だからって思ってました」

名前も違う、性別も違う、ぜんぶが違う自分。まるでゲームの中にいるような現実感のなさを感じながら生きていた。

「でも、この時が一番、私の人生の中で青春だったとも思うんです」

水商売をしながらできた友だちは、みんなお金がなかったけれど、一緒に泊まったり飲んだり仲が良く、上も下もない “対等な” 仲間だった。

「みんないろんな事情を抱えて歌舞伎町に来ていて。本当に必死に生きてたんです」

嫌でも、逃げる場所なんてなかった。

だから受け入れるしかなかった。

「あの頃の歌舞伎町で一緒に過ごした人たちは、いまでも自分にとって大切な仲間です」

自分は性同一性障害ではないのではないか?

しかしそんな生活もやはり耐え切れず、2年を過ごした歌舞伎町を去る。

友人たちとシェアハウスをしながら、「全員マイナスからのスタートだけど、夜の仕事から足を洗って、まともに生きていこう」と誓い合いながら生活した。

そうしてだんだんと精神的にも落ち着き始めた23歳の頃、性分化疾患の作者が描く『性別が、ない!』という漫画に出会う。

「そこで、性同一性障害の診断を受けるには、ということが書かれていて。染色体、外性器、内性器、戸籍が、必ずどちらかの性であることとあって、へぇ~って思って読んでたんですけど・・・・・・」

「ん?? 私、性自認も含めて全部ぐちゃぐちゃじゃん!って(笑)」

「もしかして、私は性同一性障害じゃないのかもしれない、と思って。それで思い出したのが、10代の時に通院していたこと。あの時、なんか薬飲んでたよなあ・・・・・・と思って、病院に行くことにしたんです」

長らく薬は飲んでおらず治療は中断していたが、改めて国立成育医療センターをたずねると、当時の主治医であった、性分化疾患の専門医である堀川玲子先生がいた。

「先生には、『5年ぶりだねぇ』と言われました(笑)」

当時の話を知りたくて、と伝えると、堀川先生は「いいよ」と言って話し始めた。

05やっと聞けた、本当のこと

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改めての、本人告知

「『あなたはね・・・・・・』と、正しい疾患名からその内容まで、全部教えてくれたんです。もう~、嬉しくて、嬉しくて。初めて自分の名前をもらったような気持ちでした」

高校生の時からずっと、「私はなんなんだろう?」と悩んで、荒れてきた。

乱暴な言葉を使い、人に迷惑をかけ、自暴自棄になり。

その荒れているのが自分自身だと思ってきたけれど、でも小さな頃を思い返すと、本当に読書が好きな、外に遊びに行くにも本を持っていく、そんな子どもだったのだ。

いつからこんな自分になってしまったのか考えていたけれど、先生から本当のことを聞き、分かった。

「私が探していたのは、知りたかったのはこれだったんだって。少しは下調べをしていたので、もしかしたら私は半陰陽なのかな?と思ってはいたんですけど、仮性半陰陽だと言われて、ああ、なるほどね! ようやく知ることができた!」

「原因が解消されたから、もう荒れる理由もなくなっちゃって、憑き物が落ちたようにストンと、一気に精神的に落ち着いたことを覚えています」

「ちかちゃんは女の子だよ」という力強い言葉

「自分が男性か女性か分からなくて悩んでいたけれど、堀川先生は、私の人間関係の中で唯一、『ちかちゃんは女の子だよ』って言い続けてきてくれてるんです」

「『だけど、ちかちゃんはちゃんとした女の子だから、安心していいよ』って。私には、その力強い言葉が必要だった」

男性ホルモンを受け取る受容体が反応しない自分は、たとえ男性ホルモンを注射しても男性化しないことも分かった。

それなら女性の側に行ってもいいのかな? と迷う気持ちもあったが、どうしても女性っぽくなるのを許さない自分もいた。

「先生の言葉に対して、いや、違うし、って言ってる時期もあったんです。でも先生が言い続けてくれたおかげで、なんか、いまはとりあえず “女の子” でもいいんじゃない?とも思えるようになって」

この、“もう一度の告知” を経て、本当に、本来の自分らしい落ち着きを取り戻すことができたのだった。


<<<後編 2017/01/20/Fri>>>
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06 やり直し
07 性分化疾患の人たちとの出会い
08 今度は自分が手を挙げる側に
09 あの時、何があればよかったのか
10 家族をもう一度捉え直す