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最愛の母を泣かせたカミングアウト。その償いは後悔しないこと【前編】

憧れの人、母の背中を見ながら育った青春時代。高校ではソフトボールに打ち込んだ岡部悠介さん。ところが、19歳でトランスジェンダーに悩む当事者と身近に接し、自分の中にあったもうひとつの性が頭をもたげた。揺らいだ母との絆。社会人1年目で性別適合手術(SRS)を決断。苦難を乗り越え、笑顔で知的障害、発達障害の子どもたちと勇気を分かち合うまでのストーリー。

2018/09/04/Tue
Photo : Taku Katayama Text : Shintaro Makino
岡部 悠介 / Yusuke Okabe

1987年、東京都生まれ。三人姉妹の三女として生まれ、スポーツ好きの両親に育てられる。特に母親の影響が強く、自称マザコン。大学4年生で家族にカミングアウトし、改名、SRSを経験する。現在は福祉施設で障がいを持つ子どもたちの支援をするとともに、自己承認コンサルタント協会認定講師として活動している。

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INDEX
01 レズビアンと思われたくない
02 女の子になるための恋愛願望
03 頭をもたげたセクシュアリティの疑問
04 女の子の一言で気持ちが楽になった
05 受け入れてもらえなかった、涙のカミングアウト
==================(後編)========================
06 改名、治療、そして就職
07 性別適合手術を受け、男として社会の一員に
08 家庭を持つことの難しさと新たな希望
09 当事者だからできるLGBT支援の発信
10 少しずつ夢が実現してきた

01レズビアンと思われたくない

小学生からソフトボールを始める

父は元甲子園球児、母はソフトボール選手というスポーツマンの両親に育てられた。

「姉が2人いて、2歳上と4歳上です。2つ違いで3人生むという、計画出産だったらしいです。私が3月生まれですから、ぎりぎりセーフ(笑)。見事に成功したわけです」

「次女とは子どもの頃、よく喧嘩してましたけど、今となってはいい相談相手です。私がカミングアウトしたときも助けてくれました」

「長女は中学を卒業してすぐに家を出て、美容の世界に入ったんです。家にいなかった印象が強いですね」

母親は体育の教師だったが、子育てのために休職。

自分が中学生のとき、中学校の体育と特別支援学校の先生として復職した。

「お母さんは私の憧れというか、目標の人でした」

「ソフトボールを始めたのも、体育の先生になりたかったのもお母さんの影響です。趣味の木工に没頭している姿も好きでした」

母親は明るくて、タフな人。
人当たりがいいところも尊敬していた。

母親の背中を追いながら成長していく。

「完全なマザコンでしたね。逆に、父親は大嫌いでした(笑)。公務員だったせいか、世間体をとても気にする人で、何事につけても頭が硬かった」

小学校低学年のときは、セクシュアリティに違和感を感じることはなかった。

「FTMの人から、赤いランドセルが嫌だった、という話をよく聞きますけど、そんなことはまったくなかったですね」

「三人姉妹で、ランドセルは赤いもんだって思っていましたから。スカートにも、特別な抵抗はありませんでした」

通っていたのはあきる野市にある田舎の小学校、1クラスだけ。

「男の子も女の子も区別がない感じで、どちらともよく遊んでいました」

「獅子」がいいけど、「レズビアン」じゃない

親から服装で女の子らしくしなさい、と言われたことはなかった。

「母親は短髪でジャージ姿だったので、私もそれと同じようにしていました。でも、何が着たいのと聞かれて、スカートを選ぶことはなかったですね」

「2人の姉もソフトボールをしていたので、全員、同じような格好でした(笑)」

「ご飯のお茶碗を好きに選んでいいよと言われて、私は青い戦隊ものを選んだんですよ」

「何とかレンジャーだったかな? それに対して母親から小言を言われることもありませんでしたね。姉たちはかわいい絵柄を選んでいました」

違和感を感じたのは、高学年になってからだ。

「地元で獅子舞のイベントがあるんですよ。私は小さな頃から獅子がやりたくて、家で勝手に練習してたんです」

しかし、獅子は男性の役で、女子は周りで踊る花笠と決まっていた。

「そうか、自分は獅子にはなれないんだ、というのが初めて女であることにがっかりした出来事でした」

小学4年のときに好きになった子がいた。

ソフトボールを一緒にやっていた女の子だ。

「でも、その年頃になると『レズ』という言葉を意識するようになって。周りからレズだと思われるのが嫌で近づけなかったですね。その後も気になったのは、みんな女の子でした」

「好きな芸能人は誰?」という質問にも、いつも困った。

「ほかの女の子はみんな男子のアイドルを挙げるんですけど、私が好きなのはスピード。でも、それが恥ずかしくて言えなかったです」

「友だちと同じジャニーズの名前を答えていました。一種の防衛本能だったんでしょうね」

女が女を好きになるのはおかしい、と本能的に感じていた。

「上の姉が美容関係なので、よくおもちゃにされて、お化粧の練習台になっていました。それも変な気持ちでしたね」

「かまってもらうのはうれしかったんですけど(笑)」

02女の子になるための恋愛願望

気持ち悪いな。何だコレ

中学に入ると、お姉ちゃんたちと同じように『女の子にならなくちゃ』という意識が芽生えてきた。

「そのためにはどうしたらいいか、という自分の問いに対する答えが、あまりに単純なんですけど、『男の子を好きになること』でした」

そして、その念願は比較的すぐに叶う。

「中2のときに、彼氏ができたんです。サッカー部の男子で、学年でもよくモテるカッコいい子でした」

「私のほうから告白をして・・・・・・、それでおつき合いを始めました。頑張ってつき合っていたんですけど、でもだんだん疲れてきてしまって」

背がすらっと高くて、運動も万能で勉強もできる人。

「今にして思えば、恋人というよりはカッコいい憧れの存在だったのかもしれませんね。一緒にいると、とても楽しかったんですが・・・・・・」

だましだまし続いていた2人の関係が、あることを境に変化する。

「中3のときに初体験をしたんです。それをすれば、女になれるという希望の行為でした。ところが、その直後の感想は、『気持ち悪いな。なんだ、コレ』」

思い描いていた「女の自分」を発見することはできなかった。

「逆に、ダメなんだな、やっぱり、と諦める結果になってしまいました」

結局、高校進学を前に彼とは別れることになった。

「私は高校でソフトボールを、彼はサッカーを、それぞれ頑張るために別れようと、理由をつけた感じでした」

憧れだったユニフォームを着る

母親の母校でもある藤村女子高等学校に進学。

ソフトボール部に入り、部活ひとすじの日々が始まる。

「藤村のソフトボール部は、全国選抜大会に毎年出場する強豪校で、小学生の頃からお母さんと一緒に試合を見にいっていました」

「まさに憧れのユニフォーム。藤村でソフトボールをやることが、幼いころからの目標でした」

しかし、ほかの部員は中学でバリバリに鍛えてきたエリート選手ばかり。

中学でバスケットボール部だった自分にとって、そのなかで揉まれるのは辛かった。

「開き直って、初心者ですと申告して、うまい子から教えてもらいながら頑張りました。ひたすらバットを振り続けましたね」

「チームのみんなとは、今でも仲が良くしてます」

ケガに悩まされることも多かった。

「ようやくスタメンで出場したと思ったら、ねん挫をしてしまったり、体育の授業でむち打ちになったり」

「自分が試合に出られないのは悔しいけど、そのときに知ったのは、選手たちをサポートする大切さでした」

仲間をサポートする喜びは、後に従事する福祉の仕事に通じていく。

ソフトボールに熱中。恋愛はお休み

ソフトボールに熱中するあまり(?)、高校時代に好きな子は現れなかった。

「それが不思議なんですよね。かわいい子もいたはずなんですけど」

「ずっと後になってから、当時の同級生に、『何で私に好意を抱かなかったのよ』って怒られたりしています(笑)」

「ソフトボールでは毎週のように遠征で一緒に泊まったり、チームメイトの家に遊びにいったり。何か起こってもおかしくない環境だったんですけどね」

中学生のときに感じた、「女の子にならなくちゃ」という違和感も影を潜めた。

「髪を短く刈ったボーイッシュな姿も普通に受け入れられたし、周りが女の子ばかりですから性別の違いを意識することもなかったんでしょうね」

「後輩からモテたりすることもありましたけど、所詮、女同士だから次のステップにいくことはなかったですね」

集中するものがあると、セクシュアリティの違和感を感じないという説もある。

「憧れていた学校に入って、やりたかったソフトボールを一生懸命にやっていましたからね。悩む余裕もなかったというのが正直なところです」

「共学で熱中するものがなければ、違ったかもしれませんね」

高校に入っすぐに、髪をバッサリ切ってボーイッシュに変身した。

「服装もジャージが多かったので、地元の友だちにはあまり会いたくありませんでしたね。公衆トイレで男と間違われたこともありました」

03頭をもたげたセクシュアリティの疑問

初めて間近に接した当事者

将来、体育の教員になることを目指して、東京女子体育大学に進学。

大学も母親の母校だ。

「母親からも、体育大にいくなら東京女子体育大にしなさい、と言われてました。その頃から子どもが好きで、保育や養護の専攻も考えてたんです」

部活は、野球部を選ぶ。

「ソフトボールは高校で燃え尽きました(笑)」

東京女子体育大学の野球部は、大学選手権を争う常連校だ。ところが、野球部に入ったことが、人生の綾となる。

「セクシュアリティに悩んでいる先輩がいたんです。自分では高校時代と何も変わらないつもりだったんですけど、悩んでいる人を目の前で見たら、『あれ?』と思ってしまって・・・・・・」

「その先輩は治療をしたいがために大学を辞める、という決断をしようとしてました」

「そんなに悩むことなのかな、そんなに辛いことなのかな、と疑問に思いつつ、自分自身の問題に直面するようになりました」

「あれ?」という自分の性に対する疑問は、意外にも大きな不安となって膨らんでいく。

「何なんだろう、自分は? という、今まで考えたこともなかった感情に襲われるようになりました」

収まらなくなってきた辛い気持ち

気持ちが通じ合う親友もできたが、それも「自分はレズビアンなのか?」と悩みを深める結果になってしまった。

「『女としてどう生きる?』というより、『人間として何ができる?』と考えるようになったんです」

セクシュアリティの問題に、目を背けようとしていたのかもしれない。

野球部を退部した。

「そのときに、母親の関係で特別支援級の子たちを介助するアルバイトの話をもらって。そのバイトに集中することにしました」

ほかのことに気持ちを向けたつもりだが、揺れる心は収まらなくなっていた。

「『何だろう、この気持ちは? 分からないぞ』と。ひどい時期は、死にたいとまで思い詰めたこともありました」

「20歳になったときに、『ああ、20歳になっちゃった』と思いました。自分はその前に死ぬと思い込んでいたんですね」

「きっと生きた心地がしていなかったんだと思います」

04女の子の一言で気持ちが楽になった

成人式で実現した三姉妹の振り袖姿

成人式では振り袖を着た。

「三姉妹で振り袖を着て写真を撮るのが、長女の夢だったんです」

「着る前までは、嫌だなぁと思っていましたが、お化粧をして振り袖姿になると、『きれいだね』なんて、みんなに誉められて」

「お母さんも喜んでくれて、結果的にいい思い出になりました」

両親が喜ぶ顔を見るのがうれしかった。
自分の中では成人式の振り袖は、ひとつの区切りとなった。

「友だちは私がスーツで来ると思っていたようですけどね(笑)」

セクシュアリティの悩みは依然、自分の心に秘めたままだった。

「自分で女子大を選んだわけですから、卒業するまでは女でいよう。そして、社会に出てからは男だから、女だからではなく、一人の人間として受け入れられることを考えよう、と気持ちを整理しました」

その頃からネットでいろいろな情報を得るようになる。

「『男になるには』というキーワードで検索を始めました。でも、真剣に考えていたかというとそうでもなく、まだ夢の話にしかとらえていなかったと思います」

そこまでの勇気もなかった。

辛い質問に助け舟を出してくれた女の子

バイト先で世話をしていた子どもから、「先生は男なの、女なの、どっちなの?」と質問されることがあった。

「子どもたちは、素直に聞いてきますからね。最初は『女だよ』と答えていましたが、だんだんそれも苦しくなってきて」

「『どっちだと思う?』と、子どもに聞き返してごまかしたりしていました」

「あるとき、男の子から『どっち?』と聞かれたとき、近くにいた女の子が『どっちだっていいじゃない。岡部先生は岡部先生なんだから』と助けてくれたんですよ」

「彼女のおかげで、何だか気持ちがすっきりしました。その子の顔は今でも覚えています」

そのころから「男になる」という目標が明確になっていく。

ネットで盛んに検索を重ね、手術に関してもだんだん知識を深めた。

「当事者の話も聞いてみようと思って、会いにいったこともありました。リアルな話を聞くと、治療のことが具体的になっていきましたね」

「だんだん自分の居場所がはっきりしたというか、『よし、これだ』という気持ちが深まりました」

05受け入れてもらえなかった、涙のカミングアウト

応援してもらえると期待していた

次第に、男性になるという気持ちをごまかせなくなっていった。

そして、ついに最愛の人へ告白を決断する。

「母親にカミングアウトしたのは、21歳のときでした」

母親は憧れの人であり、最大の理解者。
自分の判断を理解してもらえる、応援してもらえると期待していた。

ところが・・・・・・。

「優しい言葉は一切、返ってきませんでしたね。『そんな話はしないで』『そんなはずはない』と、突き放されました」

「とてもショックを受けました。もちろん、お母さんもショックだったんでしょうけど」

カミングアウトの後は、完璧にシャットダウン。
一言も口も聞いてもらえない日が続いた。

そこまで真っ向から拒絶されると、自分も開き直ってしまった。

「分かってもらいたいという気持ちも消えて、『何なの、この親』と、そっぽを向いてしまったんです」

3週間ほどして、母親から話を聞いた次女に呼び出された。

「『お母さんはあなたのために生きてきたのよ。お母さんがかわいそうでしょ。お願いだから嘘だと言って』と」

説得された。
姉も必死だった。

「『お母さんが死んでから治療すればいいじゃない』とも言われました。『親がいるうちは、今のままでいて』と・・・・・・」

しかし、覚悟を決めた決断を変えることはできなかった。

意外にも柔軟だった父親の対応

衝突が多かった父親にも、カミングアウトをするときがきた。

大学卒業を控えたバレンタインデーの前の晩に、レポート用紙一枚の手紙を書いた。

「お父さんがいつも座る席に置いておきました。翌朝、呼び出されて『分かっていたよ。お前が着る服を見ていれば、気づくだろう』と言われました」

怒鳴りつけられると覚悟していたが、意外にも対応は優しかった。

「『パソコンの履歴を調べたら、全部分かったよ』って。父にはすっかりバレてました(笑)」

実は、治療法などの検索は家族共有のパソコンを使っていたのだ。

「むしろ、姉たちに相談をしていなかったことを叱られました。悩んだときに相談するのが、きょうだいだろう、と」

父親のその言葉に素直に頭が下がり、涙が止まらなくなった。

同席していた母親は、うつむいたまま一言も口を開かなかった。

「父親は職場で男女平等の勉強会についての研修を受けていたようなんです。戸籍が変えられること、そういう生き方があるってことを、私よりくわしく知ってました」

「頭が硬い人だと思っていましたから、柔軟な考え方をするので驚きました」

「ただ、『男性として生きるのは甘いことじゃないぞ』とだけ、釘を刺されました」


<<<後編 2018/09/06/Thu>>>
INDEX

06 改名、治療、そして就職
07 性別適合手術を受け、男として社会の一員に
08 家庭を持つことの難しさと新たな希望
09 当事者だからできるLGBT支援の発信
10 少しずつ夢が実現してきた

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