02 女性に分類されることへの違和感
03 フィールドワーク部という居場所
04 妹が教えてくれた「性同一性障害」
05 沖縄に来たことが人生の転機
==================(後編)========================
06 ウツワに生き物を描く
07 自己表現のひとつとしての陶芸
08 FTMでありゲイなのか?
09 将来は子どもを授かることも
10 閉じていた思春期を振り返って
01自分が女の子だという意識はない
無口な父とおしゃべりな母と、しっかり者の妹
「妹がいるんですけど、歳は3つ下で僕よりずっとしっかりしてます(笑)」
「このあと一緒に東京を回ろうって話をしてるんですよ」
現在は沖縄在住。
LGBTERのインタビューのため東京に来た。
そのタイミングで、「せっかくだから」と大阪に住む妹と待ち合わせをして、東京の気になるスポットを巡る予定なのだ。
「小さいときはケンカもしましたけど、中学くらいから相談相手になってくれていて、性の悩みとかも妹に打ち明けたりして、めっちゃ仲良いです」
「父と母とも仲良いですね。昔から、僕がボーイッシュな格好をしていても、なんにも言わなくて、『好きにしなさい』って感じでした」
そのおかげで、制服の着用が義務となる中学入学までは、服装に関してはストレスを感じることはなかった。
「父は無口なんですけど、家族を愛してくれてるんだなっていうのが伝わってくる感じの人。完全にアウトドア派で、ひとりで山に登ったりしてるタイプです」
「母は真逆で、おしゃべりで、いわゆる “大阪のおばちゃん” って感じの人(笑)。インドア派で、手先がすごい器用で、パッチワークとかトールペイントとか、いつもなにか作ってました」
青いランドセルを背負って
幼い頃、休日は父に連れられて、山の中で生き物を捕まえて遊ぶことが多かった。
「カエルを捕まえてみたりとか、メダカを捕まえてみたりとか。気づけば、父のほうが必死で捕まえてることもありましたね(笑)」
「そうやって、自然のなかで過ごす楽しさを体験させてもらったおかげで、いま、僕が “生き物好き” なのかなぁって思います。妹も母も、家族みんな生き物が大好きなので」
「家族でキャンプに行ったりもしてましたよ」
ズボンをはいて生き物を捕まえて遊ぶ子ども。
どこから見ても “少年” だった。
しかし小学校高学年になり、徐々に児童のあいだにも性差が見えてくるようになると、ボーイッシュな姿をからかわれることもあった。
「オカマって言われることがあったので、『オカマじゃないわ、オナベや!』って返してたみたいです(笑)」
「自分で選んだ青いランドセルを背負っていて、自分が女の子だって意識はなくて。体育の授業などで男女に分けられたときに、『え、自分はコッチ(女子)なの?』って感じながらも、深くは考えてなかったと思います」
そんななか、性別に対して強烈な違和感を抱いたことがある。
「バレンタインデーの日に、母から『お世話になってるから、これ持って行きなさい』って同級生のある男の子のためのチョコレートを渡されたことがあったんです」
「でも、女の子が男の子にチョコを渡す日に、なんで僕がチョコを渡すんや!? って・・・・・・」
「しかも、たぶん、僕はその男の子を好きだったんだと思うんですよね」
「いま思えば、それが僕のセクシュアリティを表してるように思います」
02女性に分類されることへの違和感
スカートをはいて『エエーーーッ!』
小学校の頃は、自然のなかで生き物と戯れるほかには、男の子と一緒にドッジボールやかけっこをして遊んだ。
「女の子なのに男の子とばかり遊んでいる」と、たまにからかわれることもあったが、特に気にすることはなかった。
しかし、中学校に入ると状況が変わる。
「入学前の制服の採寸のときに、『山本さん、こっちですよ』って女子の列に並ばされて、スカートの丈を測られて、エエーッ! って」
「そして入学式でスカートをはいて、また、エエーーーッ! って(苦笑)。自分はコッチ(女子)なんだ、と愕然としました」
なんとなく自分は女子なの? と感じながらも、深く考えず、短い髪の毛で、ボーイッシュな服装で、男の子と一緒に駆け回って遊んでいた。
うっすらと感じていた違和感のようなものが、ここではっきりとしたのだ。
内向的になり、人と話せなくなる
「中学に入って、男女で二分される社会になったときに、自分がどっち側の人間なのかわからなくて、すっごい混乱したというか・・・・・・」
「そのせいで、クラスで女の子と一緒にいたら自分が女の子に見えてしまうし、男の子と一緒にいたらからかわれてしまうし、周りからの自分の見え方が気になりすぎて、人と話せなくなっていったんです」
消極的になり、内向的になり、次第に自分を殻の中に閉じ込めていく。
同時に、成長にともなって変化していく体への違和感も生じてくる。
違和感は、クラスの男の子の声が低く変わったとき、自分との体格差を感じたとき、大きくなっていくようだった。
その苦しさを言語化できず、誰にも相談できず、さらに殻を固くしていった。
「家では、小学校の頃と同じように生き物を捕まえてきては、楽しそうに育てていたりして、特に悩みを抱えているようには見えなかったと思います」
通っていたのは中高一貫校。
6年間、周囲の環境は変わらず、殻を破るきっかけもなかった。
「どんどんどんどん人と話せなくなっていきました。自分でも、自分がなぜ話せないのかわからなくて、ただただ苦しくて」
一番つらかったのは、自分が女性として見られているという気持ち悪さだった。
「なんか逃げ出したくなるような感覚。でも、そのときは、なぜ逃げ出したい気持ちになるのかもわかっていませんでした」
03フィールドワーク部という居場所
クラスで誰とも話せなくても
固い殻の中に閉じこもっていた中学高校時代。
友だちもおらず、クラスでは孤独だったが、唯一の居場所があった。
「フィールドワーク部っていう、野外観察したりとか、化学実験をやったりとかする部活があったんで、悩みを抱えていて、周りとのコミュニケーションに問題があっても、なんとか、そこで存在できてたなって思います」
「やっぱり、小さいときから変わらず、カエルとかトカゲを捕まえてきては飼育ケースに入れて、家で世話して、家中を飼育ケースで埋め尽くしていて」
「学校の帰り道も、双眼鏡で野鳥を探して、見つけた鳥のことを調べて、データを書き留めておく、みたいなことをしてましたんで(笑)」
自然に対する関心は、年齢を重ねても変わらなかった。
「化石を掘りにいったりとか、どんぐりを拾って来てクッキーにしたりとか(笑)。フィールドワーク部は、自然のなかでできることはなんでもやれて、自分にはうってつけの部活だったんですよ」
「クラスでちょっと苦しくても、部活に行けば居場所がある、って感じで。人とのコミュニケーションがとれなくても、自分がおもしろいと思うことにひたすら情熱を注いでました」
中高時代を悪夢のように思い出す
コミュニケーションがとれないでいた頃のことを、いまになって考えると、「クラスの子たちも自分をどう扱っていいのか、わかんなかったのかも」とも思う。
「校則が厳しい学校で、男子は髪を刈り上げなくちゃいけなかったんですけど、僕は女子でスカートをはいているのに、髪は刈り上げて、靴下も女子のじゃなくて男子のをはいて」
「女の子として見られることから逃げたいんだけど、どうしたらいいのかわからなくて・・・・・・そんな見た目で無口で・・・・・・ちょっと怖いじゃないですか(苦笑)。だから、周りも話しかけづらかったんだろなって」
クラスで孤立していたのは、周りのせいじゃない。
自分が、殻に閉じこもっていたせい。
「悩んでいたのは、きっと自分だけじゃなくて、周りの子たちも、思春期だったし、それぞれ悩んでいたこともあったと思う」
「だから、いま思うと、悩んでいたのは特別なことではなかったとは思うんですけれど。いまでもあの頃のことを、悪夢のように思い出します」
ふと下を向いたら、スカートをはいている。
あれ、なんでだ、自分は男になったはずなのに。
フラッシュバックのように、苦しさがよみがえってくるのだ。
04妹が教えてくれた「性同一性障害」
性同一性障害の当事者のコメントを読んで
自分の気持ちとは関係なく、体は成長し、胸は膨らんでいく。
説明のつかない苦しみは、ますます大きくなっていって、そのうちに、とうとう自分の殻の中に秘めておけなくなった。
「高2くらいのとき、妹に、自分の胸が膨らんでいるのがイヤだ、って話をしたら、『え、それっておかしいよ、私、そんなこと思ったことない』って言われて。そのあと、妹はなんかいろいろ調べてくれたみたいなんです」
「性同一性障害(性別違和/性別不合)っていうのがあるんだよ」と妹は教えてくれた。
「あ、それか、って腑に落ちた感じがしました」
「それを機に、自分でも本を読んだりネットを見たりして調べて、『あぁ、この世の中には、自分と同じような人がいるんだ』って実感できて、そこから自分の環境を変えていけるかも、と考えるようになりました」
「特に実感できたのは、性同一性障害の当事者のコメントがいっぱい載ってる本です。自分の周りにはいないけど、きっとどこかには当事者が本当にいるんだ、って感じられたので」
朝からズボンをはける!
まずは、母に手紙を書いた。
「女性として生きるのがつらい。男性として生きたい」
「手紙にはそう書きました。あと、なんか、『ごめんなさい』みたいなことを書いたら、母から『謝ることじゃないよ』って言われました」
手紙でのカミングアウトのあと、母はすぐ、制服について、スカートでなくズボンで通学できないかと、学校に掛け合ってくれた。
通っていた中高一貫校は、仏教系の “お堅い” 感じの学校。
当初、制服について相談するも、「前例がない」と一蹴されてしまう。
「それでも、必死で協力してくださった先生方もいて、卒業する直前くらいに、女子用ズボンというのが用意されて、制服はスカートかズボンかを選べるようになったんです」
「実は、その前から、制服バザーで買ったズボンを、学校帰りに隠れてはいていたりもしてたんです(苦笑)。でも、それからは大手を振って朝からズボンをはける! って、むっちゃうれしかったですね!」
「きっといまも、母校ではズボンで通ってる “女子生徒” もいるんだろうなって思うと、自分が前例になれたのがうれしいなって思います」
05沖縄に来たことが人生の転機
生き物たちの洗練された美しい姿
高校生の頃の将来の夢は、ただひとつ。
生物の研究者になって、カエルの研究をすること。
生物学が学べる大学を受験し、沖縄の琉球大学に合格した。
「自然が好き、ってだけで、研究者になって食べていけるのか、とかあんまり深くは考えてなかったですね(笑)」
「ただただ、カエルが大好きで。だって、成長とともに体が完全に変わるってすごくないですか? 水中で生まれて、鰓呼吸が肺呼吸に変わって、形も変わって、陸上で生きられるって・・・・・・。そこが、なんていうか、憧れもあるのかもですけど、やっぱり神秘的だし、魅力的だなぁって」
「もちろん、見た目がかわいいっていうのもあります(笑)」
カエルだけではない。
自然のなかにいる生き物はすべて、進化という長い時間のなかで、無駄が削ぎ落とされ、洗練された姿をもつ。
だからこそ美しいと、ずっと感じている。
「沖縄に住み始めてからは、カエルを飼ったりはしてないですね。周りにいっぱいいるんで。夜とか、家の中にぴょんぴょん入って来ますよ(笑)」
「ほんと最高の環境です」
男性として生きていく自信
最高の環境だといえるのは自然の豊かさだけではない。
沖縄には、自分が “女子生徒” だった頃を知っている人はいない。
変えるならいまだ、と思った。
「ここで男性として生きていけないんだったら、今後はもう男性としては生きられないだろうと思って、周りにカミングアウトしていったんです」
「沖縄で出会った人たちが、すっごい大らかな人たちばっかりで、カミングアウトしたら『あ、そうなんだ』『なんくるないさー』って感じで(笑)」
「そのおかげで、男性として生きていく自信がついてきて、徐々に治療をしていこうと思うことができました」
ホルモン治療を始めたのは20歳。
乳房切除手術を受けたのは21歳。
家族には治療を始める前に報告した。
「両親は『あ、そうか、気をつけて』みたいな感じで。妹からは、胸オペ前に『いってらっしゃい、死ぬなよ』って言われました(笑)」
家族はみんな応援してくれていたが、内心では心配していたと思う。
「治療に関しても、大阪から沖縄に行くときと同じように『あんたの人生だから』って感じで送り出してくれました」
「沖縄に来たことは、いまの僕にとって大きいです。人生の転機になったというか。沖縄の土地と、出会った人たちに感謝です」
いまや沖縄は第二、いやもしかしたら第一の故郷と呼べるかも知れない。
「どこに帰るかときかれたら、沖縄って答えます(笑)」
「陶芸という自分の表現を見つけた場所で、男性としての生き方を見つけた場所でもある。ふたつの自分のアイデンティティを培った場所だから」
「そんなふうに言ったら、大阪にいる家族に怒られちゃう(笑)」
<<<後編 2024/10/04/Fri>>>
INDEX
06 ウツワに生き物を描く
07 自己表現のひとつとしての陶芸
08 FTMでありゲイなのか?
09 将来は子どもを授かることも
10 閉じていた思春期を振り返って