INTERVIEW
等身大の「私」を、まだ出会っていない人たちへ届けませんか?
サイト登場者(エルジービーター)募集

FTMとしての再スタートにかかった時間は、無駄ではなかった【後編】

FTMとしての再スタートにかかった時間は、無駄ではなかった【前編】はこちら

2024/10/25/Fri
Photo : Tomoki Suzuki Text : Hikari Katano
西村 祐希 / Yuki Nishimura

1990年、奈良県生まれ。幼少期から体を動かすことが好きで、母の影響で中学からバレーボールに打ち込む。大学卒業後に数年間、母校である中学校で保健体育の教師として働いたのち、理学療法士に転向。現在はコーチングをしながら、フリーランスの整体師としても活動している。

USERS LOVED LOVE IT! 8
INDEX
01 仲良し家族
02 活発でボーイッシュな女の子
03 自分は何者なのか?
04 FTMのあるべき姿
05 嫌々撮った、成人式の前撮り写真
==================(後編)========================
06 母へのカミングアウト
07 「教師なめんなよ」
08 改めてカミングアウト
09 男性として歩み始めて
10 新しい家族と新生活

06母へのカミングアウト

アルバイト先の上司に相談

大学卒業前、社会人になる前に一度、性同一性障害(性別不合/性別違和)の診断を受けておいたほうがいいのでは? と思い立つ。

「いつになるかは分からないけど、ゆくゆくは治療して男性として生きたいって思ってたので、まずは診断をもらっておこうと」

「病院の資料を取り寄せて、リビングのテーブルの上に置いたままアルバイトに出かけたんです」

カミングアウトとして、あえて母の目に付くところに置いた、性同一性障害に関する病院のパンフレット。

「でも、どういう反応されるんやろ? って思ったら、家に帰るのが怖くなっちゃって・・・・・・」

信頼していたアルバイト先の歳の近い先輩に、自分の不安を相談した。相談と当時にカミングアウトすることになった。

「大丈夫やから帰りや、って言われました(苦笑)」

自分の勤務先にはいなかったが、全国的にはスポーツジムで働くトランスジェンダー当事者は当時も一定数いたことから、僕のことを理解してくれていたようだ。

僕に対する母の認識

家に帰ると、母のほうから「へえ~、そうなんや」と声をかけられた。

「母は、性別違和があるから診断をもらいに行くけど、手術をするほどではないと思ってみたいです」

成人式の前撮りなど、それまでにも女性扱いされることを拒否している自分の姿を、母は何度か目にしている。

僕が性別違和を持っていることを、多少なりとも理解していたはずだ。

でも、このときも母は自分のことを「ボーイッシュな女の子」の延長線上でしかとらえていなかったと思う。

母に改めてカミングアウトをするタイミングは、もう少し先の話。

07「教師なめんなよ」

教師のキャリアスタート

大学卒業後、教育実習で訪れていた母校の中学校で働き始めた。
妊娠した保健体育の先生の代わりだ。

「大きな中学校だったので、1学年の女子生徒を担当してました」

保健の授業で、女子生徒を相手に生殖について教えるときが一番ネックだった。

「女性の先輩としていろんなことを経験している前提で、自分の体験談とかを交えて説明することが普通だと思うんですけど、それが嫌だったんで、さも経験してないかのように話してました」

「女性の先生として教壇に立ってるけど、女性として見られたくなかったんですよね」

とはいえ、どうしても女性教師としての対応が求められる。

「授業だけじゃなくて、修学旅行中の見守りとか、何かにつけてどうしても女子生徒の担当になるので・・・・・・」

複雑な思いを抱く場面が多かった。

先輩の先生に相談

女性教師として求められることと、自分の性自認との葛藤について、教員になってからお世話になってきた先輩の先生に相談した。

「15歳近く年上の音楽の先生に、実は自分はトランスジェンダーで・・・・・・ってことを話しました。当時、結構さらけ出して話したと思います」

それまでもアルバイト先の先輩をはじめ、高校や大学の親しい友人など、何人かにカミングアウトしたことはあった。

だが、みな年代が近いことによる安心感があった。

「音楽の先生は歳が離れてたので、大人に伝えたらどう反応されるんだろう? 受け入れてもらえるのか? って、少し不安でした」

先生から返ってきた言葉は「教師なめんなよ」だった。

「教師は人権にかかわる研修を受けたりしてるし、いろんな子どもを受け入れる努力をしてきてる。なのに、トランスジェンダーであることを受け入れてもらえるのか? って不安に思われてるのは残念だ、って」

年が大きく離れた年上の世代に受け入れてもらえたことがうれしかったと同時に、年代にかかわらず受け入れてもらえるんだ、という経験を得た。

08改めてカミングアウト

2度目のカミングアウト

大学卒業前のタイミングに、自宅に性同一性障害の資料を置いていってから、母とセクシュアリティについてちゃんと話してこなかった。

「僕がカウンセリングで病院に通ってることは、母も気づいてました」

「中学校でまだ働いているころ、病院の先生から『お母さんにカミングアウトしてからホルモン治療をしよう』と言われてたんですけど、カミングアウトする踏ん切りがつかなくて・・・・・・」

母に伝えられなかったのは、否定されたらどうしよう? という不安が大きかったから。

「次のカウンセリングのときには母を連れて行きますね、って先生に言った日は『今日こそは言わなあかん』と思ってたんですけど、結局またベッドに引きこもってしまって」

ある日、母が「晩御飯やで」と僕の部屋まで声をかけに来た。でも、どうしてもベッドから出られない。

様子がおかしいと思った母と、そのまま話し合いの流れになる。

「男性として生きたい、いずれは戸籍の性別も変えたい、って話しました」

「母は、そこまで悩んでるとは知らなかった、って」

なかなか戻ってこない母が気になった父も、自分の部屋に来た。

「父は『自分は味方やから。好きなようになったらええよ』って言ってくれました」

後日、カウンセリングに母を連れて行った。

「手術の写真とかを提示されたこともあって、母は泣いてましたね」

子どもの健康な身体にメスを入れなければならない事実に直面して、母は涙を流したのだろう。

理学療法士の道へ

信頼している先輩の先生にセクシュアリティを打ち明けられたことはよかったものの、それだけで日々のモヤモヤが解消されるわけはない。

「男性の教師として働きたいと思っても、そのときは治療もしてないから難しい。それなら、臨時採用である今の段階でいったん辞めようと」

担当していた学年が卒業を迎えるタイミングで、自分も教師を辞めて別の道に進むことに決めた。

「姉が4年制大学を卒業したあとに専門学校に通った姿を見てたので、一度社会人になってからもう一度学校に通って学び直す選択肢もあるな、と」

理学療法士を目指す。

「高校卒業前、進学先の大学を選んでいるときに姉から『理学療法士になったら?』と勧められたことがあったんです」

「スポーツインストラクターのアルバイトをしているときにも、一対大勢より一対一でのコミュニケーションのほうが性に合っていると感じてたので、理学療法士としてチャレンジしてみたいと思いました」

09男性として歩み始めて

「自分のままでいい」と思ったからこそ・・・

専門学校に通っていた時期は、セクシュアリティへのこだわりが強い時期でもあった。

「当事者の交流会とかに参加して『いろんな生き方の人がいるんだ。自分も、自分のままでいいんだ!』って思えるようになったら、むしろ性へのこだわりが強くなってしまったんです」

学校側にはさまざまな対応を求めた。

「たとえば、トイレは多目的トイレを使っていいですよ、と言われたんです。でも、多目的トイレを使ってるのをだれかに見られたらどうすればいいんですか? とか質問したり・・・・・・」

「実習先の病院でも、着替える必要があったので自分用の更衣室として特別な部屋を用意してもらうことになったんです。でも、ほかの実習生に『なんで、あなただけ別室で着替えてるの?』って言われたらどうすればいいのか? って学校に問い合わせたりもしました」

トランスジェンダー当事者への配慮として「特別待遇」されていることが気になる。

今になって振り返ると「自分を分かってほしい」という思いが強すぎたと感じている。

「専門学校を卒業して再び社会人として就職するときには、男性として働きたい! という思いが強かったんだと思います」

ホルモン療法に対する不安

男性として働くため、専門学校を卒業する前に胸オペを済ませた。

「次はホルモン治療の段階なんですけど、治療を受けたら周りからどう思われるんだろう? って悩んでしまって」

ホルモン療法を受ければ声も低くなるし、髭や骨格など、見た目にも変化が現れる。

「ホルモン治療をすれば後戻りできない。本当にそれでいいんだろうか? って・・・・・・」

在職中に男性として変化していくことを明かして、就職活動を始めた。

「学校の先生とつながりのある病院の就職試験を受けたんです。ツテもあるし受かるだろうと思ってたんですけど、4月になる直前に不採用になってしまって・・・・・・」

なんとか訪問看護ステーションでの働き口を見つけて、理学療法士としてのキャリアをスタートさせた。

でも、今度は想像していた仕事とのギャップに悩まされる。

「本当は、健康な人をより健康にして、働きやすくすることをサポートしたかったんです。でも、訪問看護の現場はご高齢のかたばかりで、現状維持が目標なんですよね・・・・・・」

自分にしかできないことをしたいと思い、フリーランスの整体師となるべく、整体師のコミュニティで勉強を重ねるようになった。

10新しい家族と新生活

うれしいけれど大変な日々

2024年春から実家を出て、実家の近くでパートナーと同居を始めた。

「パートナーはシングルマザーで、4歳の子どももいます」

「生活リズムが違うから、慣れるのに時間がかかりました。最近やっと落ち着いてきたところです(苦笑)」

子育ての大変さを実感しているところだ。

「一緒に生活して子育てすることが、想像していたよりもとても大変で。たまに会うのとは全然違いますね」

「子どもに親として接していくことが今の目標です」

いろんな人に気づきを与えられる人に

現在は、目標達成や自己実現をサポートするコーチとして、そしてスペースを借りてフリーランスの整体師として働いている。

「実家を出ましたけど、今住んでいる場所から近いし、実家にはよく帰ってます。母からは『また来た!』って言われてます(笑)」

夢は、コーチングや整体師の仕事を通して生活をよりよくする、気づきを与えられる人になること。

「今はトランスジェンダーやLGBTQ当事者にかかわらず、いろんな人に向けて活動したいと思ってます」

「セクシュアリティだけじゃなくて、生きづらさを抱えてるけど自分の身体の不調にそもそも気づいてない人って、多いんじゃないかなって」

社会人になると、さまざまなしがらみのなかに自分を溶け込ませることに慣れてしまって、自分の抱える生きづらさや不調に鈍感になる・・・・・・。

そんな人が少なくないのではないか。

「自分らしさを取り戻すスペースを提供したいと思ってます。僕が持ってるツールはコーチングと整体、講演活動だけど、たとえばアートとか、いろんな技術を持った人とコラボしながら実現したいですね」

長い時間をかけて「FTMらしさ」から抜け出して、僕らしさを見つけることができた。

この経験と整体の技術を生かして、これから自分ができることを見つけていく。

 

あとがき
自分らしさを取り戻す方法? たとえば、自分でリサーチして、自分で決めて、行動を起こす、とか? それはまさに祐希さんではないか!?祐希さんは手に入れながら手放しながら、生きる場所を自分で選んできた■持ち前の行動力は、愛ある登場人物からの贈りものでもある。練習試合でも全力で応援してくれたお母さん。カミングアウトで「味方やから」と言ってくれたお父さん。不安を一蹴してくれた音楽の先生・・・。贈られたエールは、今も息づいているに違いない。(編集部)

関連記事

array(1) { [0]=> int(25) }