INTERVIEW
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67歳を迎えた。これからはトランスジェンダーの一人として社会に登場し、多くの人の役に立ちたい【前編】

春色の淡いピンクのシャツで取材現場に訪れた伊藤結希さん。性別移行がきっかけとなって、長らく生活をともにしてきた家族とは離別したが、新しいことにチャレンジする意欲はむしろ高まっている。LGBTQ当事者にとって不遇ともいえる時代を過ごしてきたが、過去の自分を否定的にとらえることなく前向きに生きていける理由は、どこにあるのだろうか。

2025/07/27/Sun
Photo : Taku Katayama Text : Hikari Katano
伊藤 結希 / Yuki Ito

1958年、千葉県生まれ。昭和という時代背景や、一人っ子として生まれてきたこともあり、性別違和をはっきりと自覚できないまま幼少期を過ごし、男性として社会人をスタートした。インターネットが普及するにつれてMTF(トランスジェンダー女性)だと自覚し、徐々に女性として振る舞い始める。定年退職後は「レインボー千葉の会」のメンバーとして活動している。

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INDEX
01 一人っ子・かぎっ子はさみしい?
02 多動な子ども
03 学ランにモヤモヤ
04 変態扱いされたくない
05 激務の銀行員
==================(後編)========================
06 結婚は深く考えないこと
07 初めてわが子を抱いたとき
08 トランスジェンダー女性と女装と
09 家族への責任は果たした
10 まだまだ学びたい

01 一人っ子・かぎっ子はさみしい?

キャリアウーマンの母親

高校教員として働く両親のもとに生まれる。

「父親は英語の先生で、母親は養護教諭でした。勤務先の高校が同じだったときに出会ったそうです」

「母親のほうが父親より7歳年上で、姉さん女房ですね」

母親は36歳で私を生み、当時としては珍しい高齢出産だった。しかも私だけの一人っ子。

「本当は、私の妹に当たる子も妊娠したらしいんですけど、妊娠中毒症になってしまって、これ以上は腎臓がもたないから、って断念したみたいです」

さらに、専業主婦が当たり前とされている時代に、母親は私を育てながらフルタイムで働き続けた。

「母親は准看護師、看護師、助産師、保健師の資格をもってました」

一人っ子で、しかもかぎっ子のため、周囲からは『かわいそう』などとよく言われた。

「生まれたときから一人だったから、さみしいなんて思ったことはないんです。なのにそう言われるのは、一種の偏見ですよね」

両親ともに教員ではあったが、教育熱心な家庭だったわけではない。

「勉強しなさい! って怒られた記憶はないですね」

勉強していい会社に就職しなさい、と言われたこともない。

「ただ、母親からは『一番大事なのはここだよ』って、頭を指でさされたことはありました」

あまのじゃくで、急変する父親

普段の父親は理屈っぽいところがあった。

「私が『こうじゃないの?』って言ったら、『いや、そうじゃない!』って、必ず逆のことを返してくるところがありましたね(苦笑)」

でも人当たりはよいほうだった。

「生徒からの人気もそこそこあったみたいで、毎年お正月には生徒や元教え子から2~300枚くらい年賀状が届いてました」

「平日は母親より父親のほうが早く帰宅することが多かったので、夕ご飯は父親が作ってくれました」

母親のほうが年上なこともあり、普段は母親のほうが実権を握っていたが、酒を飲むと父親の態度がいつものときとは変わってしまう。

「お酒を飲むとDVをする人で・・・・・・。母親も私も暴力を振るわれました」

いつも特定の話題で怒られるというより、酒を飲むとただ機嫌が悪くなって、たいした理由もなく怒鳴られ、拳が飛んでくる。

「もちろん、母親も離婚を考えたこともあったでしょうけど、私を育てなきゃいけないから、踏みとどまったんじゃないかと思います」

時代背景として、家庭内暴力は家族の問題とされて表面化しにくく、警察が介入することではないと認識されていたことも関係しているだろう。

02多動な子ども

落ち着かない子どもは成績が低い??

幼いころの自分は問題児だったと思っている。

「いまで言う多動性障害で、じっとしていられないし、人の話を聞けない子でした。そのせいでよく先生から怒られてました(笑)」

小学校低学年のときの通知表は、5段階評価中1ばかりが並んでいた。

「小学校1年生のときなんて、テストらしいテストなんてないじゃないですか。だから評価と言えば、授業態度しか見られてないんですよ」

授業で漢字の書き取りをしたときのことをよく覚えている。

「お手本と同じように書きなさいって言われたから、まったく同じように、ってすごく丁寧に、少しずつ書いてたんですけど・・・・・・」

お手本とそっくりにまねて書くことよりも、時間内に規定量の書き取りを終わらせることのほうが重要だったらしい。

「私だけ終わってなくて、先生からすごく怒られました(苦笑)」

いろいろなことに気が移ろいやすい性格は、友だちと遊ぶときも同様だった。

「興味がわいたほうに自然と着いていっちゃうところがあったので、男の子と遊んでたかと思えば、女の子の遊びが気になったら、それまでの遊びを放っておいてそっちに行っちゃってました(笑)」

実は優秀

家庭で勉強しなさい、と両親に言われた記憶がない理由として、自分の成績も関係しているかもしれない。

「小学校高学年になってくるとテストが増えてくるし、テストの点数で評価されるようになってきて、そうしたら小学校を卒業するころには通知表の成績は5になってました」

「不思議だったのは、体育はそんなに得意じゃなかったのになぜか成績は4をもらえてたんですよね」

教員として学校の裏側も知る父親からは、ほかの成績がよいとそれ以外の科目も自ずと成績がつられてよくなるものだ、と言われた。

03学ランにモヤモヤ

一人っ子だから・・・

子どものころには、身体的な性別違和は感じていなかった。

「多分一人っ子だったからじゃないか、って思ってます」

姉や妹がいれば、自分との差を比較して「自分もああなりたい」「自分の身体は、本来であれば姉や妹と同じようになるはずなのに」と身体違和に気づく場面があったかもしれない。

「物心ついたころからすでにあるもの、元々こういうもの、としか考えてませんでした」

服装へのモヤモヤ

身体違和は感じていなかったが、セクシュアリティに対してなんの違和感もなかったわけではない。

「中学校の後半あたりから、着るものに対していやだなと思うようになりました」

中学校にしては珍しく私服もOKな校則だった。

でも実際には、毎日コーディネートすることが面倒なので、一般的な制服と同じような標準服を着る生徒が大半。自分も男子の標準服である学ランを着て過ごしていた。

「学ランが嫌でしたね・・・・・・」

私服を着ていくにしても、学ランからさほど離れない服装に着地するしかない、という事情もあった。

「昔だからジーパンは素行が悪いから、って禁止されていたんです。そうなると男子生徒は、自分で用意したスラックスをはいていくくらいしか選択肢がなかったんですよね」

制服で感じる男女の格差

高校で県立のトップクラスの進学校に進むと、中学とちがい着用義務のある制服にさらにモヤモヤを感じる。

「女子はダブルボタンのブレザーに、ボックスのプリーツスカートでかわいらしいのに、男子は学ランだったんです。両方ブレザーにしてくれればよかったのに(苦笑)」

でも、なぜ自分は学ランがいやだと感じるのか、その理由がわからなかった。

「当時は、男性が女性の服を着たら『オカマ』呼ばわりされる時代でしたから。もちろんトランスジェンダーなんて言葉はありませんでしたからね」

04変態扱いされたくない

制服とはおさらば!

受験勉強の末、早稲田大学に入学する。

「これでもう制服を着てなくてよくなったんだ! って、本当にほっとしましたね」

日本一レベルのマンモス校で、自分なりにファッションを楽しんだ。

「髪の長さはいまと同じくらいで、ボブくらいにまで伸ばしてました」

「服装もなるべく中性的なものを選ぶようにしてました。ポロシャツを好んでよく着てましたね」

中性的なファッションだけでなく、レディースにも興味はあったが、手を出せなかった。

「レディースの売り場で男性がうろうろしていたら、変な目で見られるだろうなって思って・・・・・・」

このころになると、身体的な違和感も覚え始めるようになっていた。でも、なにかアクションを起こせるわけでもない。

「なんでモヤモヤするのか、その理由はまだ言語化できないままでした」

自分は女性なのに、男性として生活を送らなければならないけれど、どうすればいいんだろう? などと、悩みとして浮上する以前の状態だったのだ。

だからこそ、モヤモヤをおくびにも出さないように努めた。

「ちょっとでも『あれ?』って人から思われたら、変態と言われるかもしれない。だから、絶対に気づかれたくなかったんです」

公認テニスクラブ

性別違和のモヤモヤを抱えて悶々と大学生活を過ごしていたわけではなく、サークル活動にも積極的に取り組んだ。

「大学内に4つあった大学公認テニスクラブの1つに入ってました。高校でも硬式テニス部に入ってたんで、テニスは7年間続けてましたね」

テニスサークルと言えば「飲みサー」など奔放なイメージをもたれがちだが、所属したテニスサークルは大学公認のため、みんな真面目にテニスに取り組んでいた。

「テニスサークルに入ってるアマチュアの大学生が集まるテニス大会に出場したり、大学内で競ったりしました」

合宿でも日夜テニスの練習漬け。

「もちろん大学生らしく、夜は飲み会もありましたけどね(笑)」

05激務の銀行員

業界を変えて

就職活動では、まず食品メーカーを希望する。

「ニチレイやハウス食品なんかを受けましたね」

食品メーカーを希望したのは、なんとなく興味があったことと、人が生きるのに欠かせない「食」なら不景気に陥っても強いだろう、と考えたから。

「大学は実家から通ってましたけど、両親が仕事でいないときには自分で料理してたこともあって、食に興味があったんです」

「でも当時はちょっとした不況に当たったこともあって、全然受からなくて・・・・・・」

食品メーカーではなかなか受からないかもしれない、と地元企業に切り替えて、見事地元の銀行に就職した。

服装どころではない

銀行職で男性として勤務するとなると、スーツ着用が日常となる。でも、社会人として働き始めると、そこにモヤモヤを感じる余裕すらなくなった。

「朝早く出社して、夜は終電まで働くことが当たり前のような職場だったんです」

人材不足が叫ばれて久しい現在では、社員と企業の関係にも目が向けられるようになった。

でも、当時は「24時間戦えますか?」というCMが、疑問ももたれずに放送された時代。

「残業手当も、あってないようなものでした。20時間の見なし残業が付いてましたけど、それ以上の時間働くことが当たり前でしたから・・・・・・。いまで言うブラック企業ですね」

そんななかでも、自分のできる範囲で仕事着に気を遣うようにしていた。

「そのころはいまより太っていて、背も高いので、スーツのサイズはAB7を選んでました」

メンズスーツのサイズとしては、4~6が一般的で、AB7のものは少なく、選択肢がそもそも限られていた。

「そのなかでも、なるべくスタイリッシュに見えるものを選ぶようにしてましたね」

 

 

<<<後編 2025/07/31/Thu>>>

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06 結婚は深く考えないこと
07 初めてわが子を抱いたとき
08 トランスジェンダー女性と女装と
09 家族への責任は果たした
10 まだまだ学びたい

 

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