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「陰キャ」を卒業して人生を楽しんでいるいまが一番幸せ【後編】

「陰キャ」を卒業して人生を楽しんでいるいまが一番幸せ【前編】はこちら

2024/12/06/Fri
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
高橋 翼 / Tsubasa Takahashi

1986年、宮城県生まれ。幼少期から「かわいいもの」に興味があり、小学校高学年から恋愛対象が男子であると感じ始める。社会人になってから徐々に女性としておしゃれを楽しむようになり、30代前半に上京。現在は派遣社員として働くかたわら、LGBTQ当事者向けにファンションコンサルティングも行っている。

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INDEX
01 精神年齢高めの子ども
02 おサル顔がタイプ!?
03 身長が伸びないように
04 ゲイ界隈との出会い
05 つらかった就活
==================(後編)========================
06 「陰キャ」から脱却
07 MTFを知って
08 家族へのカミングアウト
09 LGBTQファッションコンサルタントに
10 人生一度きり!

06「陰キャ」から脱却

肉体労働に従事

大学を中退後、しばらくは家にこもったりゲームセンターに通ったりなど、つらい気持ちから逃げる生活を続けた。

「大学を辞めるにあたって、母にはなにかしら言い訳したと思うんですけど、本当につらかったので、なんて言ったのか覚えてないです」

1年ほど経ったころ、母に「とりあえず働きなさい」と言われた。

自分でもさすがに働かなきゃと思い、大学生のときに経験のあった派遣の仕事や、単発のアルバイトから始めた。

「1年くらい休んで、時間とともに精神的にも回復して、外に出て働けるくらいにはなりました」

とはいえ、コミュニケーションが業務の中心である接客業は、当時の精神状態では難しいと感じる。

いやいやながら、引っ越しや事務所の移転などの肉体労働を中心にこなす日々が続いた。

ターニングポイント

自分が「陰」から「陽」に変わったのは、24歳で初めて就いた長期の仕事がきっかけだった。

「職場で仲良くなった1歳年下の女の子が、私のセクシュアリティに理解のある子で、私のことを女の子の友だちとして接してくれたんです」

その友人と過ごすうちに私のなかで変化が起こり、相手の世代や性別を問わずコミュニケーションがとれるようになっていった。

「服も、レディースのものはまだ着られなかったですけど、かわいいものとかを選べるようになりましたね」

まだこのころは、自分がMTFであるという自覚はなかった。

「当時はいわゆる“オネェタレント” と言われて、テレビで活躍してたはるな愛さんに私は近いのかな、とは思ってましたけど、『トランスジェンダー』って言葉を知ったのはもっとあとです」

それでも、同僚の女性とは「どうすれば、他人から女性として見えるのか?」についても語れるほど打ち解け、好きな服を着て過ごす自分の将来像が少しずつ見え始めた。

「陰キャ」がウソのようにアクティブに

私のことを理解してくれる友人との出会いで「陰キャ」から脱し「陽キャ」の自分が解放されると、人付き合いの幅も広がった。

「ゲイ向けの出会い系アプリ『Jack’d』を通して、自分と同じセクシュアリティの友だちができたのは大きかったですね」

アプリで知り合ったMTFの友人と一緒に、当事者向けの交流会に参加したり、年末に一緒に遊んだりするなどして楽しく過ごす。

初めて男性とお付き合いしたのも、このころだ。

「10歳以上年上のかたで、一緒に過ごしていて楽しい部分ももちろんあったんですけど、中身が子どもっぽくってお別れしました(苦笑)」

性別への違和感を押し留めて男性として過ごしてきたかつての自分と距離を置き、自分らしく振る舞える居場所がだんだんと増えていく。

07 MTFを知って

青木歌音さんにあこがれて

20代後半のころ、「元男の子」の女性YouTuberとして活動する青木歌音さんを知る。

「青木歌音さんを知ってから、トランスジェンダーって言葉を知りました」

それから、LGBTQの基礎的な知識や、性別移行のための具体的な治療法を調べるようになる。

「ただ、性別適合手術(SRS)をして自分の望む性別に変えられたらいいな、とは思ったんですけど・・・・・・」

手術を受けるには、100万円以上の高額な治療費が必要だとわかった。

「金銭的にちょっと現実的じゃないかなって、いまは思ってます」

限界を感じていた父との生活

自分の望む将来像に向けて、セクシュアリティと日常生活との折り合いについて具体的に検討し始めた。

一方で、実際の生活では疲弊していた。

「そのときは、母とではなく父と暮らしていたんですけど・・・・・・」

父は、私が12歳のときに糖尿病を患ってから、合併症で失明したり片脚を切断したりしていた。介護を手伝う人として白羽の矢が立ったのが私だったのだ。

「最初は祖母と一緒に介護してたんですけど、祖母が老人ホームに入ることになってからは、私一人で父を介護してたんです」

父は、兄と同様に「昭和の男」を地でいく人。2人きりで生活し、介護をするには、気苦労があまりにも多すぎた。

「あのころは精神的にストレスがかなり溜まっていて、アトピーが特にひどかったですね・・・・・・」

いざ上京

青木歌音さんをきっかけに始めたことは、トランスジェンダーについて知識を深めることだけではなかった。

「青木歌音さんみたいに、自分のライフスタイルを発信したいなって思ったんです。それなら、地元でやるより東京のほうがやりやすいだろうなって」

父の介護と二人暮らしにも限界を感じていたことは、上京を決める後押しとなった。

当時、アプリを通して遠距離で付き合い始めたパートナーが川崎に住んでいたので、私も川崎に移り住んで、同棲を始めることに。

「父は、いまはヘルパーさんのサポートを受けながら一人で暮らしてます」

関東に移り住んでから、X(旧Twitter)、インスタグラム、YouTubeなどのSNSで、カフェ巡りや、MTFとしての日常を積極的に発信するようになった。

「昔の暗かった自分からは、とても考えられないですね(笑)」

08家族へのカミングアウト

受け止めるが、理解はできない

上京する前に、母にセクシュアリティをカミングアウトしようと決心する。

「母には面と向かって伝えました。『なんとなくわかってた』って言われました」

でも、私が性別違和を抱いている事実を受け止めてくれただけで、現在でも「理解」はしていないと思う。

「私がレディースの服を着たり、髪をロングに伸ばしたりすることは受け入れられない、って感じですね・・・・・・」

私が性別違和を抱えていたとしても、母にとって私は「息子」なのだろう。

「以前、髪を切らないのか、と言われたことがあって。切ってはないですけど、それ以降は帰省するときには一つに結んだりしてます」

たまに仙台に帰ったときには、両親にそれぞれ顔を見せるようにしている。

でも、母と話すときは、体調面など、家族としてごく普通の会話をするのみで、自分のセクシュアリティについて話したことはない。

いい意味で裏切られた、父の反応

父にも、2023年にカミングアウトした。

「父は、意外にもあっさり受け入れてくれたんです」

「父と兄にカミングアウトしよう! って帰省を決めて、その前日に『大事な話がある』って伝えてたんです」

父は、私に告げられることを事前に想像していたようだ。

以前は「昔気質の父には、一生カミングアウトしないままでいよう」と考えていたこともあった。

そんな父が、自分のセクシュアリティを受け入れてくれるとは、思いもよらない、よい驚きだった。

「こんなにすんなりと受け入れてもらえるなら、父にはもっと前にカミングアウトしておけばよかった、って思います」

兄へのアウティング

父と同じタイミングで兄にもカミングアウトしようと思っていたのだが、タイミングが合わず、直接伝えられなかった。

「でも、私のあずかり知らないところで、父が兄に伝えてしまったみたいです(苦笑)」

家族内でのアウティングはよくあることだが・・・・・・。

「私はSNSでもフルオープンにしてるくらいだからまだいいけど、『普通は第三者に勝手に言っちゃダメだからね!』 って言っておきました(苦笑)」

アウティング以降も兄とは会えていないが、気がかりなことがある。

「兄から一言なにか連絡があってもいいんじゃないかって思うんですけど、いまのところ、なにもなくて・・・・・・」

「母は、私のセクシュアリティについて兄とちょっと話したらしいんですけど、そのときも『うん、聞いた』くらいしか答えなかったそうです」

もしかしたら、兄は自分のセクシュアリティを否定的にとらえているかもしれない。でも、不思議と焦りはない。

「受け入れられない人もいるよね、と思えるようになりました」

「カミングアウトは相手に受け入れてもらえるかどうかじゃなくて、宣言することそのものに意義がある、と考えてます」

09 LGBTQファッションコンサルタントに

好きなことと、やりたいことのマッチング

2024年に入ってから、LGBTQ当事者向けのファッションコンサルタントを始めた。

「LGBTQ+の理解向上のために私ができることはなんだろう、って考えたときにたどり着いたのが、自分の好きなファッションでサポートしていくことでした」

2024年7月には、骨格診断アドバイザー2級の資格を取得。

YouTubeやインスタグラム、雑誌などを通してトレンドを吸収しては、自分のファッションに取り入れて発信するサイクルを、日々回している。

でも、おしゃれは大好きだが、ファッションだけにこだわるつもりもない。

「ファッションにかかわらず、トレンドを追うのは好きですね。最近だとAIにも興味があります」

好きなことにのめり込んで、顔やセクシュアリティを公に発信することなど、以前の自分には到底考えられなかった。

「自分でも、人間変わったな! って思ってます(笑)」

副業のために

2024年1月、LGBTQ当事者向けの求人サービスを通して、念願だったアパレル企業に就職できたのだが・・・・・・。

「勤め始めて10日ほど経ってから、副業禁止だとわかったんです。私は副業を続けたいし、社長からもお互いに不幸になるんじゃないかと言われて、早々に退職することになりました」

接点がないと思ったら、自分の意思をきちんと伝えて、遺恨なくさっぱりとお別れできるようになったのも、「陰」から抜け出せたからだろう。

「現在は、派遣社員として銀行のバックオフィス業務を担ってます」

派遣先の企業には、上長1名にだけカミングアウトしていて、表向きは男性社員として働いている。

「オフィスビルの12階で働いてるんですけど、多目的トイレが1階にしかないんですよね。お手洗いの度にわざわざそこに行くってのはな、って・・・・・・」

現在、戸籍上の性別に従って、男性トイレを利用するようにしている。

「でも個室が4つもあるので、いつも並ぶ必要がないのは楽でよかったです」

男性社員として働いていても、メンズのビジネススーツをかっちりと着こんでいるわけではない。

「レディースのパンツスタイルで働いてます。周りからは、見たいように見てもらえればいいかな、って」

10人生一度きり!

後悔なく生きるための性別移行

性別移行の治療を見据えて、2024年6月からジェンダークリニックに通い始めた。

「いまは自分史を提出しているところです。私が受診したクリニックでは、性別不合(性別違和/性同一性障害)の診断をもらうのに10回も通わなきゃいけないって知って、ちょっと驚きました(笑)」

性別不合の診断を受けたらホルモン治療を開始して、将来的には戸籍上の性別を変更したいと考えている。

「父にカミングアウトしようと思ったころに、戸籍上の性別を変更したい、って強く思うようになったんです」

人生一度きり、後悔しないように生きたい。

それならば、自分の望む性別で生活できるように治療を受けたり、戸籍上の性別を変更したりしたほうがいいのではないか、と考えるようになったのだ。

自分のやりたいことをやりたい

性別移行の治療を受けるという意味でも、東京のほうがやはり都合がよく、いまのところ地元の仙台に戻る予定はない。

「私が仙台に住んでたころは、まだ仙台にジェンダークリニックはありませんでした。当時は、仙台に住むトランスジェンダーの当事者のかたは、治療のために東京に通ってましたね」

東京は、地方に比べると他人への関心が低いと感じているが、私にはそれが心地よい距離感だ。

「東京のほうが、LGBTQ当事者は生きやすいんじゃないかって思います。実際、こっちに来てからは、面と向かってネガティブなことを言われたことはないですね」

現在、LGBTQ当事者向けのパートナー探しをサポートしている「LGBTサポート協会」を通して知り合った人と「仮交際」の段階で、将来は真剣にお付き合いする予定だ。

「パートナーと幸せに暮らしたいっていうのが、いま一番優先順の高い目標ですね」

陰から「陽」に変わることのできた理由は、自分の行動力だと思う。

10月には、ファッションショー出演にチャレンジした。

「観客のかたには、私が表現するものを見てもらいたいなと思って、参加しました」

行動の積み重ねで掴んだ、いまの日常。一番幸せ! と、胸を張って言える。

 

あとがき
素材や色彩がなにかではなく、翼さんの装いはトレンドとやわらかさだと感じた。少し遅れて始まった取材だったからか、帰りぎわも取材後のお礼メールにも「遅れて申し訳ありません」と続けて伝えられた。そんなに謝らなくても大丈夫なのに。でも、それが翼さんなんだ■「今日が一番しあわせ」という言葉を知っていると、毎日の生活は少しだけ上を向く気がする。ままならないことは少なくないけれど、人生で “一番若い日” が今日であることも、また真なり。(編集部)

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