02 子どもだった頃の記憶
03 家庭と心境の変化
04 「看護師」という目標
==================(後編)========================
05 新たに目指し始めた夢
06 子どもたちに与えた名前
07 「性」と「LGBTQ」を伝える理由
08 子どもたちのために私ができること
05新たに目指し始めた夢
志望した外科
高校を卒業し、看護師として総合病院に就職した。
「自分の性格を考えると、じっくり話を聞く内科より、治療やオペがある外科が合うと思って、志望したんです」
「外科や整形外科だと患者さんとの出会いもある、って話もよく聞いてたので(笑)」
しかし、実際に配属となったのは脳外科だった。
「脳外科は、60~70代の高齢の患者さんが多いんですよね。まだ若かったので、落ち込みました(苦笑)」
その病院に2年間勤務した後、当時の恋人の地元に引っ越して、新たな病院で働き始める。その病院では、整形外科に配属された。
「念願の整形外科で半年働いた頃、産婦人科の人員が足りないということで、異動の辞令が出たんです」
「産婦人科は忙しいイメージがあって、最初は消極的だったんです」
産婦人科の看護師
あまり気がのらない異動だったが、働いている間に、産婦人科の魅力に気づき始める。
「産婦人科に入院している妊婦さんたちは、病気ではないからこそ、心の拠り所を求めてるんです」
「例えば、切迫早産の方は24時間点滴をして、安静にしていなければいけないから、好きなことができないし、上の子どもにも会えないんですよね」
「それでも、点滴の針がズレて痛いのに、『看護師さんは忙しそうだから言えなかった』って、我慢してしまう人もたくさんいるんです」
その様子を見ていると、専門的な知識よりも、寄り添ってくれる人を求めているのだと感じた。
そう感じていた頃の夜勤、自分1人で赤ちゃんの世話や入院している妊婦の様子を見なければいけない日があった。
「お産が始まりそうな妊婦さんからのナースコールが鳴ったんですが、直前に見に行った時にその方は落ち着いていたので、先に別の作業を済ませていたんです」
再びナースコールが鳴った。急いで駆けつけると、すでに破水し、赤ちゃんの頭が出てきていた。
「妊婦さんが『もう待てない!』っていきんだ瞬間に赤ちゃんが出てきて、私はとっさに素手でその子を受け止めたんです」
様子を見ていなかったことを医師に怒られると思ったが、「赤ちゃんを受け止めただけで十分」と言われた。
「ホッとした半面、私が看護師だから期待されていないんだ、と感じました」
看護師は医療行為が認められていないため、医師や助産師のように子宮口を見て出産の経過を判断する、といったことができない。
同じだけの責任を求められない一方で、期待されていないことがショックだった。
助産師への道
産婦人科を辞めよう、とは思わなかった。
「このままじゃ私は妊婦さんを危険な目にあわせるかもしれないから、学び直そうと思ったんです」
社会人4年目が終わるタイミングで病院を退職し、助産学校に入った。
「自分の武器を増やして、提供できるものが多くなったらいいな、って思って助産師を目指し始めました」
助産師の資格を得るには、分娩介助の経験が10件以上必要だった。
分娩介助についた妊婦の1人は、緊急帝王切開となった。
陣痛室からオペ室に移す数分の間に、点滴やルート確保などを行わなければならない。
「その日は分娩が重なっていて、助産師さんも忙しかったので、『点滴できる?』って任せてもらったんです」
「本来学生はやらせてもらえないことなんですが、看護師経験があると知ってもらっていたことでの判断だと思います」
「いままでやってきたことに無駄なことはなかった、って思えた瞬間でしたね」
06子どもたちに与えた名前
妊娠・出産の経験
1年間、助産学校で学びを深め、翌年には助産師として総合病院に就職した。
「その病院に3年半くらい勤めて、貴重な経験をたくさん積みました」
その間に結婚し、第一子を妊娠。
「妊娠が発覚しても働いていたんですが、つわりがひどくて、1カ月休ませてもらったんです」
「実家に戻って休養した時に、1人じゃ無理だと感じて、病院を辞めて実家に帰りました」
「それまでは明けても暮れても分娩の毎日だったので、仕事を辞めて、久しぶりにダラダラしましたね」
「助産師だから出産の不安はないだろう」と思われることが多く、自分自身もそう思っていた。
しかし、妊娠・出産を経験するのは初めてで、実際はわからないことだらけ。
第一子の出産時、不安が募り、「早く病院に行かせてください!」と言ってしまい、分娩には33時間かかった。
「助産師の資格を持っているからといって、出産のプロではないんです(苦笑)」
「何人産んでても、その子の出産は初めてだし、自分の状態も環境も全然違うんですよね」
LGBTQ当事者の存在
「子どもは長女、長男、次男の3人で、全員ユニセックスの名前をつけたんです」
夫に「ユニセックスな名前がいい」と話すと賛成してもらえたため、「りん」「ちあき」「ゆうき」と名づけた。
第一子を産む時には、LGBTQの存在を知っていたから。
「私が助産学校に入る頃、高校の同級生が看護師からダンサーに転向しました」
「その子から、『ダンスの現場にはLGBTQの方が多い』って話をよく聞いていたんです」
それまでは男女が交際し、性交や結婚をすることが “普通” だと思っていた。
「でも、LGBTQ当事者の方にとっては、その人の性自認や性的指向が “普通” なんですよね」
「自分とは違う感覚を持っている人がいることを知って、話してみたいな、って気持ちが高まりました」
助産学校でも、外部講師の先生からLGBTQに関する話を聞く時間があり、性のあり方を考えるきっかけとなった。
「知識が増えていく中で、自分の子どもが『性別を変えたい』と感じた時に、そのまま使える名前がいいのかな、って思ったんです」
「例えば『女性の体で生まれたけど、男性として生きたい』と思った時に、慣れ親しんだ名前を変えなきゃいけないのは、本人にとっても寂しいことなんじゃないかなって」
子どもの名前は、親が唯一決められるもの。だからこそ、子どもの将来を考えて決めたかった。
07 「性」と「LGBTQ」を伝える理由
子どもを抱えての仕事復帰
第一子を産んでからしばらくはゆっくりしよう、と考えていた。
「長女は私のコピーみたいに活発な子だったので、この子を抱えて働くのは無理、って思ってたんです」
「でも、ある程度経つと、何かしたい、って思いが出てきちゃって(笑)」
ただ、子どもを抱えた状態で、昼夜関係なく分娩が行われる総合病院で働くのは難しい。
そこで、助産師会に入り、地域の母子のもとを訪問して相談に乗る仕事を始めた。
「長女を産んだ翌年には助産師会に入ったんですが、仕事は月数時間でもいいという形態だったので、働きやすかったんです」
「依頼があったママのところに伺って、母乳の出方を見たり、赤ちゃんの体重を測ったり、おうちでできるサポートをしました」
そこから約10年間、ママの訪問や母親学級を行い、その中で性教育にも踏み出していった。
「6年前に友だちからクリニックを紹介してもらって、週1回だけ分娩介助の仕事も再開したんです」
「ただ、最近は性教育の仕事が増えてきたこともあって、分娩介助の仕事はいったん離れることにしました」
今は、子どもたちやその保護者に「性」や「生」について伝えることを優先したい。
LGBTQという名称
性教育の現場に立ち始めたのは、14年ほど前。
「ここ4~5年は、ほとんどの学生がLGBTQの知識があり、当たり前のものとして受け止めてる子が、確実に増えてきてると感じます」
以前は、性の話をすると、茶化す子や「興味ねぇよ」と悪態をつく子がいた。
しかし、最近の子どもたちは、静かにじっくりと聞いてくれているように感じる。
「今は真面目な子が多いんですが、反応が薄いので、授業の手応えはあまりなくて(苦笑)」
「でも、授業の感想を書いてもらうと、驚くくらいびっしりと書いてくれるんです」
中には、「私は私でいいんだと思った」「初めて大人が体の性と心の性の話をしてくれた」「性のことは人に言えずに生きていくかもしれないけど、話を聞けて良かった」という感想もある。
「多分、LGBTQ当事者の子の感想なんだと思います。子どもたちの感想の1つ1つが、私が今の仕事を続ける理由です」
子どもたちに伝えたいのは、誰もが “特別な存在” ではなく “普通” ということ。
「性的マイノリティやLGBTQという名称がついているから、どうしても特別に感じてしまうんですよね」
「でも、犬が好き人や夏が好き人に特別な名称がないように、LGBTQという言葉もなくなるといいな、って思います」
“普通” という感覚は、保護者や教師にも広めていきたい。
「学校で性教育の打ち合わせをすると、『当校には性的マイノリティの子はいません』って断言する先生もいるんです」
「その先生も含め、大人たちに『子どもたちの感想を読んでください』と、伝えてます」
08子どもたちのために私ができること
“個” のセクシュアリティ
性教育でセクシュアリティに触れるようになり、LGBTQに関する知識も増えてきた。
「まだ同性婚が法制化されていない日本では、ケガや病気で入院した際に、同性パートナーの方は面会できない可能性があるんですよね」
「知れば知るほど、当事者の皆さんが生きる社会はこんなに厳しいのか、と思い知らされます」
だからこそ、結婚して子どももいる自分がどう接したらいいのか、わからないと感じることもある。
「LGBTQ当事者の方に私の気持ちをどこまで伝えたらいいのか、どういう言葉が失礼じゃないか、私の中では答えが出てないんです」
「面と向かって話すには相応の勇気がいる、って感じてしまうところがあります」
「ただ、当事者の方々やアライが集まる場で、『すべての人が自分だけの性を持っている』という話を聞いたことがあるんです」
その話を聞いて感じた。勝手にマジョリティ側にいると感じていた自分も、世界に1人だけの “個” なのだと。
コミュニケーションの方法は模索中だが、 “個” として人と触れ合っていきたい。
大人たちの感覚
多くの人がもっと自分自身のまま生きられる社会になってほしい、と願う。
「そのために私にできることは、『性』について伝えることくらいだと思うし、ずっと続けていきたいです」
保護者に向けて話す場では、「息子さんに対して、『彼女できた?』なんて言ってませんよね?」と問いかけるようにしている。
「祖父母の方々に『男の子にプレゼントをあげる時、リボンは水色とピンクのどっちにしますか?』と聞くと、ほぼ100%の方が『水色』とおっしゃいます」
「当たり前だと思っている感覚を変えましょう、ということを伝えたいんです」
「保護者の方々には、親にこそ話せない子がいること、自分の子がそう感じているかもしれないことを、知っておいてほしいと思います」
そして、子どもの気持ちを受け止めてあげてほしい。
「子どもに『うちの親は頼もしい』と思ってもらうためには、当たり前という感覚を変えることが大事と伝えると、納得してくれる方が多いんです」
「子どもたちのためにも、大人に働きかけることが私にできることだと思ってます」
知識というお守り
子どもたちには、「知識はお守り」ということを伝えたい。
「知識は自分を守るための武器になる、ということです」
「セクシュアリティのことに限らず、避妊法を知っていれば予期せぬ妊娠は避けられるし、性感染症の知識があれば体のサインに気づけます」
自分には必要ないと思わずに、知識を蓄えておくことで、いざという時に対応できる。
「そのためにも、情報源が不確かなサイトなどを見るのではなく、学校の授業や見識のある人から確かな情報を得てほしいです」
「子どもの間は保護者からの影響も大きいと思いますが、18歳になれば成人して独立できます。それまでは、情報や知識を集める期間だと思ってほしいです」
子どもの間に見えている社会が、すべてではない。
人は何度でも人生を生き直せることを、知っていてほしい。