02 子どもだった頃の記憶
03 家庭と心境の変化
04 「看護師」という目標
==================(後編)========================
05 新たに目指し始めた夢
06 子どもたちに与えた名前
07 「性」と「LGBTQ」を伝える理由
08 子どもたちのために私ができること
01 「性」と「生」の話を届ける仕事
命の授業
現在の私は、フリーランスの助産師として働きながら、子どもたちやその保護者に「性」の話を届けている。
「私は、第一子を出産した後に助産師会に入り、地域のママの訪問や母親学級などを行ってきました」
「その中で、助産師会に『保育園で命について話す授業をしてほしい』という依頼が来たんです」
すでに性教育の授業を担当していた先輩が、「田川さんもやってみる?」と誘ってくれた。
性教育の経験はなかったが、先輩についていき、授業を見学させてもらった。
「その時の先輩の授業に感銘を受けて、私の子どもにも聞かせたい、って思ったんです」
「『産まれてきたこと、生きていることはすごいことなんだよ』って、子どもに伝えられる大人が増えたらいいな、って感じました」
そこから先輩の授業に同行して回り、幼稚園や小中学校の授業で経験を積んでいった。
「独り立ちしてみなさい」と言われたのが、14年ほど前のこと。
子どもたちに伝えたいこと
幼稚園や保育園の子どもたちにも、「性」や「生」について話すことがある。
「小さい子はまだ性教育をする段階ではないので、『産まれてきたことがすごいんだよ』と伝えてから、体や心の話をしています」
「ただ、幼児が話を聞ける限界って10分くらいなんですよね(笑)。だから、体験してもらいます」
赤ちゃん人形を抱っこしてもらったり、針孔ほどの大きさの受精卵を見てもらったり。
体験の場を提供しながら、「赤ちゃんはこんなに大きくなる」「産まれる時はこんなに狭い道を通ってくる」という話もする。
「1つの細胞から体が作られて産まれてくる、という話をすると、園児でも『自分ってすごい』って思ってくれるんです」
「自分はすごい存在なんだと思えると、『命って大事なんだ』『自分も友だちも大切にしなきゃいけないんだ』って感覚が芽生えるんですよね」
「性」の多様性
小中学校での性教育の場では、前提として「心と体のセクシュアリティがある」という話もしている。
「性教育を始めた14年前は、性の多様性の話はほとんどしていなかったんです。ただ、『男性が』『女性が』と説明するたびに違和感というか、モヤモヤしたものがあって」
「聞いている学生の中には、きっとセクシュアリティに悩みを持つ子もいて、『男女で分けられるんだ』『私には関係ない話だ』って傷ついているんじゃないか、って感じたんです」
10年ほど前から、性の多様性について触れるようにしていった。
授業をする際には、「『男性』『女性』と説明するけど、これは体の性を指しています」と話している。
「『助産師は産まれてきた子の性器を見て性別を確認するけど、それは体の性の話で、どう生きていくかはその子自身が決めていいんだよ』って、伝えるようにしています」
「悩みを抱えている子が、自分に向けて話してくれているんだ、と感じてくれたらいいなって」
02子どもだった頃の記憶
4月生まれの女の子
幼い頃の自分はとても活発で、母に心配や迷惑をかけていたと思う。
「4月生まれなこともあって、小学校3年生くらいまでは同級生よりも力があるし背も高いし、何をやってもできちゃう子だったんです」
ひとりっ子で、周りにはいつも大人がいたため、大人の表情を読んで行動する子だった。
「子ども同士だと話が続かないけど、大人は向き合って話してくれるので、大人といるほうが落ち着いたし、気楽にいられたんだと思います」
「ただ、小学4年生にもなると同級生との差がなくなってきて、私って普通なんだ、って軽い敗北感を抱きましたね(笑)」
両親の離婚
小学2年生まで栃木・宇都宮で過ごしたが、3年生に上がるタイミングで埼玉・大宮に引っ越した。
「両親が離婚して、母と一緒に大宮に移り住んだんです」
両親がケンカしているところは見たことがなく、離れ離れになるとは思っていなかった。
小学2年生の1月頃、唐突に「お母さんたちは離れて暮らすことになった」と、告げられた。
「父は子煩悩なタイプではなく、仕事ばかりしてた人なので、私は母についていく選択肢しか思いつきませんでした」
「父が寂しそうに『お母さんについていくんだな』って言う姿は、今でも忘れられないところがあります」
「だからといって後ろ髪を引かれることはなく、幼いながらに頼れる人は母しかいない、って決断しました」
恋愛に厳しい母
母親はほんわかした人柄で、口うるさく叱られるようなことはなかった。
「なんでも『いいよ』って、自由にやらせてくれる人でしたね」
「ただ、思春期に入ってから、恋愛に関してだけはすごく厳しかったんです」
母親からは「彼氏は作らないで。でも、恋人ならいいわ」と、言われていた。
「最初は意味がわからなかったけど、きっと性交とか不埒な関係の “彼氏” ではなく、結婚を見据えた “恋人” ならいい、ってことだったんだと思います」
学生の頃は、「男性と泊まりに行くのはダメ」と、制限されていた。
「20歳を過ぎて社会に出てからも、母に彼氏を紹介しようとすると、『紹介しなくていい。結婚するなら別だけど』って、断られましたね(苦笑)」
03家庭と心境の変化
祖父母の介護
中学校に進んでからは、持ち前の活発さが影をひそめた。
部活にも勉強にも打ち込めなかったのは、家庭環境が変わったから。
「祖父は以前から半身不随の状態だったんですが、祖母も認知症になって、2人だけでの生活がままならなくなったんです」
「当時、きょうだいの中で唯一独身だった母が祖父母を引き受けることになって、4人暮らしが始まりました」
祖父母と同居を始めたのは、小学校高学年の頃。
母親は祖父母の介護につきっきりになったため、自分は自立しなければいけないと感じた。
「高校生になるとお弁当が必要だけど、母は夜中も祖父母につきっきりで余裕がないから、自分でおにぎりを握って持っていってました」
認知症の祖母は勝手に出ていったり、人のものを隠してしまったりすることも多かった。
「あの頃は、家にいても落ち着かなくて、ホッとできる場所がなかったです」
会社を経営していた叔父が金銭面で支援してくれていたため、生活には困らなかった。
変わってしまった友だち
小学校高学年から中学生の間、原因不明の熱で、何度か入院したことがある。
中学3年生で数日入院した時のこと、退院して学校に戻ると、仲の良かった子から突然無視された。
「小学校からずっと一緒で、毎日のように遊んでた子だったので、ショックでしたね」
「その子の態度が豹変したことが恐くて、無視する理由も聞けず、ただただ距離を取って過ごしました」
大人になって再会した際に、その子も当時、家庭内に問題を抱えていて、苦しい状況にあったことを知った。
「子どもって親の保護下にいなきゃいけないから、気持ちを押し殺してしまう時があるんですよね」
「その気持ちの出しどころを間違えて、周りの人の人生を変えてしまうことがある、って今だからわかります」
友だちと溝ができてしまったことは苦しかったが、クラス担任の先生のおかげで救われた。
「保健体育の男性の先生だったんですけど、『何かあったか?』とか聞いてくるわけではなくて、すごく配慮がうまかったんですよ」
「無視する子とグループを離してくれたり、私が目立たないようなポジションにしてくれたりして、信頼できる先生だな、って感じました」
うぶだった中学時代
性的なことへの興味は、高かったように思う。
ひとりっ子だったため、家で1人で過ごす時間が長かった。
「夏休みにテレビをつけると、『毎度お騒がせします』や『ママハハ・ブギ』ってドラマの再放送をしていて、誰の目も気にせずに見れたんです」
当時は、ラブホテルに入るシーンや男女が裸で抱き合うシーンが、昼間から放送されていた。
「まだインターネットもないし本も買えなかったから、ドラマの情報をもとに、なんとなくエッチなことなんだろうな、って想像してました(笑)」
中学生になると、同級生が「あの子とつき合った」「キスした」「エッチした」という話題で盛り上がり始める。
「私は、彼氏ができても手をつないで帰るくらいだったので、性交が何をすることなのか、あまりわかっていなかったんです」
「だからといって、早く男性と経験してみよう、って気持ちまでは至らなかったんですよね」
「性交とはどういうものか、ちゃんと知ったのは高校生になってからだったと思います」
04 「看護師」という目標
原因不明の高熱
小学校高学年から中学校にかけて、定期的に原因不明の高熱が出た。
「40度くらいの熱だけが出て、どんな薬を飲んでも効かず、1週間くらい入院することが何度かありました」
「何の検査をしても原因がわからなかったんですが、今振り返ると心因性のものだったのかなって」
大人になって子育てで悩んでいる時、友だちから「インナーチャイルド」の話を聞いた。
調べていく中で、うまく表現できない感情が溜まっていくと、症状として現れることを知る。
「祖父母との同居が始まった頃で、出したくても出せなかった感情が、熱として出ていたのかもしれません」
「高熱が出ると悪寒と発汗がひどくて、ごはんも食べられず、痩せていきましたね。つらかったことを覚えてます」
心を守る仕事
入院している間、身の回りの世話をしてくれる看護師がかっこよく見えた。
「看護師さんたちは病気のことだけじゃなくて、『勉強大変だよね』『友だちと仲良くしてる?』って、人生にも寄り添ってくれたんです」
夜中にトイレに行き、畜尿(検査のために尿を溜めること)した時に、専用の袋を置く場所がいっぱいだったことがあった。
袋を持ち歩くわけにもいかず、トイレに備えつけてあるナースコースを押した。
「トイレのナースコールが押されるって、トイレで倒れたとか、緊急性の高いケースがほとんどなんです」
「だから、夜勤の看護師さんが『何があったの!?』って、飛んできてくれたんです」
その看護師は普段から厳しい人だったため、わざわざナースコールを押したことを怒られるかと思った。
「でも、『何でもないなら良かった』ってやさしくしてくれて、愛のある人だ、って感じました」
「看護師って命を守る仕事だけど、心を守る仕事でもあるんだ、って知りましたね」
初めて入院した時から、私は看護師になる、と強く思うようになった。
同じ夢を持った同士
中学を卒業し、衛生看護科のある高校に進学した。
「高校に合格して、看護師になる切符を手に入れたことがうれしかったです。合格発表の日のことは、一生忘れないと思います」
高校には、看護師になりたい、という熱意を持った子が集まっていて、刺激も多かった。
一般的な高校の授業に加えて、看護や解剖学に関する授業、病院や介護施設での実習もあった。
全員が看護師という夢に向かって励んでいるため、いじめや嫌がらせの話は聞いたことがない。
「それぞれにやることがあるから、人のことに構ってるヒマがないって感じでしたね(笑)」
「複雑な家庭の子も多くて、『私たちの代から生き直せるよね』って、共通の想いを抱えていたのも大きかったです」
「今振り返っても、高校での日々は、人生で一二を争うくらい楽しい時間でした」
<<<後編 2024/09/06/Fri>>>
INDEX
05 新たに目指し始めた夢
06 子どもたちに与えた名前
07 「性」と「LGBTQ」を伝える理由
08 子どもたちのために私ができること