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農家の長男で跡継ぎ。ゲイである自分との間で折り合いをつけて【前編】

早朝からサッカーのサポーターで超満員の新幹線に揺られながら、なんとか取材場所にたどり着いたという本間孝幸さん。気を遣う性格だと自覚しているとおり、疲れた様子を微塵も見せずに語ってくれた。それは、過去の凄惨ないじめをへて「生きていてよかった」と笑えるようになるまでの半生だった。

2025/02/06/Thu
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
本間 孝幸 / Takayuki Homma

1985年、新潟県生まれ。小中高と長期間にわたっていじめを受けるが、不屈の精神で学校に通い続ける。小学校高学年のころから男性へ興味を抱くようになり、中学生からゲイであることを自覚する。現在は会社員として働くかたわら家業である農業を手伝いつつ、新潟県各地で開催されているプライドパレードに参加している。

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INDEX
01 米農家の跡取り息子
02 まだ余裕をもてた小学校時代
03 ふさぎこんだ中学時代
04 思わず電気コードで
05 自分らしく過ごせるように
==================(後編)========================
06 リーマンショックとコロナ禍
07 同性愛者に生産性がない、なんて言わせない
08 LGBTQ・ゲイ当事者はここにいる
09 農家を継ぐということ
10 自信をもって生き抜こう

01米農家の跡取り息子

突然だった、曾祖母との別れ

新潟県長岡市で、代々続く米農家の長男として生まれる。

「自分が小さいころは、曾祖母(ひいおばあちゃん)、祖父母、両親、姉の7人家族でした」

実家は13部屋もある大きな家。

「自分が7歳のときに弟が生まれて、祖父母も亡くなったので、いまは5人だけで住んでます」

一番幼いころの記憶は、4歳のときに曾祖母が急死したこと。

「それまで元気だったのに、ある日部屋で倒れてるところを発見されて・・・・・・」

4歳とまだ物心のついていない年齢だったこともあり、一緒に過ごした記憶や、曾祖母との別れをひどく悲しんだ覚えはあまりない。

でも、身近な人が突然この世からいなくなったことに対する驚きは、心に焼きついている。

「自宅に曾祖母の遺体を安置させているそばで、祖母が横にずっとついていたのを覚えてます。ひいおばあちゃんを一人にしたら悲しむでしょう、って言ってましたね」

祖父から母親へ、母親から自分へ・・・負の連鎖

自分はおばあちゃんっ子だったが、祖母も自分が小学校低学年のころに認知症を患って他界してしまう。

それ以降、家庭環境はあまりよいものとは言えなくなった。

「祖父は、嫁である母親にすごくつらく当たる、モラハラ気質な人でした」

祖父が母親に「人間のクズ」などの罵声を浴びせているのを聞いて、母親はよく耐えられるな、と感じていた。

当時専業農家として働いていた祖父を、仕事が休みの日に手伝っていた父親は、祖父と極力かかわらないようにしていた。

「祖父は自分が欲しかったものを買ってくれたりと、孫として優しく接してくれることもありました。でもやっぱり祖父は怖い存在で、近寄りたくなかったですね・・・・・・」

祖父から受けるストレスも相まってのことだろうか、自分は母親から叱られることが多かった。

「身体が細かったので『もっと食べて太れ』とか、重いものを持ち上げられなかったときには『力が弱い』って、よく言われてました」

母親から言われ続けた「男らしくなれ」という言葉の数々は、いまでも苦い記憶として心に残っている。

02まだ余裕をもてた小学校時代

いじめの発端

地元の小学校に通い始めてから最初のうちは、話すことが苦手だった。

「1つ上の姉が場面緘黙症で、学校でぜんぜん会話をしなかったようすを見てたからか、自分も最初のころはあまり話せなくて。でも、だんだんと話せるようになりました」

クラス替えをへて、小3からいじめを受けるようになる。相手は、クラス内のいじめっ子である数人の男子だった。

「殴られたり蹴られたりっていう暴力が中心でした。そのころの自分は背が低くて、何をされても反撃しなかったので、いじめの対象になったんじゃないかなと思ってます」

不幸中の幸いは、いじめっ子とクラスが別々になったこと。小学校5年生のクラス替えがきっかけで、いじめは落ちついた。

先生をほめてからかう

小学校高学年になっていじめが収まると、物静かながらも周囲とコミュニケーションをとる明るさを取り戻した。

「小学校高学年のときは、『先生、きれいだね』って言って、女性の先生を喜ばせたりしてましたね(笑)」

そのころの自分には、お調子者の側面があった。

「そのときは、人をからかったりする余裕がまだ心にあったんだと思います」

いじめを受けていた小3、4の期間を含めて、小学校には毎日きちんと登校し続けた。

「途中で逃げ出すのが嫌な性格なんです」

小学生のころはまだ、興味のあることに目を向ける余裕もあった。

「占いやスピリチュアルなことが趣味で、小学生のときに手相の本を買いました。いまも占いの学校に通ったりしてます」

周囲を笑わせたり、占いを披露したり・・・・・・。

しかし、だんだんとまた厚く黒い雲に覆われていく。

03ふさぎこんだ中学時代

ひとりぼっち

中学校に進学すると、再びいじめが始まってしまう。

いじめっ子の中心人物は、小学校のときと同じ複数の男子だった。

「小学生のときのいじめは特定の数人だけだったんですけど、中学校に入っていじめがまた始まると、小学校で仲のよかった子も離れてしまって・・・・・・」

暴力のほか、上履きの中に画びょうを入れられるなど、陰湿な嫌がらせも増えた。

「性格もだんだん暗くなって、笑うことも泣くこともできなくなってしまいました・・・・・・」

負けず嫌い

いじめは、表向きにはただひたすら耐えた。それは、頼れる大人がいなかったから。

「親に相談しても、お前がしっかりしてないからだ! って追い詰められるのが目に見えていたので、言いたくなかったんです」

「先生もいじめには気づいてたと思うんですけど、特に何もしてくれませんでしたね」

せめてもの思いで、心のなかでは仕返しをしていた。

「いじめっ子に生霊を送りつけてやろう、って心で呪ってました(笑)。わら人形を作ったこともありました」

どんなにつらくても自分なりにいじめに耐えて、学校に通い続けた。

「どうしても不登校にはなりたくない! っていう気持ちが強くて、学校を休もうとは思いませんでしたね」

書道部

部活動では書道部に入った。

「体力がなかったので、運動部より文化部のほうがいいなと思って入りました」

つらい中学校生活のなかで、部活動だけは唯一楽しい時間を過ごせる場だった。

「部活の仲間とは仲良くできたんです。顧問だった若い女性の先生とも、よく話してましたね」

2年生になったとき、1つ上の先輩がいなかったため、新2年生のなかから部長を選出することになる。

「多数決で票が割れたこともあって、本当はやりたくなかったんですけど、自分が部長になりました」

とはいえ、心の奥底ではリーダーの立場にあこがれを抱いていたこともあり、トップに立つことは嫌いではないかも、とも感じていた。

「でも部長のやることと言えば、ただ部室のカギを管理して教室を開け閉めするだけの、カギ係のようなものでした(苦笑)」

同性愛者は気持ち悪い

男子が気になりだしたのは、小学校高学年のころ。

「頭がよくて、学級委員も担当してた、しっかり者のクラスメイトでした。かっこいいな、って思うようになったんです」

中学生になると、自分は男性が好きなのだとはっきり自覚した。

「そのときは、ゲイって言葉は知らなくて、そのころよく言われていた『ホモ』だと思ってました」

同性愛者への差別意識とともに使われる「ホモ」という言葉の影響で、自分自身も同性愛はタブーであると思い込んでいた。

「世間と同じように、男なのに男が好きな自分は変な人間なんだ、って自分を責めてましたね」

男性である自分は女性に興味を抱かなければならないと信じていたため、自分の性的指向をだれかに打ち明けようなどとは、まったく思い至らなかった。

04思わず電気コードで

新しい自分にはなれず

自宅から近い地元の高校に進学する。

「あまり勉強が得意じゃなかったので、偏差値の低い高校に行きました」

周囲の学生は校則を無視して染髪することが当たり前のような、やんちゃな人ばかり。

「黒い髪の人のほうが少なかったですね(苦笑)」

高校進学をきっかけに自分らしさを取り戻せればよかったのだが、その気力は中学時代のいじめによって失われていた。

「あまりにも暗い性格になってしまってたので、行動できなかったですね」

死にきれなかった

高校でもいじめられるようになってしまう。

「高校のいじめは、暴力が一番ひどかったですね」

いじめっ子たちは、身体能力は成人男性とそん色ないにもかかわらず、精神年齢が発達していないため、加減を知らない。

「脇腹とか、本当に痛かったです・・・・・・」

それでもやはり、学校から逃げるという選択肢は自分のなかになかった。

とはいえその信念だけでは、もう自分を支えきれない。
ストレスはとうとう限界に達した。

「ある日、精神的に爆発してしまったのか、自分の部屋で、延長コードで自分の首を絞めました」

自宅の近くを流れる信濃川に身を投げようかと考えたこともあったが、溺れ死ぬのは苦しいのだろうな、と思うと実行できなかった。

心の支えと、もてなかった希望

つらい日々を支えてくれたもののひとつが、音楽だった。

「中学のころから浜崎あゆみさんの曲、特に歌詞が好きでした」

楽曲『Voyage』の「僕達は幸せになるために この旅路を行く」という歌詞を見て、「幸せになりたい」と願った。

その想いは、自分の名前に込められた願いと同じものだ。

「自分の『孝幸』という名前には『親を大切にして幸せになってほしい』って意味が込められているんです」

昔は、もっとキラキラしたかっこいい名前をつけてくれればよかったのに、と自分の名前があまり気に入らないときもあった。

でも、大人になって名前に込められた想いを理解できるようになった。

「いまは自分の名前が好きです。いい名前をもらったなって思ってます」

ストレスで押しつぶされそうになりながらも信念を貫き通し、高校は皆勤賞で卒業を迎えた。

「祖父が暴言を吐いたり、母から『男らしくしなさい』と口うるさく言われたりした家庭環境で耐えてきたから、いじめにも耐えられたのかもしれないですね」

でも、精神的にはボロボロだった。

「20歳になるまでには、自分はこの世から消えるんだろうなって思ってました」

05自分らしく過ごせるように

自分を変えたい

高校卒業後、地元の大学に進学する。

大学進学を選んだ理由には、いとこが全員高校卒業後も進学の道を選択していたことや、経営を学びたいなど、いくつかあった。

「それに、この暗い性格のまま社会に出たくないと思ったんです・・・・・・」

大学入学直後から自分の気持ちを表現することは難しかったが、大学2年生のときに研究会に入ったことで、本来の自分や感情を取り戻すことができた。

「簿記の資格取得を目的として新しく立ち上がった『経理研究会』に入りました」

大学サークルによくある飲み会にも参加した。

「世間話や政治の話、恋バナなんかをよく話しました。自分がお酒に強いことは、このときにわかりました(笑)」

資格取得で自信

経理研究会での活動を通して、見事、簿記検定の資格を取得。

「数学は小中学生のころから特に苦手意識が強かったんですけど、お金にまつわる数字ならXとかYが出てこないこともあって、得意だったみたいです(笑)」

「資格を取ったことで、自分に自信がもてるようになりました!」

このときに感じたポジティブな気持ちが、いまの資格マニアという趣味につながっている。

「いまは、80の資格をもってます!」

キャリア形成に関係なく、自分が興味をもったものに挑戦している。ITパスポートから日本酒検定、カラーコーディネーターなど、分野は多岐にわたる。

「職場に資格取得を援助してくれる制度があるので、いまは危険物取扱者に興味があります」

ゲイであることを再確認

大学生となって行動範囲が広がり、このころからゲイ当事者との出会いを模索し始める。

「高3のときからガラケーをもつようになったので、ゲイ向けの出会い系サイトで相手を探しました。自分以外にもゲイ当事者っていっぱいいるんだ、ってわかりましたね」

ただ、最初のうちは相手と直接会うのを控えていた。

「ネットで知り合った顔のわからない人と会うことに、抵抗がありました。どんな人かわからないし、詐欺とか犯罪に巻き込まれる可能性もあるので」

「大学生になってからアルバイトも始めてたんですけど、当時の新潟県の最低時給は600円台だったので、資金的にもそこまで余裕がなかったんです」

一方、インターネットに簡単にアクセスできる環境になったので、ゲイ向けサービスを利用する機会も増えた。

「性的欲求は、ネットで満たせてました(笑)」

高校時代は目の前の生活に耐えることに必死で、同性が好きだという悩みは二の次だった。セクシュアリティの悩みが深まらなかったとも言える。

大学では友だちと交流し、青春時代を取り戻せたことで、自分のセクシュアリティを受け入れられる精神的な余裕が培われたのかもしれない。

 

<<<後編 2025/02/13/Thu>>>

INDEX
06 リーマンショックとコロナ禍
07 同性愛者に生産性がない、なんて言わせない
08 LGBTQ・ゲイ当事者はここにいる
09 農家を継ぐということ
10 自信をもって生き抜こう

 

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