02 お母さんは、女神さま
03 おませだった子ども時代
04 女子校シンドロームだと思っていた
05 大好きな母親を奪われて
==================(後編)========================
06 女性のほうが好き…… なのかも?
07 さまようセクシュアリティ
08 理性のフタをとる
09 私は、レズビアンです
10 LGBTを人権問題としてとらえたい
06女性のほうが好き・・・・・・ なのかも?
「男は嫌い」と、公言
家の中の嵐は、父親の地方への単身赴任を機に徐々におさまっていく。
その後、父親は研修で1年間外国で暮らすことになり、母親もそれに同行。物理的に距離ができたことで、親子の関係は小康状態になった。
高校卒業後は、男女共学の4年制大学へ。
男子学生と接するほどに自分は男性が苦手だということを痛感する。
「男性のことが、怖かったんです。母子家庭で、しかも中学高校と女子校だったので、生活圏内に男性の存在がなかった。だからそもそも、生体として男性というものを知らなかったんですね」
知らない、怖いという感情がそのまま、嫌悪感につながったというわけだ。
そう、この時点での男性嫌いは「女性が好き」ということの裏返しではなかったのだ。
だから、男友達に「男嫌いを直さなくては」と言われた時、考えてしまったという。
「自分にとって男性は遠い存在で、女性、つまり身近な存在にしか好意を抱けないのは自分が未熟だからではないかと、思いました」
女性の曲線に惹かれる
ならば、克服しようとがんばればこの壁は乗り越えられるかもしれない、と男性と付き合うことを自分に課したのだという。
高校時代、部活をやめてから急激に太ってしまった。
そこで、まずはダイエットをして20kg減量。そして、洋服もヘア・メイクも 男受けするものに変えた。
努力は功を奏し、男性との交際が始まった。
でもやっぱり、どうもしっくりこない。
「大学に入ってから私は趣味で写真を撮り始めたのですが、被写体は女の子ばかり。直線的でゴツゴツした男性より、女の子の曲線のほうに被写体としての魅力を感じたんです」
「”女の子専門ポートレイター” と名乗り、街角や郊外でのスナップ写真ではなく、きちんとシチュエーションをしつらえ、衣装や小道具を揃え、モデルになってくれた子のメイクもヘアアレンジもすべて自分でやって撮影していました」
その様子を見て「あいつ、レズビアンなんじゃないか」と言う人もいたらしい。
でも本人にその自覚はなく、恋人として付き合っていたのは相変わらず男性だった。
07さまようセクシュアリティ
愛猫の死をきっかけに、鬱を発症
大学卒業後、IT関連の仕事に就いた。しばらくして、起業しようと独立した上司から声がかかり、会社の立ち上げから関わることに。
それなりに充実した毎日を過ごしていたが、14歳になる愛猫の死をきっかけに心のバランスを崩してしまった。
33歳の時のことだ。
子どもの頃、猫と一緒に本を読みながら留守番をしていた。その後もずっと、家に猫がいないことはなかったという。
社会人になれば当然、昼間は仕事に出ているので、猫の世話はもっぱら母親の役目だった。ところが、父親の仕事の都合で再び両親そろって外国へ。
昼間、ひとりぼっちにさせられることとなった猫は、靜さんが仕事から帰ると飛びつかんばかりによろこび、日中のさびしさを埋めるべく甘えに甘えた。
「もともと彼女(猫)のことは好きでしたけど、全身で頼って、甘えてくるのが不憫で。私も、この子を守れるのは自分しかいない! なんて思って、まさに共依存的な関係になっていました」
「それだけに、彼女が死んでしまった時の虚脱感といったら、ありませんでした」
ペットロスから、鬱を発症した。
病院に通い、抗鬱剤を処方してもらっても、そう簡単にはよくならない。
でも、鬱を患う人には真面目な人が多いと言われるように、靜さんも、ベッドから起きられないような状態になっても「何とかしなくちゃ」ともがき続けた。
大好きな男性が出現。でも・・・・・・
藁をも掴む思いでバタバタもがき、ようやく掴んだ藁の1本がバンド活動でだった。
「もともと歌を歌うのが大好きだったのですが、なぜかその時、メタルが歌いたくなって。バンドメンバー募集のウェブサイトに、ヴォーカリストとして登録しました」
声をかけてくれたバンドがいくつかあったが、もっとも熱心に誘ってくれたオリジナルジャパニーズ・メタルのバンドに加入した。
そこで「男性に」恋をする。
「バンドのベーシストでした。顔立ちがもの凄く私好みだったこともありますが、何より彼の作ってくれる楽曲は、私を本当に気持よく歌わせてくれるんです。音楽性の相性がいいというのでしょうか」
「もう、頭のてっぺんから足のつま先までのぼせていると言い切れるほど、私は彼にぞっこんでした」
つきあいが深くなれば当然、性行為に及ぶ。
相手は好きな人だから、それは幸せに満ちたもののはずだったのだが・・・・・・ 苦行以外の何物でもなかったという。
早く終わってくれと思いながら、何とか演技をしてごまかしながらやりすごしていたが、すぐに我慢の限界がきた。
「『痛い』、あるいは『感じない』から性行為が嫌だというのではなくて、相手が男性だから嫌だったんです。自分の体の中に侵入されたくない、というか」
この時、そうか自分は単に男嫌いなのではなく、肉体的に男性とつながることが嫌なのだという結論に落ち着いた。
「でも、ものすごく無理をすれば男性ともセックスできる。だからこの一件以降、私は『限りなくレズビアンに近いバイセクシュアル』なのかもしれないと思うようになりました」
08理性のフタを取る
二度目の鬱、発症
靜さんが掴んだもう1本の藁は、師事するボイストレーナーだった。
「鬱になるずっと前からボイストレーナーについて歌を学んでいたのですが、バンドに入ってメタルを歌うようになってから、新たに別のボイストレーナーの元に通うようになりました。この二人目の師匠が音楽的にも人間的にも心から尊敬できる人で、おかげで私は歌のすばらしさ、歌うことのよろこびを知ることができたんです」
良き師を得て、歌に打ち込む日々。
おかげで鬱の症状は徐々に快復し、職場に復帰した。
「当時、担当していた業務は携帯電話コンテンツの制作でした。この業界はとくに納期が厳しくてつねにデスマーチ状態。朝4時台の始発電車で帰り、シャワーを浴びて2時間ほど眠ってからまた出社・・・・・・ という毎日でした。そんなある日、激務がたたって同僚の女性が鬱になってしまって」
彼女から鬱の相談を持ちかけられ、時間的にも精神的にもかなり削られた。
その上、彼女が担当していた案件がそのまま自分に回ってきた。
二人分の仕事量と責任の重さに耐え切れず、靜さんもダウン。
鬱が再発した。
じっくり自分の心を覗いてみると
会社をやめ、失業手当てが出ている間はのんびりしていようと思ったが、そうこうする間に病状はどんどん悪化。
その頃、大阪にいた両親が心配をして戻ってきてくれたが、それは残念ながら逆効果となった。
「物理的に離れていたからこそ、母親との関係も小康状態を保っていたわけで、ひとつ屋根の下で暮らし始めるとまた修羅の日々。そこに病気も重なって、それまで理性でフタをして心の奥底に押し込んでいた、母親に対する不満やうらみつらみが一気に爆発、噴き出してしまったのです」
やはり、距離は近すぎないほうがいいのかもしれない。
そう考えた母親が、家の近所で売りに出されていた古いマンションの1室を購入。
靜さんはそこで、猫2匹と一緒に暮らし始めた。
自分と猫2匹だけがいる空間は快適で、心は徐々に平靜を取り戻す。
これまでうやむやにしてきたこと−−− 母親との関係。
そして薄々気づき始めていたセクシュアリティのことについて、あらためてじっくり考えられるようになった。
「その結果、もう本能まわりの我慢をするのはやめよう、という思いに至ったというわけなのです」
09私は、レズビアンです
母親は、気づいていなかった
自分はどうやらレズビアンらしい。
そう分かると、同じような境遇の人とのつながりがほしくなり、レズビアンのカップルが主宰する、とある会員制のコミュニケーションサロンに入ろうと考えた。
ただ、そのサロンに入会するには、Facebookのアカウントが必要だった。
「基本的に、Facebookは実名登録が必須です。ほら、私の苗字は珍しいでしょう? 私自身は実名を明かしてもまったく問題ないのですが、家族に迷惑がかからないかと考えました」
一旦、ウェブ上に名前が出れば、インターネットを使っている人の誰の目に触れてもおかしくない。
父親は教職にあって一応、公人なので、レズビアンである自分が彼の娘であることはすぐに周知されるだろう。
「それによって父親の仕事や立場に支障が出るのではないか。母親とだけでなく父親ともいい関係が築けているわけではありませんが、それとこれとは別です」
「他の人から彼の耳に入る前に自分の口から、私がレズビアンだということを伝えるのが筋だと思いました」
とはいえ、いきなり父親に話を切り出すのはむずかしい。そこで母親に、父親と話す機会を作ってもらえるよう頼むことにした。
実は、母親にもカミングアウトしていなかった。
すでに気がついていると思っていたからだ。
「以前、地元でセクシュアル・マイノリティ関連のイベントが開かれた際、母親に『私も行ってみようかな』と言ってみたんです。すると彼女は不思議そうな顔をして『なんで?』と聞くので、『だって、私もセクマイ(セクシュアル・マイノリティ)だもん』と答えたんですよ」
また、「私が女の子を連れて来て、この子と一生添いとげたいと言ったらどうする?」と聞いたこともある。
「その時も、とくに驚いたふうではなかったので当然、母親は私がレズビアンであることを知っていると思っていたのです」
でも、母親は気づいていなかった。
事実を告げられて驚いたようだが、父親に話はつないでくれた。
縮まった父親との距離
その日、参考文献として父親に渡すべく、セクシュアル・マイノリティに関する本を何冊か用意して話し合いの席に臨んだ。
「自分はレズビアンである。それによって、あなたに迷惑をかけるかもしれない。それでも私を家族として認めてもらえますか?と聞きました」
すると父親は、「もちろん!僕は仮にも教育者だよ。自分の生徒の中にもセクシュアル・マイノリティの人はいる。だから、あなたがレズビアンだって全然問題ないよ」と、答えてくれた。
「それを聞いて、へえぇ、この人、ちゃんと教師をやっているんだと(笑)」
この日をきっかけに、長年にわたる父親とのわだかまりが消えた。
中学高校、そして大学時代の友人たちへのカミングアウトでも、別段、驚かれることはかった。
「あなたが男性とつきあっていても、ちっとも楽しそうには見えなかったと言われました。あの中学時代からの友達との関係のほうがよっぽど恋愛しているように見えたよ、って(笑)」
「カミングアウトをして、ちょっと驚きだったのが、誰ひとりとして変な顔をしなかったこと。偏見を口にする人もなく、みんな『いいんじゃない?』って」
そんな調子なので、靜さんはレズビアンであることを人知れず悩み、苦しんだことはない。
「自分がレズビアンだということを自分でも気づかずにいたので、周囲に隠していたという意識がないんです(笑)」
また、気づいてからも、もやもやした気持ちを抱えた時間は短かった。
セクシャル・マイノリティに関する情報も増え、また、少しずつではあるけれど社会にも認知されてきている。
「だから、何か問題が生じたとしても、それを解決しようと動くことができる。その意味では、自認が遅かったことが幸いしたように思います」
10LGBTを人権問題としてとらえたい
まずは、当事者が同じ舟に乗ること
レズビアンであることを自認できた今、すっきりした気分だ。
知らず知らず押さえ込んでいた本能が解放された。
しかし、現実を知れば知るほど、悲しい気持ちになる。
「日本はセクシュアル・マイノリティに対して寛容だという数字も出ていますが、実際はどうでしょうか」
LGBT問題に対して、差別的な発言をする政治家もいまだに後を絶たない。
「そんな中、生きづらさを抱えている人はたくさんいます。LGBTの活動をしている人は必ずと言っていいほど、知人を亡くしている」
「私の友人のひとりも、自ら命を絶ちました。だから、1分1秒でも早く、国の施策としてLGBTの人権を認める法案が必要なんです」
そのためには、当事者自身もLGBTを広く人権問題としてとらえ、行動することが大切なのかもしれない。
「セクシュアリティの問題は非常に複雑で、LもGもBもTも、それぞれ抱えている問題が違います。だから、自分のことを認めてほしい! と個々で言っているだけでは、お役所も『ちょっと待て。一度に、全部対応するのは無理だよ』ということになりかねないような気がするんです」
この際、呉越同舟でいい。
たとえば一人親家庭であったり、身心にハンディを持っているなど、生きづらさを抱えているマイノリティが他にもいる。
みんなで力を合わせ、声を上げていくことが大事なのではないか、という。
当事者以外の力が絶対に必要
LGBTの問題に、当事者ではない人間が関わることを快く思わない人もいるが、靜さんによれば「それは残念なこと」。
「われわれセクシュアル・マイノリティは、マイノリティというくらいだから当事者の数は少ないんですね。世の中を変えるためには、たくさんの人の力が必要です。より多くの人が声を上げないと、耳を傾けてもらえない」
「だから、当事者以外の人の協力がどうしたって必要なんです」
ほかにも、たとえば経済誌などが「LGBT市場はこれだけある」といった、まさにビジネスライクなアプローチで発信してくれるとしたら、それもアリなのではないか。
マーケットがそこにあるということがわかれば、世間もLGBTにもっともっと注目してくれるだろう。
その結果、LGBTへの関心や理解も深まってアライ(支援者)が増えるかもしれない。
そうなれば、なんと心強いことだろう。
その上で靜さんが望むのは、LGBTを含め ”人と違うこと” に対する差別がなくなること。
「私は、この世にある差別のすべては人権問題に落とし込めると考えています。ところが、日本人はこの人権という意識が格別に薄いように感じます。『ダイバーシティ』とか『多様性』という言葉をよく耳にするようになりましたが、実のところ、LGBTひとつを取ってもなかなか ”人と違うこと” が認められていません」
個々の人権について正しく理解し、互いに尊重する。
それが叶って初めて「みんな違って、みんないい」社会が実現し、すべての人が平等に扱われるようになるのではないか。
「まあ、実際にはそんなことはあり得ないだろうとも思ってはいますが、少なくても個々人が、生きていることに幸せを感じられるような社会になってほしい。それにはやはり、日本に人権意識がしっかり根づく必要があります。そのために自分にできることは何なのかを考え、行動していきたいと思っています」