02 「オカマ」と呼ばれる子
03 人と違うのは当たり前
04 遅れてやってきた思春期
05 友だちへのカミングアウト
==================(後編)========================
06 狭い世界からの脱出
07 ゲイとしての生き方
08 両親の戸惑い
09 出生の秘密
10 彩り豊かな人生
06狭い世界からの脱出
地方都市・金沢への進出
高校卒業後は、金沢の大学に進学する。
「高校の途中で、デザインに興味を持ち始めて」
「金沢にデザインと美術、プログラミングなどを総合的に学べる大学があったので、そこに進学しました」
初めて地元を離れ、ひとり暮らしを始めた。
「大学生になると一気に視野が広がって、できることも増えて、すごく楽しかったです」
演劇サークルやアルバイト、他大学と合同の学生団体など、興味を持ったことにはなんでも挑戦した。
「地元は田舎ですごく狭い世界だったので、やれることも少なかったんです」
「金沢では自分を縛る鎖がなくなったので、すべてがパーッと開けた気がしました」
「何より楽しかったのは、初めての彼ができたこと。掲示板で知り合った2つ年上の人でした」
高校のときが人生の冬なら、大学時代は春。
狭い世界から飛び出し、「いい子」の仮面を脱ぎ捨て、枠にとらわれない自分を思いきり表現することができた。
人生初のパートナーとの恋
初めての彼とは、大学時代から8年間付き合った。
「それまで経験がなかったから、最初は『付き合うって何?』って戸惑いがありました」
「でも、その彼は歳が近いので価値観もわりと似てて、なんでも一緒に楽しめたんです」
高校までは、どれだけ仲のいい女友だちがいても、「性別も違うし、相手からは一線を引かれている」と思い込んでいた。
だが、初めての彼とはどんなことも共有できた。
親友のようになんでも話せて、なんでも相談できる。
それでいて、友だちには見せない一面も見せ合える。
初めて手に入れた相思相愛の関係は、大きな幸福感をもたらしてくれた。
幸せな日々を送る中、大学の友だちにも、ゲイであることをカミングアウトする。
「試しに話してみたら、すんなり受け入れてもらえたんです。そこからは、タガが外れたようにオープンになりました」
「思えば、カミングアウトして嫌な反応をされたことはほとんどないかも。肯定してくれる人ばっかりでした」
「大学以降で知り合った人には、基本的には隠すことはなくて、さらっと明かしてます」
ただし、家族に打ち明けることはできなかった。
「本当は言いたかったんですけど、なかなか勇気が出なくて」
ひとりっ子で親の期待が大きいのを感じ取り、ずっと「いい子」であろうとしていた自分。
家族へのカミングアウトという壁は、果てしなく高く感じられた。
07ゲイとしての生き方
金沢での “ゲイの立場”
大学卒業と同時に、初めての彼と同棲を始める。
「彼と一緒にいたくて、卒業後もそのまま金沢に残ったんです」
「大学でデザインの楽しさを知ったので、デザイン系の仕事に就きました」
閉鎖的な地元と比較すると、開放的な雰囲気の金沢。
地元よりもずっと居心地が良かった。
しかし、それでもなお、LGBTへの理解はまだまだ進んでいない、と感じる場面もあった。
「金沢で知り合ったLGBTの人の多くは、『セクシュアリティをオープンにしたくない』『このまま何も変わらず、ひっそりと生きていければ』と思っている印象がありました」
周囲のゲイも、ほとんどは普通のサラリーマンとして生活し、週末だけゲイバーに行く日々を送っていたと思う。
親や親戚に「結婚しろ」と言われても、ゲイだと説明することはなく、耐え忍ぶのが当たり前だった。
「北陸は、伝統的な家族観が強い地域なのかなと思います」
「差別する・しないの前に、自分の周りにはいないものだと思ってる人がすごく多いかな」
「『東京だけの話でしょ、自分たちには関係ない』って」
そんな空気があったせいか、彼と生涯をともにするイメージはうまく描けなかった。
「ずっと一緒にいたかったけど、周りにモデルケースがなくて。現実的には難しいのかな、って思ってました」
いざ、東京へ!
一時は地元に戻って家族と生活したが、5年前に上京した。
「当時付き合ってた人が仕事で上京することになって、一緒に行きました」
「ずっと、いつかは東京で暮らしたい、って気持ちがあったので、いい機会でした」
実際に生活してみると、やはり東京は金沢以上に開放的だと感じる。
「みんな、いい意味で他人のことを気にしないですよね」
「誰かが何してても、どういう状態でも無関心。自分が何者であっても、いちいち干渉されないし」
「例えば、ゲイカップルでデートしてたとしても、同じお店にいた人とまた会う可能性は少ないですよね」
「すごく楽だなって感じます」
一緒に上京したパートナーとは別れてしまったが、今でも東京での暮らしを満喫している。
「東京は自分に合ってるなって。やりたいことも、行ってみたいところもまだまだあります」
1年ほど前に、LGBTの就職支援事業を行う株式会社JobRainbowに就職。
現在はWebデザイナーとして働いている。
「求人サイトを作ったり、名刺やステッカーをデザインしたり。LGBTに関わる仕事だし、スタートアップなので全部自分でやらなきゃいけなくて、やりがいはあります」
セクシュアリティについてオープンにできる環境で、自分らしく働く充実した日々を送る現在。
実は、その数年前には大きな壁にぶつかっていた。
08両親の戸惑い
家族3人で逃げよう」
「いつかはしよう」と思いながらも、なかなか実行できなかった家族へのカミングアウト。
6年前ほど前、富山の実家で暮らしていた時期に、ついに行動に移した。
「自分の誕生日に長い手紙を書いて、両親の前で読み上げたんです」
思い描いていた両親のリアクションは、「そうだったのか」と理解して受け入れてくれる。
「気持ち悪い。そんなの無理」と拒絶する、のどちらか。
勘当も覚悟して勇気を振り絞ったが、返ってきた反応はそのどちらでもなかった。
「2人とも激怒しちゃって・・・・・・」
「『そんな考えを持つのは許さないし、近所でお前の思想を広めるならもうここには住めない! 家族3人で逃げよう』って言われたんです」
思いもよらない言葉に愕然とし、何も言えなかった。
感じたのは、怒りよりも悲しみだった。
「『勇気を振り絞っても伝わらないんだ』『息子のことよりも、近所の目を気にするんだ』って、そのときは絶望しました」
両親はゲイの存在について、おぼろげながら認識はしている。
それでも、テレビなどの影響から誤解は大きかったのだろう。
「『お前はオカマじゃないから違う』『いつかは治って、女性と結婚するはず』って言われました」
「一生懸命説明したけど、理解してもらえなくて・・・・・・」
大切なひとり息子
両親の反応に強いショックを受けたが、言われるままに家探しを始めた。
「カミングアウトの翌週、家族3人で実際に家を見に行ったんです。みんな混乱したままの状態で」
だが、自分も両親も心の底から引っ越しを望んでいるわけではない。
帰り道にお互いの感情が爆発し、もう一度本音でぶつかり合った。
「両親は、『本当はこんなところに引っ越したいわけじゃない』『近所の目は気にせず、住み慣れた家に家族3人でずっと一緒に住んでいたい』って言ってくれました」
「実際に行動してみて、『自分たちは何をやってるんだろう?』って冷静になれたんでしょうね」
ともに閉鎖的な田舎で生まれ育ち、支配的なところのある父と、古風で夫に従う母。
大切なひとり息子にかけてきた期待は大きく、パニックになってしまったのだろう。
しかし、そんなときでも、口から飛び出した言葉は「出て行け」ではなく「3人で引っ越そう」だった。
今では、息子の将来を案じる気持ちがあるからこその発言だった、と理解している。
「『私たちがいつか先に逝ったら、あんたはひとりぼっちになってしまう。どうするんだ』とも言ってて」
「結婚できない自分を心配したんでしょうね」
不器用ながらも、根底では自分を思いやる両親の気持ちが感じられた。
09出生の秘密
2つの母子手帳
少し厳しい父と優しく控えめな母は、ひとり息子の自分を大切に育ててくれた。
そんな両親と血が繋がっていないと知ったのは、高校生の頃だった。
「それまで親からは何も聞かされてなくて、当たり前のように、このうちの子だ、って思って育ちました」
「でも、家で母子手帳を2つ見つけたんです」
2つの母子手帳を見て、生みの母親が他にいること、1歳のときに横山家に引き取られたことを知る。
「ショックはあんまり受けませんでした。生みの親が別にいるんだ、会ってみたいな、ってワクワクしちゃって」
生みの母親がどんな人なのか、どんな経緯で養子に出されたのかが気になり、両親には内緒で地道に探し続けた。
23歳の頃にはついに居場所を突き止め、住所を調べて手紙を出す。
「結局、実際に会えたのは自分が30歳になる頃でした。生みの母親は自分と顔が似てたけど、会ってみるとすごく他人って感じで」
「『あ、初めまして』とか言い合ってて、ドラマみたいな感動の再会ではなかったです(笑)」
「自分は、生みの母親が17歳のときにできた子。相手の男性のことはわかりません」
「その頃の母は1年ほどは頑張って育ててくれたけど、まだ若かったから難しかったみたいで」
そんな中、子どもを授からなかった今の両親と縁があり、横山家の長男になる。
親からも祖父母からも事情を聞かされることはなく、実子同然の愛を受けてすくすくと育った。
「あなたは私たちの子ども」
母子手帳を発見した当初は、養子だと知っていることを両親に伝える選択肢はなかった。
「知らないふりをした方が、父も母も幸せだろう」と気遣ってのことだ。
「けど、生みの母親と連絡を取り合うようになってからは、さすがに言った方がいいかなと思って」
「養子だと知ってること、生みの母親を見つけて連絡を取ってることを両親に伝えました」
両親の反応は、思いのほかあっさりしたものだった。
「2人とも、自分が養子だってことを半分忘れてたみたいです(笑)」
「『そうだったね。でも、あなたはずっとうちで育ってきた。私たちは親だし、あなたは私たちの子どもだよ』って言ってくれました」
生みの母親には、その後も何度か会った。
「両親は『なんでわざわざ何回も会うの?』って、あまりいい顔はしませんでした」
「でも、『単なる好奇心で会いたいだけ。それ以上は何もない』『自分にとっての親はあなたたちだと思ってる』って伝えたら安心したみたいです」
養子であることを知らなかった頃も、知った後も、邪険に扱われたり、「育ててやったのに」と恩を着せられたりすることはない。
「親戚の集まりでも、『この子は血がつながってないから、自分たちが死んだらひとりで生きていかなきゃいけない。心配だ』って、ラフに言うようになって」
「セクシュアリティへの理解は得られてないけど、2人の愛情はしっかり感じてます」
いつかは、セクシュアリティについても理解してもらえたらと思う。
10彩り豊かな人生
違いを楽しめることの大切さ
両親や友人、LGBTの仲間たち。
たくさんの人との出会いが、自分の人生をどんどん豊かに、カラフルにしてくれた。
今後も、さまざまな人と交流し、より多くのことを知っていきたい。
「もっといろんな国の人、いろんな境遇の人と関わってみたいです」
「あとは、生きているうちに行きたい場所をコンプリートしたいですね。遺跡が大好きなので、エジプトとかペルーとか。モアイ像も見たい!」
旅行好きで、多くの国を旅してきたが、つらい体験をした記憶がない。
「海外旅行に行くと、みんな結構現地の愚痴を言いがちじゃないですか」
「自分はそういうのが全然なくて。どこへ行っても、『こんなもんだよね』『海外だし、お腹くらい壊すよね』って受け入れられるというか」
「違いを楽しんでるのかな、と思います」
「むしろ、カルチャーショックを受けたり、『ひどい目に遭った!』って嘆いたりしてみたい(笑)」
人に対しても、腹を立てることはほとんどない。
「例えば、道端でいきなり水掛けられても怒らないかもしれない(笑)。『この話おいしいぞ! めっちゃネタになる』って考えちゃう」
「なんでもネタになることを想像して、ワクワクしちゃうんですよね。小さい頃から妄想族だからかな?」
「こんな感じだから、人生楽しいです」
「人と違ってラッキー」と思えるように
ゲイ、養子―――。
客観的に見ればマイノリティの立場だが、いつも前向きに生きてきた。
「高校のときにモヤモヤしてたくらいで、思い詰めたり、死にたいって思ったりしたことはなかったかもしれない」
「それに、もしゲイじゃなかったら出会えなかった人もいるし、出会えなかったこともあったはず」
「だから今の自分でよかったなって」
子どもの頃から、人とは違う自分らしさを純粋に表現できる子だったと思う。
思春期の頃は悩むこともあったが、今は、違いを積極的に楽しめる自分を取り戻している。
「ゲイだとか養子だとか、マイナスに捉えがちなことをプラスに捉えられたから、人生が豊かになったのかなって」
LGBTや養子であることについて悩む人には、こんなエールを送りたい。
「受け入れるには時間がかかるかもしれない。けど、人と違うって良いことだし、人生をより面白くするチャンスだと思うんです」
「シンプルな人生より、二度も三度もおいしく楽しめる人生の方が素敵じゃないですか」
「『人と違ってラッキー!』って思えるようになれば、よりいっそう色のついた物語を生きられるから」
瞳の奥には、今でもスカートを履いてくるくる回る自由な男の子がいる。