02 男の子も女の子も好き
03 将来につながる先生との出会い
04 友情と恋愛感情の狭間で
05 男同士で、どう愛し合えばいい
==================(後編)========================
06 旅立ちのカミングアウト
07 憧れの小学校教員になって
08 やっと掴んだ愛の手触り
09 知らぬ間に家族はひとつになっていた
10 教員として、僕だからできることを
06旅立ちのカミングアウト
ひとつの選択
大学の志望学部は、迷わず教育学部を選んだ。
問題は学費だ。
父は変わらず酒癖が治らず、家庭に給料の半分しか入れない。母はスナックの仕事を辞めてスーパーのパートを始めたが、下の兄弟3人の先行きを考えると、家計はどこまでも心許なかった。
「新聞奨学生として、大学に入学することを決めました」
生まれ故郷の茨城県を離れ、進学先の大学の所在する埼玉県越谷市の新聞営業所に住み込むことになった。
しかし生活は、想像を超えるものだった。
「3時から6時まで朝刊の配達をして、学校に行きます。4限が終わったら、今度は帰って夕刊の配達。そこに集金業務も重なるので、毎日多忙でした」
「夕方になってみんながサークルに向かうのに、自分だけ仕事。教育について学べること以外は高校と変わらない、大学でしかできないことを何ひとつしていない気がして、1年で辞めました」
実家に帰り、近くの居酒屋でのアルバイトに励む。
新聞社に借りていた入学金や1年分の授業料も、4種類の奨学金を駆使して完済した。
新宿駅で
「大学は全国からいろんな男の子が集まってくる場所。新聞奨学生を辞めて、心に余裕がある状態で周りを見渡したら、いい男がたくさんいるなぁ、と思いました(笑)」
とは言いながらも、大学2年生の時に、告白されて学科の後輩だった女の子と交際した。
「一度、女の子と付き合ってみようと思ったんです。けれど、初めてデートに行った浅草の花やしきで、手をつなぐことすらできなくて。彼女からつないできたけど、手を握っている間じゅう、鳥肌が立ってました」
結局、彼女から離れていった。
「先輩は特急列車、私は各駅停車」という言葉を残して。どこまで行っても心が通い合わない、ということだったのだろう。
この失恋を機に、もう淡々とゲイとして生きようと思った。
今まで「好きな人はいるの?」と聞かれたら、好きな男の子のことを女の子に置き換えて返答していたけれど、もうそれも嫌だった。
「大学3年生になって、シノちゃんという学部の女友達と、彼女の実家のある北海道まで『青春18きっぷ』で旅行することになったんです」
男女の枠を超えて、いろいろなことを話せる。気持ちが共有できる。彼女はそんな存在だった。
「なんとなく、シノちゃんなら分かってくれる気がしたんです。出発の日の朝、新宿駅の喫茶店でカミングアウトしました」
「いいんじゃない、シゲはシゲで変わらないから」。
すべての告白を聞き終えて、彼女が発した言葉だった。
07憧れの小学校教員になって
幸せの模索
「シノちゃんに受け入れてもらえて、自分の見立ては間違っていなかった、と思いました。それからは、この人は理解してくれるだろう、という人には、どんどんカミングアウトしました」
雑誌『Badi』との出会いも大きかった。
世の中には自分と同じように、同性を好きになる男性が、こんなにたくさんいるんだ、と知った。
文通欄に目を通しては、個人情報と写真を入れた封筒を編集部に送った。まだ今ほどインターネットが普及していない時代、ゲイがゲイとリアルにつながるには、有益な手段だった。
大学では小学校教諭の資格を取る勉強と並行して、障がい児教育を専攻した。夏や冬に障がいを持った子どもを湖や高原に連れていくサークルにも参加した。
「ある同級生とサークルで知り合いました。彼は教育心理学を専攻していて、互いの視点から障がい児教育について、よく熱心に語り合いました。それで、ちょっと好きになっちゃったんです」
「自分にはない知識や、ものの見方ができる、そんな男性を僕は好きになる傾向があるようです」
結局、彼とも付き合うことはなかった。
『Badi』の文通欄を介して、何回かゲイの人にも会ったが、交際まで発展することもなかった。
楽しかった大学時代だったが、唯一果たせなかったことが、パートナーと出会うことだった。
教師になるまで
大学4年生になって、小学校に教育実習に赴いた。
そこで現実に直面して、迷う。
「4週間、小学2年生の担任をしたんですが、もう全然クラスのまとめ方がわからなくて。児童とうまくコミュニケーションが取れないから、一人では授業も進められませんでした」
あまりの自分の不甲斐なさに、一般企業に就職しようかと考え、エントリーシートを取り寄せた。
しかし踏み止まって小さな頃からの夢、教師を志す決意を固める。
「大学4年生の7月、地元・茨城県の小学校教員採用試験には落ちてしまったんです。そこでまた悩みましたが、今度は10月に養護学校の教育実習に行って、やっぱり先生になろうと考え直しました」
卒業してからしばらくフリーター生活だったが、10月に東京都の小学校教員の採用試験に合格。
半年間、地元の高校で小学校の非常勤講師をした後、2002年に憧れの小学校教諭になった。
「母は大喜びしてくれました。近所の人に『シゲちゃん、先生になったんだって?すごいね』と言われるのが嬉しかったみたいです」
「父には『教師になんてなって欲しくなかった』って、相変わらずの憎まれ口を叩かれました。けど、行きつけの飲み屋では我がことのように誇らしげに、僕のことを語っていたそうです」
目指すは中学時代、その股間ばかりに目を奪われていた、大好きだった中学校の理科の先生だ。
正義心が強くて熱血漢、そして誰よりも生徒おもい。そんな先生になろうと思った。
08やっと掴んだ愛の手触り
最初のパートナー
大学卒業と前後して、初めてパートナーができた。相手は1つ歳上のシステムエンジニアだ。
掲示板を介して知り合った。
「不誠実かもしれませんが、好きで付き合ったわけではなかったんです。ただ男の人と付き合うってどんなものか、知りたかった。結果として、5年半も付き合うことになったんですけど」
彼の家で一緒に料理を作って、食べる。同じ布団で並んで眠る。旅行に出かける。今までずっと自分がやってみたかったことが、やっとできた。
それが何よりも嬉しかった。
「彼の方が歳上だったので、気兼ねなく甘えることができました。複雑な家庭環境で長男として育ったから、どこかでお兄さんのような人を欲していたのかもしれません。彼は音楽や演劇など僕の知らない世界に詳しく、そこも魅力的に映りました」
素直さと誠実さ
しかし小学校教員の仕事は、初年度から多忙を極めた。おまけに保護者とのトラブルにも巻き込まれてしまう。
「小学2年生の担任だったんですが、児童が休み時間に、うんていから落下してしまって。保健室で見てもらっても問題なかったし、学年主任の先生からも保護者に連絡する必要はないと指示されたので、安心していたのですが」
児童が帰宅した後、状況を知った父親が学校にやってきた。
「担任から説明がないのはおかしい」と、ものすごい剣幕でまくし立ててくる。
「上司の指示通りに対処しただけなのに激怒されて、頭が真っ白になって。その日はそれで終わったけれど、後日直接、お父さんが話をしに、学校にいらっしゃったんです」
「『僕が悪かったんです』と自分で謝っているうちに、泣いてしまって。申し訳なくて、涙が止まらなくなってしまったんです。そうしたらお父さんが『私は鈴木先生の本音を聞きたかっただけなんですよ』とおっしゃって」
「その言葉を聞いて、また泣いてしまったんです。そんな僕に『鈴木先生と話せて良かった』と、また優しい言葉をかけてくださいました」
教師に大切なのは、素直さと誠実さ。
そう痛感した瞬間だった。
09知らぬ間に家族はひとつになっていた
出会いと別れ
「僕は公務員で、彼は企業勤めで。仕事の相談をすると、違った視点の返答があるから、そこも頼もしかったんですけど」
「彼が激務で体調を崩して、会社を辞めたあたりから、気持ちがすれ違うようになって。相談した結果、別れることになりました」
その後、休暇を使って、一人で地方を旅行したが、そこで運命的な恋に落ちてしまう。
しばらく遠距離恋愛を続けたが、彼を追いかけて地方に移住しようと思った。
「学校には『地方に女性の恋人がいて、結婚するために辞める』と言いました。東京都の職員を辞めて、今度は彼のいる地方で、教員採用試験に合格しました」
うまく軌道に乗ったかに見えた交際だったが、実は初めから終わりが見えていたのかもしれない。
「『結局はお互い、女性と結婚しないとね』ということを、口癖のように言う人でした。長く付き合いましたが、最後は『女性と結婚する道を探りたい』と言って、円満に別れました」
彼は素敵な男性だった。
人の心の機微が分かる繊細な感性の持ち主だったからこそ、田舎特有の「なぜ、いい歳をした男が結婚しない」という非難めいた視線に、耐えられなかったのかもしれない。
「せっかく彼を追いかけて来たのに、身寄りがなくなったような気持ちになりました」
その後、知らなかった世界を垣間見ることに・・・・・・。
年末、茨城の実家に帰省する前、ゲイアプリをダウンロードしてみた。
そして いろいろなゲイの人に会ってみて、東京にはゲイの人がこんなにいたのかと驚いた。
「それまでずっと僕はパートナーに、ゲイコミュニティとの接触を禁止されていたんです。『お前は、どっかフラフラしたところがあるから、ダメだ』と言われて」
「実際にアプリを介して東京のゲイの人たちと接触してみたら、皆、キラキラした生活を送っているように見えたんです。これは戻ってこよう、と思いました」
兄弟の成長
そのとき勤めていた小学校の校長、教頭に辞職を申し出たら、頑なに踏みとどまるように説得された。
「仕方がないので『東京でセクシュアリティを含め、自分らしく生活したいので、辞職させてください』と素直に言いました。今の学校に勤めるようになった経緯も付け加えて」
そう言われた校長の第一声は「子どもはできないのか」という意外なものだった。
おそらく「ゲイ」という人種をうまく想像できないがゆえの発言だろうとは思ったが、『はい、僕にはできません』とだけ返答しておいた。
そして再度、東京都の教員採用試験にも受かった年の瀬、家族へカミングアウトすることを決めた。
次の年まで、持ち越したくなかったのだ。
「紅白歌合戦を見ながら『僕、ゲイなんだ』と、そのままを言いました。父は『情けない、二度と家の敷居をまたぐな』と怒鳴りました。でも怒りは、僕への期待の表れなんじゃないかって冷静に考えたんです。そもそも、想定内の反応だったので『じゃぁ何か僕にして欲しいことはあったの?』と冷静に聞き返しました」
「『長男の孫が抱きたかった』と父は答えました。『それはできないけど、旅行や美味しいものを食べさせてあげることはできるよ』と僕は言ったんです」
「『そんなの要らねえ! 自殺してやる!』と言って、父は部屋を飛び出しました。今にして思えば、考えもしない息子の話しを、旅行や美味しいもので上書きすると言われても、確かに腑に落ちないですよね(笑)」
母親は「あんたを男子校に入れたから、こんなことになった」と言いながら、うろたえていた。
「嬉しかったのは、弟が僕と父の仲裁に入ってくれたことです。『たとえゲイでも、シゲが変わるわけじゃない!』と理解を示してくれたうえに、一生懸命、父をなだめようとしてくれたんです」
上の妹には、その一ヶ月前に練習でカミングアウトしていた。初めは拒否感を示されたが、理解してくれた。
下の妹に至っては、自分が昔『Badi』編集部に宛てた手紙の書きかけを盗み見て、すでに知っていたというのだ。
「お正月明け、一人暮らしの家に帰る僕に、父は自分が作った野菜をもたせてくれました。言葉はなかったけれど、あれは父なりの理解の示し方だったのだと感じてます」
バラバラだった家族は、知らない間にひとつに繋がっていた。
10教員として、僕だからできることを
当事者として
昨年、ウェブで自身の名前や職業、セクシュアリティを写真とともに公表した。
昨今のLGBTのカミングアウト・キャンペーンを見ながら、ある疑問を抱いたからだ。
「小学校教員のカミングアウトを見たことがなかったからです。自身のLGBTとしての半生を鑑みても、まだ自分で社会とうまくコミットできない義務教育期間こそ、周りの大人がよき理解者である必要があると思うんです」
だから教育の現場にもLGBTがいることを示す必要がある。
使命感をもっての公的なカミングアウトだった。
児童が教えてくれたこと
公的なカミングアウトを決意させたのは、昨年、担任した6年生たちによるところも大きい。
「私語をやめない、話しを聞かない。学級がまとまらなくて、本当に担任の僕の胃が毎日キリキリするくらい、手のかかる児童たちでした」
「でも自由で、やりたいことに異常なまでのエネルギーを注ぐさまは、本当に大人の僕が見ても眩しくて。『先生は、本当にやりたいことをやっているの?』と日々、問いかけられている気がしたんです」
児童に背中を押されたから、勇気をもって公的なカミングアウトができた。
今はフルタイムの小学校教員は辞めたけれど、非常勤講師として障がい児教育に携わっている。
また仕事とは別に、教師へのLGBT啓発活動、またLGBTで悩む子どもに救いの手を差し伸べたいとも考えている。
「実は先日、前の職場の保護者と話していたら、担当していた6年生の子が母親のスマートフォンで僕の名前を検索したらしく、ついにゲイだってバレちゃったみたいなんです。しかもクラスのグループLINEで、多くの子に伝わったらしくて」
「自分のカミングアウトが子どもや保護者の目に触れて、そのまま教育委員会にも伝わって、ちょっとした問題になるという可能性もなくはない。それで迷惑をかけるリスクを排除して、退職を選んだという経緯もあります」
「もちろん全てを知ったうえで、引き止めてくださる先生も多くいたんですが、だからこそ不安の芽を積んでおきたいと思いました」
「ただ6年3組のみんなに本当のことを伝えられなかったのが、心残りなんです。いや真実を話したところで、どれくらい理解してくれるかも未知数ですが。彼らが大人になったとき、僕のことをどのように思い出してくれるか。いつか会えたら、聞いてみたいと思っています」
そのおもいがあるから、今回、ありのままの自分のことを教え子たちに伝えたいと思った。
6年3組みのみなさんへ
こんにちは。お久しぶりです。
みなさんが卒業してから、半年以上が過ぎましたね。その後、元気に過ごしていますか?シゲ先生は、色々と大変なこともあるけど、毎日割と元気に過ごしています。
みなさんはとても個性的で、エネルギッシュで、自分の好きなことにはとことん取り組む子どもたちでした。私は、そこがとても好きでした。みなさんから、素直さが感じられました。
そんな姿を見ているうちに、シゲ先生自身も「自分の本当に好きなこと」「やりたいこと」「これからの人生のこと」を考えました。
学校の先生は好きな仕事だけど、前に進むために退職を決意しました。
卒業式の後の教室で、「みなさんのおかげで、シゲ先生も大きな決断をしました。本当にありがとう」という話をしたのを覚えていますか?
私の大きな決断とは「性のことで悩む人の役に立ちたい」ということでした。結婚ではありませんでしたね(笑)
私自身もゲイ(心も体も男性、好きになる人がたまたま男性)ということで、子どもの頃から性について悩んできました。いじめられるかと心配で、親にも友達にも先生にも言えませんでした。とにかく怖かったです。
本当はみなさんが小学校にいるうちに自分がゲイであることを話して、「性の多様性」や「色々な生き方と価値観」について授業をしたかった。
でも、LGBTについてまだ正しく理解されていない現代にあって、みなさんや保護者の方に軽蔑されるのではないか、不安にさせてしまうのではないかと、怖くてそれができなかったのです。
だから今は学校から少し離れた場所で、「性のことで悩む人の役に立つ活動」をしています。(今考えると、退職しなくてもそういう授業はできたんだけどね 笑)
いつかみなさんと、そのような授業ができたらいいなと思っています。
みなさんの中にもたくさんの良さがあるので、それを生かして「自分らしく、よりよく生きる」ことを目指してほしいです。
それが「よりよい世界」の実現になったら、とても嬉しいです。
最後まで読んでくれて、どうもありがとう。
また会いましょう。
シゲ先生より
LGBTで悩む子どもを助けるために、まずはセクシュアルマイノリティへの正しい知識を持った教員を増やしたい。
当事者以外の子どもが、多様性を認められることも大事だろう。
「LGBTの問題だけじゃないんです。さまざまな生き方を知ったうえで、どんな人になりたいか。生き方、夢を考えるキャリア教育の大切さも伝えていきたいと考えています」