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大人になっても夢をもってわくわくできる【後編】

大人になっても夢をもってわくわくできる【前編】はこちら

2025/05/07/Wed
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
出村 聖真 / Seima Demura

1993年、東京都生まれ。日本人の父親とフィリピン人の母親をもち、6人兄弟のなかでたくましく育つ。幼少期から性別違和を抱いていたことが由来して、高校卒業後の進路では就職先からの内定を辞退。さまざまな職種を経験し、現在はハウスクリーニングサービスを営むほか、オリジナルのアパレル販売、プライベート旅行のプランニングも行っている。

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INDEX
01 お母さんがあまり好きじゃなかった
02 周りとちがうから、といじめられて
03 幼少期からの性別違和
04 制服のスカート
05 はじめての彼女
==================(後編)========================
06 やむなく内定辞退
07 大人でも夢をもっていい
08 ご縁を大切に
09 自分の知らない自分
10 SRSなしで戸籍上の性別を変えるということ

06やむなく内定辞退

進学は無理

野球部がないから、という消極的な理由で始めたサッカーだったが、どんどんはまっていく。

「いろんなことにすぐ興味が湧くタイプなんです。高校では、なでしこジャパンを目指して頑張ってました」

高校卒業後はスポーツ系の専門学校に進学して、サッカーを続けたいというおもいがあった。

「でも、金銭的に難しいだろうな、ってわかってたんです」

経済的に余裕がない生活は、小学生のころから変わっていなかった。

それでも楽天家の母は「家のことは全然気にしないで、好きなようにすればいいよ!」と言ってくれたが、高校3年生にもなれば家の事情がどんなものか、なんとなく分かるもの。

「いやいや、どこからお金出すの? って(苦笑)」

サッカー以外に将来の夢や興味のある職業はなかったが、家庭の事情を汲んで、高校卒業後は就職しようと決意する。

「でも、あのとき本当にサッカーを続けたかったなら、お金のことはなんとかしてでも専門学校に進もうとしてたんじゃないか? それをしなかったってことは、あのときの自分のおもいが本気じゃなかったのかな? っていまは思いますね」

メンズスーツNG

身体を動かす仕事を志望して就職活動を行い、ガソリンスタンドを運営する大手エネルギー企業の内定を得る。

「内定者研修に参加するとき、レディースじゃなくてメンズスーツを着たいなと思って、会社に相談したんです」

自分は性同一性障害なので、メンズスーツを着て研修に参加したいです、と率直に伝えた。

「結果は、周りの目があるのでそれはできません、って断られました・・・・・・」

いまから10年以上前の出来事。大企業ですら、LGBTQ当事者の従業員への対応など想定されていなかったのだろう。

「世の中ってこんな感じなんだって・・・・・・」

内定を辞退した。

「性同一性障害を受け入れてもらえないから」と先方に伝えると波風が立つので「知人のお店で板前として修業することになった」という理由を担任の先生から伝えてもらった。

やりたい仕事をやってみる

高校卒業後、正社員での働き口は決まらず、アルバイトを転々とする。

「最初は、身体を動かす仕事で体力をつけたい、って思って建築系の仕事をしてました」

そのあとに選んだのはミックスバーでの接客業だ。

「FTMで六本木のガールズバーとか何店舗を経営している有名な方を知って、水商売の世界に興味が湧いたんです」

「でも、ぼくが接客業未経験だったので『歌舞伎町で修業しなさい』と面接で言われて、まずはミックスバーの店員として働くことになりました」

お酒を交えながらさまざまなお客さんと言葉を交わすことで、いろいろな価値観やセクシュアリティに触れることができた。

ただ、接客業はもちろん楽しいことばかりではない。

「お客様の愚痴を聞くことが、あまり得意じゃなくて(苦笑)」

日々ストレスを抱えた生活を送り、お客さんはお酒の場だからこそ吐き出すのだから、後ろ向きな話題が多くなるものだと考えてはいたが、思いのほか気疲れしてしまった。

「愚痴を受け流せなくて・・・・・・毎回親身に耳を傾けてたんだと思います」

お客さんのストレスを受け止めすぎて、ついにダウンしてしまう。

「摂食障害になって、電車にも乗れないほどに体調が悪くなってしまって、半年ほど休みました」

07「フロ」サーファーとの出会い

楽しくて自由な大人たち

転機となる出会いがあったのは、20歳のころ。

「サーフィンをやってみたいなって思ったんですけど、周りにやってる人がいなかったので、mixiのサーフィンサークルに入ったんです」

そのなかのメンバーの一人だったのが、サーフィンをしたあとに近くの温泉に入る「”フロ” サーファー」を名乗る、あるおじさんだった。

「生きていたら自分のお父さんと同じくらいの年齢のかたです」

フロサーファーが近くに住んでいたので、直接会って話すことに。

「かなり年上だけど明るくて、おおらかで、なんでもOK! みたいなマインドで・・・・・・」

その人からまたいろいろな人を紹介してもらって人脈が増え、自分自身もどんどん変わっていった。

「それまでぼくがもっていた大人のイメージって、仕事で大変、つらそう、っていうマイナスな要素が大きかったんですけど、大人でも夢をもって楽しく生きてもいいんだ! って思えるようになりました!!」

楽しいことばかりだけでなく、人と接するうえでの常識も教えてもらった。

「大好きなお酒を飲みながら語る場が楽しかったです。この人との出会いがなかったら、いまの自分はいないと思います」

フィリピンへ貢献

楽しく生きる大人たちの背中を見て、自分でも夢を抱くようになった。

「いつかフィリピンに小学校を建てたい、って思ってます」

きっかけは、小学校高学年のときに初めてフィリピンの首都・マニラを訪れたときの体験だ。

「日本とのギャップに驚いたんです」

フィリピンでは、幼い子が学校に通わず働いたり、物乞いをしたりしている。でも、なぜかいつも笑顔が絶えない。

日本に戻ると、児童労働はなく、貧しくても義務教育を受けられる環境が整っている。でも、どこか殺伐とした空気が流れている。

「フィリピンでは、親の経済事情で子供が学校に通えるかどうか左右されると聞いて、だれでも通える小学校を作りたいと思ったんです」

そのために、アパレルブランド「STANDBY」を立ち上げた。

「売り上げの一部を小学校の建設費用に充てるために作りました。2年前にはフィリピンで炊き出しのボランティアもやりました」

小学校建設計画はまだまだ先だが、夢をかたちにするための準備を少しずつ進めている。

08ご縁を大切に

母への恩返し

アパレルブランドとは別に、2年前にハウスクリーニング事業を始めた。

「ぼくや父、弟がお世話になったクリニックで就業支援の作業場スタッフの仕事を続けてたんですけど、コロナ禍が落ち着いたころメンタル的にダウンしてしまって、1人でもできる仕事を始めてみよう、と」

「基本的に掃除の技術は独学です」

アパレルブランドだけでなく、ハウスクリーニング事業にもフィリピンへの想いが込められている。

「フィリピンから来た出稼ぎの人を雇いたくて始めたんです」

フィリピン人にはきれい好きな人が多く、ハウスクリーニング業界で働く人が珍しくない。

お金を稼いで実現させたいことは、フィリピンへの貢献だけではない。

「お母さんに恩返ししたんです」

幼いころはわからなかったが、母はとても家族思いの優しい人だと大人になって知ったから。

「自分たち家族の生活が苦しかった時期にも、お母さんはフィリピンにいる親戚のために、1万円だけでも送金してたんです」

母が希望しているスペイン旅行や、フィリピンでお店を持つという夢を叶えさせてあげたい。

ご縁と、タイミング

ハウスクリーニング事業の広告は、いまのところ打っていない。

「宣伝は口コミですね。彼女のお店をお手伝いしてるときに、本業はハウスクリーニングなんです、ってお客さんに宣伝したりもしてます」

おかげでLGBTER取材当日も仕事が入るほど盛況だ。

「いままではずっと一人で回してたんですけど、さすがに限界なので、新しく一人従業員を雇いました。今日はその子に現場に行ってもらってます」

これまで重ねてきた出会いから、大切にしていることがある。

「人生を楽しむことと、人との縁を自分から切らないことですね」

かつては、長らく連絡を取っていないLINEの友だちを削除していたこともあったけれど、現在は変わった。

「いまは連絡を取り合うことが難しい人がいても、それは『いまはそのタイミングじゃない』っていうことだと思うんです」

「たとえば、いまぼくの周りには結婚してる人が多いですけど、結婚や子育てで忙しいから連絡が取れないのかもしれない、ってこともあるはずですよね」

実際、10年ほど連絡の途絶えていた人と再びつながったこともある。

「いつかつながるときがくる、って思えるようになったのも、母の影響かもしれないですね」

09自分の知らない自分

気づかないうちに殻に閉じこもっていた

自分のおもいに目を向け、それを周囲に伝えられるようになったのは、実はここ1年ほどだ。

「小学校でいじめられてから人間不信になって、無意識のうちに自分の内面をあんまり出さないようになってたんです」

特に、大事な人の前ほど、本音で話せていないという感覚が拭えなかった。

「実際、歴代の彼女とはケンカしたことがありませんでした。嫌なことがあっても、自分がずっと我慢してたんです」

この1年ほどで自分の内面を見つめ直し、自分の考えやおもいを接する人へ率直に伝えられるようになってきた。

「自分にこんな一面があったんだ! って最初のうちは戸惑いました」

「今の彼女とはよくケンカしてます(笑)」

昼間に夜勤に

いま付き合っている彼女も、フィリピンにルーツをもつ。

「パートナーはバーを経営していて、そこで出会ってお付き合いすることになりました」

いまは自分の仕事であるハウスクリーニング事業を営むかたわら、時折彼女のお店を手伝っている。昨夜もお店に行っていたところだ。

でも12月~3月は、年末の大掃除や引っ越しシーズンなので、ハウスクリーニングは繁忙期。

「この1、2年はたくさん働いて、稼ぐことに集中したいと思ってます」

10 SRSなしで戸籍上の性別を変えるということ

できることから、少しずつ

性同一性障害の治療を知ってからは「20代前半には戸籍変更まで済ませたい」と思っていたが、現実はなかなかそうはいかない。

「SRSはやっぱりものすごくお金がかかるけど、ぼくの場合は全部自分で費用を賄わないといけないので・・・・・・」

それでも「できることから治療しよう」と、20歳からホルモン療法を始め、5年前には胸オペもすませた。

「お母さんは治療に反対してましたけど、説得してから始めるのでは時間がないと思って、事後報告で突き通しました(苦笑)」

23歳のときには、現在の名前「聖真」に変更した。

「名前を変えるまでは、ホルモン療法で髭が生えてきてるのに、身分証の『マリコ』っていう名で驚かれることもあって、苦労しました・・・・・・」

母がカトリック教徒であることから『聖』の字を使うことにした。

「聖真って名前、似合ってるね! ってよく言ってもらえます」

日常は変わらなくてもうれしい

2023年、トランスジェンダー当事者が戸籍の性別変更を申し立てる際に必要とされている「手術要件」について、生殖不能要件は違憲であると判決が下された。

それ以降、生殖腺を摘出しないまま戸籍上の性別を変える人がいることを聞くようになった。

ぼくも、2024年11月に戸籍上の性別を男に変更した。

「申し立ては、2024年の5月には出してたんですけど、正式に許可が下りたのは11月になってからでした」

それまでも治療を進めて男性として生活してきたので、戸籍上の性別が変わったからといって、毎日の生活に大きな変化が生じるわけではない。

「それでも、たとえば身分証で『男』とちゃんと書かれるようになったことは、やっぱりうれしいですね。それまでとは気分が全然違うなって思います」

何より、パートナーと法的に結婚できるようになった。

この春に立ち上げたプライベート旅行のプランニング事業も、フィリピンへの貢献も、お母さんへの恩返しも・・・・・・すべてはつながっている。

時間がいくらあっても足りない毎日だ。

「いまは、順調ですね! これからは、自分の周りの人たちを幸せにしていきたいです」

 

あとがき
ワクワクできる人、ワクワクすることが多い人は、しあわせを感じるのも上手だという。聖真さんはまさにそんな人だ。取材後も、新規事業立ち上げのお知らせあって、こちらも胸がおどった。半年後、1年後は別のニュースが届くかもしれない■過去は変えられないけど、変えられる。体験したことの意味は自分なりに解釈できるから。未来はどうか? 現在の延長線上だ。いまをどう捉えるのか、いまここをどう生きるのか、私たちは決めることができる。(編集部)

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