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大人になっても夢をもってわくわくできる【前編】

初夏のように明るく爽やかな雰囲気を放つ出村聖真さん。つい最近まで自分の内面を表に出せなかったという。たくさんの夢を抱いて、複数の事業主として日々奮闘するようになるまでには、さまざまな人との出会いがあった。

2025/05/04/Sun
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
出村 聖真 / Seima Demura

1993年、東京都生まれ。日本人の父親とフィリピン人の母親をもち、6人兄弟のなかでたくましく育つ。幼少期から性別違和を抱いていたことが由来して、高校卒業後の進路では就職先からの内定を辞退。さまざまな職種を経験し、現在はハウスクリーニングサービスを営むほか、オリジナルのアパレル販売、プライベート旅行のプランニングも行っている。

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INDEX
01 お母さんがあまり好きじゃなかった
02 周りとちがうから、といじめられて
03 幼少期からの性別違和
04 制服のスカート
05 はじめての彼女
==================(後編)========================
06 やむなく内定辞退
07 大人でも夢をもっていい
08 ご縁を大切に
09 自分の知らない自分
10 SRSなしで戸籍上の性別を変えるということ

01お母さんがあまり好きじゃなかった

大家族

6人兄弟という大家族の三女として、東京・門前仲町で生まれ育つ。

「一番上のお姉ちゃんとは、年がかなり離れてますね。ぼくの下には双子の弟がいます」

いまでは、楽天家でポジティブなフィリピン人の母のことを、大好きで尊敬している。でも、小さいころから慕っていたわけではない。

「お母さんは、家事はしてくれてたんですけど、よくパチンコに行って夜遅くまで家に帰らないことが多かったんです。だからお母さんとはあまりコミュニケーションを取れてなくて・・・・・・」

母は26歳で日本に来てから、現在も日本で暮らしている。

自分が大人になったいまであれば、異国の地での生活でストレスが溜まっていたのだろう、と思いをめぐらすことができるけれど・・・・・・。

「いまもお母さんはパチンコに行きますけど、頻度はあのときほどじゃないですね。いま思うと、あのときのお母さんはパチンコ依存症だったのかな、と思います」

父がいない生活

夜な夜な家を留守にする母を父が容認するわけもなく、両親はよくケンカしていた。

「それでもお母さんは、反対を押し切ってパチンコに行ってました」

母が家を空けている時間が長い分、父とは仲が良かった。

「お父さんとはよく一緒にドライブに出かけてました」

しかし、父と早くして別れることになる。

「お父さんが肺がんになったんです・・・・・・」

もうそろそろ容体が危ないかもしれない、というときだった。

「お父さんが朝から目を覚まさなくておかしい、って自宅から救急搬送されて・・・・・・」

学校から呼び出されてすぐに病院に駆け付けたが、父はそのまま帰らぬ人となった。

当時、ぼくはまだ小学校5年生。

「もうお父さんとは会えないんだ・・・・・・って思うと、悲しかったですね」

でも、フィリピン人の母へのおもいが変わった。

「お父さんがいなくなって、家族が残されてしまった。ぼくが “男” として、お母さんを守らないと! って思ったときに、『あれ、おかしいな?』って」

家を支えていた父が他界したことで、自分の性別違和も少しずつ顕在化していった。

02周りとちがうから、といじめられて

いじめ解決に動いてくれた先生

地元の小学校に進学すると、いじめを受けるようになる。

「筆箱を隠されたり、投げつけられたり・・・・・・。結構ひどいいじめでした」

その要因の一つが、短髪に短パンという男の子っぽい見た目だった。

「女なのに、どうして男みたいな恰好をしてるんだ! おとこおんなだ! って言われてました」

自分自身だけでなく、家族についてからかわれることもあった。

「お前のお母さん、外人だろ! とか、自閉症の弟たちのことをバカにされることもありました」

3歳下の双子の弟たちが自閉症であることは、ぼくが小学生のときに知らされていた。

「家では一緒に遊んでケンカもして、普通の兄弟の関係でした」

でも、一歩外に出ると、好き嫌いの激しい弟が叫んだりすることで、周囲から冷たい視線を投げかけられた。

「周りから見られてるのは弟たちだけど、自分も冷ややかな目で見られてる気がして・・・・・・」

いじめられてもひたすら泣いて我慢していたが、とうとう耐えきれず、当時の担任の先生に相談しに行く。

「泣きながらいじめのことを話したら、わかった、って保健室に場所を移して話を聞いてくれました」

そのあと、自分を含めた周囲の生徒がいない場で、先生からいじめっ子に対して何度か注意がなされたようだ。

「そこからだんだんいじめがなくなっていって、高学年になるころにはだいぶ落ち着きました」

いじめの事実に目を背けずに適切に対処してくれた先生には、いまでも感謝している。

少年野球でも・・・

小学校3、4年生のとき、地域の少年野球クラブに入る。

「お父さんからの勧めもあって、体を動かすことが好きだし、入りました」

その野球クラブには、女の子がもう一人いた。

「昔から野球クラブに入ってる年上の女の子で、クラブ内のボス的な存在でした」

ぼくはその女の子に気に入られなかったようで、手先となった男の子のチームメイトたちからいじめを受けた。

「後ろからいきなりボールを投げられたり、危ないことをされました・・・・・・」

辞めたいと思うこともあるほどつらい時期もあったが、野球自体は好きだったので、小学校を卒業するまで続けた。

03幼少期からの性別違和

首根っこをつかまれて

性別違和は幼少期から感じていた。

「幼稚園生のとき、男の子用の青いトイレに入ろうとしたら、先生に『ちがうよ!』って首根っこをぐいっとつかまれて、女の子用の赤いトイレに連れていかれました(苦笑)」

20年以上前の出来事なので、現在より体罰や虐待への意識が低かったのかもしれない。

でも「それにしてもずいぶん手荒な対応だったな」と、首を掴まれた感覚とともに、いまでも鮮明に覚えている。

服装も男の子らしいものを好んだ。

「幼稚園は制服じゃなくて私服だったんですけど、スカートをはいたことはなかったですね。青や黒い服を選ぶことが多かったですし、髪も短く切ってました」

両親はそんな自分を否定しなかった。

「お母さんもお父さんも、好きなようにしたらいいんじゃない? って考えでした」

姉2人のお下がりのうち男の子っぽいものを選び取り、それが弟たちにさらにお下がりとして受け継がれていった。

噂が広まって

初めて好きな女の子ができたのは、小学校高学年のとき。

「その女の子はクラスの中心で、アイドル的存在でした。男子からもモテてましたね」

だが、初恋は儚いかたちで終わる。

「その女の子から、好きな男の子について相談されたんです。悲しかったけど、だれにも打ち明けられなかったですね・・・・・・」

好きな子から別の男の子に関する相談を受ける立場となってしまい、親友であったはずの女の子と距離が離れてしまう。

どうにかまた女の子との距離を縮められないか? と考え、自分にも好きな男の子がいるというウソの設定を作り出すことにした。

「本当は、その男の子のことが全然好きじゃなかったんですけど(苦笑)、男の子が好きだっていう同じ立場になれば、好きな女の子に恋愛相談できる! って思ったんです」

だが、ウソの設定はやがて噂として周囲に広まった。
最終的には好きでもない男の子に体育館裏で告白する羽目になってしまう。

でも、結果はすっきりしたのだった。もうこれで女性を好きだと気づかれないと思ったから。

「相手からはフラれましたけど、終わってよかった! ラッキー!! って思ってました(笑)。でも、相手の男の子は完全に巻き込んだかたちなので、今は申し訳なく思ってます」

性別違和、女子への恋心、父の他界が同時期に起こった小学校高学年は、複雑な思いを抱えて過ごした時期だ。

04制服のスカート

スカート、嫌だよね

地元の中学校に進学すると、気の置けない友人ができた。

「1年生のときにクラスメイトだった2人と、よく話すようになりました。ぼくにも友だちにもそれぞれ悩みがあったので、ウチはこうなんだ、ってお互いに相談し合ってました」

ぼくの一番の悩みは、家庭事情だった。

父が亡くなってから、母が家計を支えなければならなくなり、金銭的に余裕のない生活を送っていたのだ。

「独立している姉や兄からの仕送り、遺族年金、お父さんがかつて経営していて、おじが引き継いだクリーニング店をお母さんが手伝ったりしてたんですけど・・・・・・」

父の遺産にまつわるもめ事で、母の手元にほとんど残らなかった。それが原因で親戚とも仲が悪くなっていた。

一方、中学生になってから制服としてスカートを着用しなければならなくなったことは、悩みというよりも愚痴のように話すことができた。

「友だちとは、『スカートって嫌だよね~』『私も嫌い~』って言い合いながらジャージで帰ったりしてました(笑)」

友人が抱くスカートへの嫌悪感は、ぼくのものとは異なるものだったと思うけれど、気持ちを吐き出すことでガス抜きになった。

野球をやりたかったのに

小学校卒業と同時に少年野球クラブを辞め、中学ではソフトテニス部に入部する。

「でも、高校でまた野球をやりたいな、って思ったんです」

友人の一人と、一緒に女子高に進学して野球をやろうと約束した。

「でも、ぼくがバカすぎて、志望校に落ちちゃって(苦笑)」

ぼくの進学先となった高校にも女子野球部があると思っていたのだが、実は廃部していたことが入学後に発覚する。

「入学案内のパンフレットには、野球部の写真が載ってたんですけどね(苦笑)」

仕方なくサッカー部に入ることにした。

「親戚のなかにサッカー選手がいたこともあって、サッカーをやってみようって思ったんです」

05はじめての彼女

性同一性障害を知る

高校のクラスでは、最初はカースト上位の女子から目をつけられる。

「その子とケンカしたあとに、強いグループにいたほうが過ごしやすいなって気づいて、その子たちとつるむようになりました」

部活では思いがけずサッカー部に所属することになったが、楽しく打ち込んだ。

サッカー部には、自分以外にもFTM(トランスジェンダー男性)の当事者が在籍していた。

「自分と同じような感覚の人がいるんだ、って知れてよかったですね」

FTMと自認している部員から性同一性障害(性別違和、性別不合)について教えてもらった。

「こういう治療法があるんだよ、戸籍の性別はこうやって変えるんだよ、って教えてもらって、自分も将来やりたいな、と」

当時はまだ、戸籍の性別変更に関して「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」という要件に違憲判決は出ておらず、性別変更にはSRS(性別適合手術)が必須だった。

「20代前半までには、性別を変えるところまで全部終わらせたいなって、そのころは考えてました」

彼女との関係

高校1年生のときに、初めて彼女ができた。

「同じクラスで、隣同士の席だった子でした」

自分からの告白に最初は相手も戸惑ったが、付き合うことになった。

「彼女は、ぼくのことを男の子として見てるよ、って言ってくれてましたね」

「最初は、付き合ってることを周りに内緒にしてたんですけど、仲がいいんで噂になって、最終的にはバレました(笑)」

おめでとう! と祝福してくれる子もいれば、女子同士の交際をよく思わない子もいた。

「男女関係なく、女子同士の交際を認めてくれる人、認めない人がいるんだな~って、勉強になりましたね」

毎日のようにお互いの家に遊びに行った。

「相手の親御さんからは、毎日2人で一緒にいるよね!? って不思議がられてたと思います(苦笑)」

カミングアウトも明るく

母にFTMであることをカミングアウトしたのは、高校に入学して間もないころだ。

「性同一性障害だって伝えてもお母さんは知らなかったんですけど、心は男なんだ、って言ったら『あなたの好きなように生きればいいんじゃない?』って」

母はぼくの性別違和をとても明るく、あっさり受け止めてくれた。それには、兄の存在も関係しているかもしれない。

「兄がゲイなんです。いまはオープンにしてます」

フィリピンに住む兄がゲイのようだ、と同じくフィリピン在住の姉が母にアウティングしたことで発覚した。

「兄のセクシュアリティを知ったときも、お母さんは『いいんじゃない?』っていう反応だったんです」

でも、しっかりと釘を刺された。

「『治療や手術はやめてね』『そのままでいいんじゃない?』とも言われました。いや、するけどね、って答えてましたけど(笑)」

 

 

<<<後編 2025/05/07/Wed>>>

INDEX
06 やむなく内定辞退
07 大人でも夢をもっていい
08 ご縁を大切に
09 自分の知らない自分
10 SRSなしで戸籍上の性別を変えるということ

 

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