INTERVIEW
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母の理解は現在進行形。少しずつでも前進したい【前編】

その笑顔に、ほっと癒される。杉本さんからは、いつもそばにいたくなるような穏やかさ、信頼できる誠実さが、ひしひしと伝わって来る。感情のもつれから、おかあさんとうまくいかないことが目下の懸案だが、きっと乗り越えていけると信じている。

2018/02/20/Tue
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ray Suzuki
杉本 彩央里 / Saori Sugimoto

1990年、兵庫県生まれ。東京工業大学生命理工学部生命科学科卒業。システム開発会社に勤務、金融業界をクライアントにSEコンサルタントとして活躍中。中高6年間は演劇部に所属し「劇団キャラメルボックス」などの脚本を好んで上演。大学時代は大手コーヒーショップチェーンでアルバイト。映画鑑賞が趣味。

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INDEX
01 今、本当はとても不安です
02 先生も一目置く優等生として
03 私服の学校に行きたかった理由とは
04 性同一性障害の治療を受けたい、わかってほしい
05 両親への最初のカミングアウトは、撃沈
==================(後編)========================
06 これでおさらば、いざ東京へ
07 居心地のよい場所が見つかる
08 父に「今、幸せだ」と伝えたかった
09 ヒステリックになる母から逃げたくて
10 母とのこと、何とかしなくては

01今、本当はとても不安です

LGBTERに出るということ

自分を「兄さん」と呼び、慕ってくれた、高校からの後輩がいた。

そんな彼女が2017年の夏、突然、この世から去ってしまった。
悔しいことに、彼女が自ら選んだことだった。

妹のような存在で、なにかにつけ深いところで共感しあえる子だった。

世の中ではよしとされることが、自分ではどうしてもうまくいかない。
でも、それはそれで、いいよね。

そんなふうに、他人の考えを否定しないところに、共感し合えた。

もちろん、まだこの悲しみを、自分では消化し切れていない。

ただ、このままではいけない。そう感じる自分がいた。

とはいえ、LGBTERに登場したら、見た人、読んでくれた人が何を思い、どんな波紋が広がるのか。

自分はどんな顔して、会社に行くといいのだろう。

本当は、とても不安だ。
それでも、一歩前に出なくてはならないと感じた。

「だって、性別とか国籍、学歴や職歴、体の特徴、家庭環境はもちろん。好みや趣味、仕事への考え方とか・・・・・・ 他のあらゆる切り口に対する答えも全て、人それぞれ違うと思うんです」

「世界70億人いるなら70億人が差別の対象で、そうなった時、差別という言葉に意味はなくなるはず」

本当は、その人たちひとりひとりが生きやすく、働きやすい世界にしたい。
差別や障害という言葉が意味をなさない世界にしたい。

GID当事者の僕が知らない、いろんな生きづらさの理由があるだろう。

だからこそ、まずは自分にできることを今、してみようと思ったのだ。

そうして、LGBTERへ応募した。

スカートを断固拒否した、幼い日の記憶

幼稚園のころの記憶は、ぼんやりとしている。
でも、わがままをいったり、駄駄をこねることはなかった。

「それでも、スカートをはかなきゃいけないことだけはとても嫌で、すごい大泣きした記憶がありますね」

幼稚園では発表会などの折々に、制服を着用するのがならわしだった。
そのことに、耐えられなかったのだ。

「でも写真が残っているから、スカートをはいたんでしょうね」

古い記憶のなかの泣いている自分は、何に怒り、悔しがり、誰に向かって、必死に訴えていたのだろうか。

幼稚園のころから、ピアノとバレエ、英語を習っていた。

それらは、おそらく母の夢が詰まった、女子憧れの典型的な習い事だ。

4つ年上の姉がやっていたから、当然のように自分も通うことになった。

母がピアノの先生だったこともあり、ピアノを弾くことは大好きだった。

でも、耐え難かったのはバレエだ。

「とにかく嫌でした。レッスンで着るものも嫌で、その空間も、そこにいる自分も、嫌。すごい違和感しかない」

「でも、いちおうは続けてましたね」

公文式ドリルをやっていたから、年中組で、すでに九九がスラスラ言えた。

「自分で言うのもなんですが、いわゆる “ものわかりのいい子” でした。あと、きょうだいの2番目に多い、“要領よくやる子” でもありましたね(苦笑)」

02先生も一目置く優等生として

母のための、せめてものピンク

小学校の入学式は、スカートをはかずに出席した。
かといって男児用のスーツでもなく、装いはズボンだった。

「ピンクのパーカーと白いズボン。それが、親との落とし所でした(笑)」

自分がスカートを嫌がっていることは、もう両親もわかっていた。

そんななか、母の希望との妥協点が、ピンクのパーカーだった。
母のための、せめてものピンクだったわけだ。

小学校でもやはり、自他共に認める “優等生” だった。

勉強はもちろんできたし、体育や図工も、なんでもうまくこなす。

誰とでも仲良くできる。学級委員長も、何度も務めた。
彩央里だから、“さおちゃん” と呼ばれていた。

英語、バレエ、ピアノという習い事に加えて、水泳も始めていた。
ほかの習い事よりはずっと好きで、プールには週2回通っていた。

放課後のクラブ活動が始まる3、4年生の頃だったろうか。

特定のクラブに人気が集中してしまう。これを回避するためにはどうするといいかと考えた。

「ジャンケンで決めるか、話し合いで決めるか。とりあえず自分は、身を引くところにいたんですね」

冷静なふるまい、穏やかな物腰は、小学生らしからぬ存在感を漂わせた。

「たぶん “クラスで一番手がかからない子” だったんだと思います(笑)」

中学受験にまっしぐら

小学校4年生の夏、それまでのすべての習い事を一気にやめた。

中学受験に専念するため、放課後は学習塾に通うことになったからだ。

大好きだった水泳は、それよりも前にやめていた。

プールの場所が変わったりして、スクールの雰囲気に変化があったことが、きっかけだった。

「それに、水着を着るのもすごい嫌、という気持ちもわいてきて・・・・・・」

いよいよ中学受験に完全にシフトした日々が始まる。

塾の成績もよく、先生からは「絶対に受かるから」と太鼓判を押されていた。

そして、神戸でも有数の難関校に見事合格。
有名私立女子大学付属の中高一貫校だった。

03私服の学校に行きたかった理由とは

腰パンでキメた中学生

女子で一番偏差値が高い学校だから。姉も進学していたから。
私立中学進学の理由は、それだけではなかった。

「一番の理由は、制服がなかったこと。そこがよかったんです!」

むろん、女子校に憧れていたわけでもなかった。

「地元の中学に進学して制服を着ないといけないぐらいだったら、顔見知りがいなくても、私服で過ごせるほうが絶対にいい。そう思ったんです」

服装は性差をあらわにするものだから、好んで身にまとったのは、もちろんボーイズファッション。

神戸の女子校ということもありJJ、CanCamファッションがメジャーななか、飛び抜けてボーイッシュだった。

通称、腰パン。ダボダボとしたオーバーサイズのズボンを腰の低い位置ではきこなす、B系ファッションにはまった。

B系と呼ばれたのはブレイクダンスに由来し、ヒップホップカルチャーの影響を受けたそのスタイルは、当時のボーイズファッションの流行だった。

「中学生で、自分の体型なりにやっていくには、それしかなかったんだと思うんです」

この頃になると、母に対しても、ファッションに口出しはさせなかった。

「口出しされたら僕がキレるのを母も知っていたから。でも『ズボンあげたら』とは言われましたね」

「今思えば、それは性別の問題ではないですよね(笑)」

「カッコイイね」の評価に陰りが現れ・・・

自由な校風の中学校に入学した当初は、気分も楽だった。

「もう比較がないから。『どっち?』という目で見られることもないし、女子校だから『カッコイイね』で通るし(笑)」

部活は、演劇部に決めた。

姉が中学のときに演劇部で、それを見ていいなと思っていたのがきっかけだ。

のちに部長も務め、中高6年間続けることになる。

「舞台のスーツ姿がかっこよくて、それがすごい羨ましかったんです」

中1のときには、気になる人も現れた。

「CanCam系のキレイな人が好みでした」

しかし、そんな日々にほどなく、暗い影が忍び寄る。
クラスメートたちのようすが、おかしいのだ。

「中1の終わりくらい。それまでうまくいっていた人から突然、手のひらを返したように、シカトされるようになって」

「自分のこと、カッコイイと思ってるでしょ?」と、無神経に心をえぐるような言葉を投げつけてくる女子には、恐怖すら覚えた。

中1から中2へとなる頃。

それは、残酷な思春期の始まりだ。

「女の子たち独特の、集団行動じゃないとダメ、な感じが僕にはどうしても受け入れられなくて」

周りの女子に合わせることは、できなかった。

「結局、あぶれちゃったんですね。一緒にいる人がいなくなって、それで学校にも行かなくなって」

自分自身の肉体の変化も始まっていた。
華奢だった体は、急激にふくよかになっていった。

「生物学的にどんどん成長していくのは、すごい嫌でした」

04性同一性障害の治療を受けたい、わかってほしい

ノートパソコンで「性同一性障害」を検索

思春期特有の、女子たちの無言の圧力に、どうも馴染めない。

そのため、通学が週に2、3回になるときもあったが、放課後の塾は欠かさなかった。

「根が真面目だったんですよね(笑)」

自分は、生物学的には女性として生まれいてる。
そのことを頭では、もう十分に、認識していた。

だから、混乱したり、感情的になる、ということはなかった。

「とはいえ、自分の性自認が違っていることも、はっきりわかっていて。それが違うということは、性同一性障害っていわれるものなのかなって」

「性同一性障害」という言葉自体は、小学生のころから知っていた。
たぶん、『金八先生』で見たからだ。

「なんとなく、うっすら気になってはいたんです。それで、ちゃんと調べようと思ったのが、中学2年のときでした」

中学入学時に買ってもらったノートパソコンを開き、自宅でさっそく「性同一性障害」を検索した。

「言葉自体をすでに知っていたから、『おお、これだ!』みたいなディスカバリー的な感じはぜんぜんなくて、『やっぱり、そうか』って」

近くに病院はないか調べた。虎井まさ衛さんの著書も買って読んだ。

今でこそ、これらの知識については、わかりやすく解説されるようになったが、当時はまだ用語や言い回しも未知のもので、非常に難解に感じた。

「障害と名前がついているけれど、なんでもかんでも病気にしちゃっていいものか、とも思いましたね」

自分をそういう病気や障害だと、自己判断で決めつけることは一概によいとはいえないだろう。

「でも、調べれば調べるほど、やっぱり『そうなんだな』って思うことも大きくなってきて・・・・・・」

だから、両親にカミングアウトしようと思ったのだ。

「これならいずれ、ちゃんと診断を受けたい。病院に行きたい」

そう両親に告げなくては。いや、姉も含めて家族全員に伝えたい。

弱冠14歳。だが、極めて冷静に考え、明晰に行動していた。

言えばわかってもらえる、と思っていた

カミングアウトは、面と向かってするのではなく、手紙という手段にした。

「冒頭から『あなたたちに、わかるわけはないだろうけど』っていう、すごい感情的で好戦的な書き出しではあったんです(笑)」

小さいときから違和感があったし、悔しかったし、がまんを重ねて来た。

その思いを率直に綴るのだから、冷静になれなくても仕方ないだろう。

「たぶん、話したらわかってもらえると思ってたんですよね。自分はこんなに我慢しているんだ、ということを書き連ねたんです」

そして手紙を封筒に入れ、まず姉に手渡した。

「読んでもいいから、そのあとで両親に渡してくれって。思えば姉には悪いことをしましたね(笑)」

05両親への最初のカミングアウトは、撃沈

母に対して、心のシャッターを閉ざすことに

手紙が母に渡った後のやり取りは、もうよく覚えていない。

「まともに取りあってもらえてない感じでした」

「受け入れる、受け入れない以前に、『そもそも勘違いなんでしょ』っていう対応で、話しても無駄なんだなって思いました」

覚えているのは、母のリアクションだ。
部屋に来て「病院に行きましょう」と言ってくれた。

しかし、母の言う病院とは、兵庫県内の子ども病院のことだった。

当時、関西で性同一性障害を診断する病院は、大阪にある数軒の病院だけだったことは、当然調べ上げていた。

だからこそ、この母の一言には、たちまちひどく失望した。
その病院に行ったって、なにも解決できるわけはないのだから。

「『適当に言えば納得するだろう』と母は思ってる、と僕は受け取ったんです。あ、『適当なんだな』って」

すると、心の扉が母の前で、ピシャリと閉まってしまった。

「それ以降、もうその話はしなくなってしまって。向こうも触れてこないし、僕も話さない」

この当時、多忙だった父も、この問題に積極的に関与することはなかった。

もう、この話はおしまいだ。

そんな雰囲気にのみこまれて、日々がまた、流れていった。

とにかく、家を出たかった

毎年クラス替えがあったから、女子たちに心を煩わされることも少なくなって来た。

「高校になると、急にみんな落ち着くんですよ。ひとりでいてもいいよね、一緒にやらなくていいよね、って感じになって、急に学校に居やすくなりました」

良い意味で、他人に寛容かつ無関心な雰囲気に救われた。

物理が好きだったから、進路は理系に決めていた。

「世の中的に、男性は理系、女性は文系が多いという傾向がありますが、自分でもそれをきっと内面化していて、それで、文系を選ぶことが嫌だったんですよ」

「もったいなかったなとも思うんですけどね。むしろ今は、文系のほうが世の中に影響力があるよな、って思いますし」

この頃になると、塾で会う他校の男子生徒たちの成長ぶりが羨ましくて仕方なかった。

小学校から塾を通して見知っている男子だから、なおさらだ。

「声が低くなったり、ヒゲが生えたり。それがすごい羨ましかったですね」

そして、心にあったのは、家を出る、という夢だ。

とにかく、家を出たかった。

親が簡単には来れないようなところへ行きたい。
そのチャンスは、大学進学だ。

実行するまで、秒読み段階になっていた。

高3のときには、初めての彼女もできた。

演劇部の後輩で、東京の大学を志望していた。そんな彼女を一足先に待つためにも、「東京に行く」という意志は、揺るぎないものになっていた。


<<<後編 2018/02/20/Tue>>>
INDEX

06 これでおさらば、いざ東京へ
07 居心地のよい場所が見つかる
08 父に「今、幸せだ」と伝えたかった
09 ヒステリックになる母から逃げたくて
10 母とのこと、何とかしなくては

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