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養子縁組はゲイの私たち二人にとって、ベターな選択だった【前編】

第一印象からすでに、出会った人々を包み込むやさしさがにじむ矢島竜也さん。取材を受けることには緊張していないと口にしたが、幼少期は内気な性格で、いじめられた経験もあるという。パートナーと出会い、養子縁組を結んで法的にも保証された家族となるまでの軌跡をたどる。

2024/11/08/Fri
Photo : Tomoki Suzuki Text : Hikari Katano
矢島 竜也 / Ryuya Yajima

1986年、新潟県生まれ。小学校では容姿をからかわれていたが、4年生でキャラを確立してからは「やじまん」の愛称で親しまれる。専門学校進学を機に上京し、メディア関係の仕事を経験したのちに福祉業界に転身。2017年に同性パートナーと養子縁組を結んだ。

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INDEX
01 十一屋のお孫さん
02 やじまん誕生
03 男の子が好きなことは言ってはいけない
04 物書きにチャレンジしたい
05 バイセクシュアルなのかゲイなのか
==================(後編)========================
06 福祉の道へ
07 パートナーと義父との共同生活
08 義父へカミングアウト
09 養子縁組と母親へのメッセージ
10 西東京市をLGBTQ当事者でも安心して暮らせる街に

01 十一屋のお孫さん

元呉服屋の息子として

新潟県の中越に位置する、見附市で生まれ育つ。

「花火が有名な長岡市にある、人口4万人の小さな町です。田んぼやレンコン畑が広がっている平野部で、のどかなところです」

両親、母方の祖父母、弟と妹と暮らす大家族。

「祖父の代まで『十一屋』っていう呉服屋を営んでた家系だったので、近所の人からは『十一屋のお孫さん』と呼ばれてました」

「結構かわいがってもらえてたと思います」

小学校に上がるころ、父が家からいなくなった。

「そのときは、母親からは『お父さん、海外出張に行ってくるんだって』と聞かされてました。父親が怖かったんで、ラッキー! くらいに思ってたんですけど・・・・・・」

それから何年経っても帰ってこない父親。海外出張とはそんなものなのか? と子ども心に思いながら月日が経過していく。

「中学校に上がる前に、母親から『実はお父さんと離婚してたんだ』って言わたんです」

小学校1年生くらいの年齢では、両親の離婚のことはまだ言うべきタイミングではないと思って、母親は本当のことを話せなかったのかもしれない。

やさしい子になってほしい

私が小学校に上がるころには母子家庭となったこともあり、母親は仕事で家を空けている時間が増えた。

「母親はパワフルな人で、茶髪でちょっとファンキーな見た目だったからか、学校に行くと私の同級生から黄色い声援を浴びてました(笑)」

育ててくれたのは、おもに祖母だった。

「母親に育てられたっていうより、おばあちゃんに育てられたなって思ってます」

祖母からも母親からも「やさしい子になりなさい」と常々言われてきた。

「おばあちゃんもやさしかったし、母親も放任主義なところがあったので『勉強しなさい』とか口うるさく言われたことはないですね。その代わりに、とにかくやさしい子に育ちなさい、と言われてました」

「もし、誰かにいじめられたとしても、体の大きいあなたのほうが力が強いんだから我慢しなさい。手を上げちゃダメだよ、って母親からは言われてました」

母親と祖母の子育て方針のおかげもあり、周囲の空気を読んで気遣う姿勢が身についたと思う。

02やじまん誕生

体が大きいから

幼少期から周りと比べて体が大きかった。

「小学校のときで、背は160cmほどで、体重もすでに70kgくらいありました」

突出して目立つ容姿を持っていたことで、周囲からいじめを受ける。

「内気な性格も関係してたかもしれませんね・・・・・・」

集団登校の際には、上級生からランドセルを押しつぶされるなどの嫌がらせを受けた。

「第一子である私から『いじめられてる』『学校に行きたくない』って相談を受けた母親も、かなり悩んだんじゃないかなと思います」

このころのいじめられていた経験は、今でもあまり振り返りたくないと思うほど、苦い記憶として残っている。

全校生徒の前でデビュー

転機となったのは小学校4年生のとき。

「クラブ活動で『お笑い漫才クラブ』に入ったんです(笑)」

将来の夢がお笑い芸人だった、人を笑わせることが喜びだったから入部した、というわけではない。

「そのころから、高学年の男の子からかわいがられることが心地よかったのと、部長だった男の子のそばにいたいな、って思いで入りました」

全校生徒の前で自分の芸を発表する場では、自分の容姿を自虐的にネタにするキャラクター「やじまん」を披露した。

「アンパンマンをモチーフにして、自分の体についたお肉を、食べ物に困っている人にあげるっていうコントをしました(苦笑)」

我身を削った芸風が全校生徒に大ウケし、ブレイクを果たす。

「みんなから『やじまん』って愛称で呼ばれるようになって、うれしかったですね! 弟と妹は『やじまんのきょうだい』って言われることが恥ずかしかったみたいですけど(苦笑)」

お笑い漫才クラブは、内気な少年に大きな変化を与えた。

男の子への興味と、女の子へのドキドキ

小学校高学年に上がるころから、男性へ興味がわき始める。

「高学年の男の子や体育の先生の体格が気になるようになって、この思いはなんなんだろう? って」

年上の男の子と一緒にいることに喜びを覚える一方で、女の子にも関心が向いていた。

「初恋だなって記憶してる子は、実は女の子なんです。5年生から入った合唱部でも同じだった、同じクラスの子でした」

でも、今あらためて振り返ると、もっと親友として仲良くなりたいという気持ちだったのかな、と感じている。

「でも当時はそんな気持ちの整理はできないんで、好きだけど自分の気持ちがよくわからない、って感じでした」

03男の子が好きなことは言ってはいけない

男性が気になるけれど

地元の中学校に進むと、第二次性徴を迎えた周囲の男子生徒に囲まれて、一層ドキドキするように。

「でも、この同性への感情は、他人には言ってはいけないと思ってました」

同性への視線やコミュニケーションをからわかれるなど、大きなきっかけがあったわけではない。

「当時、同性愛と言えば笑いの対象で、芸能人がいわゆる “オネエ” として面白おかしくいじられてました。そんな世の中で、自分も同性に興味があるなんて絶対に口にできない、って蓋をしたんです」

同性への興味は、高校生まで隠し続けることになる。

あなたはとてもいい人・・・

同性への関心は自分の中で押し留める一方で、中学生のときに女子に初めて告白した。

「残念ながら、今まで女性に告白されたことはないんです。私からは4、5人の女性に告白したんですけど、全部失敗しました(苦笑)」

お断りされた理由はいずれも「矢島くんがとてもいい人なのはわかるけれど、付き合うまでには至らない」と、なんとも切ないもの。

思い返すと、小学校の卒業文集では、「早く結婚しそうな人ランキング」で上位にランクインしていた。

「特に若いころは不良とか刺激的な人のほうがモテるから、私みたいなタイプはいい人止まりだったのかもしれません(苦笑)」

自分にはサポート役が向いている

小学生のうちから勤勉な優等生だったこともあり、学級委員を務めた経験があった。

「だれも学級委員をやりたがらなくて、このままじゃ決まらなさそうだな・・・・・・ってときに、『やじまんがやれよ』っていう空気を察して引き受けてました(笑)」

決して積極的とは言えないが、学生代表として取りまとめる役目を担える適任者として、中学生になっても白羽の矢が立つ。

「中学校では、生徒会副会長を務めました。立候補する人がいなさそうだからって、先生から『やってみないか?』って声をかけられて、断り切れず・・・・・・(苦笑)」

「でも、絶対やりたくない! ってわけでもなかったから引き受けたんだと思いますよ」

高校でも生徒会書記に就任した。

「組織のなかでサポート役として調整して、みんなを包み込むような役割が、自分には超向いてるんだなって当時は思ってました」

人の役に立ちたいという思いは、その後のキャリアにも大きく影響していく。

04物書きにチャレンジしたい

人の役に立ちたい

高校卒業後の進路の選択肢として考えていた道の一つが、現在も携わっている福祉業界。

「高校生までの十数年間だけではあるけど、思いやりの心が強い人間だなっていう認識が自他ともにあったので、人の役に立ちたいって思ったんです」

小さいころにいじめられていた経験もあり、人の気持ちを敏感に感じ取って寄り添う姿勢が身についていた。

「泣いてる子がいればすぐに駆け寄って、大丈夫? って声をかけるような子だった、って聞いてます」

周囲をサポートしたいという気持ちの大きさは、母親と祖母の教えの賜物でもある。

でも同時に「いい人でありたい」という自分自身の想いもあった。

「自分はいい人であらねばならない、その道から外れれば自分は愛されなくなる、っていう恐怖心もあったと思います」

自分を表現する現代詩

福祉以外にもう一つ、「物書き」の世界にも興味があった。

「高校に上がる前くらいから、ポエムというか、現代詩を小さいノートに書き溜めるようになったんです」

テーマは、自分のセクシュアリティを含む愛情や友情、父親不在の寂しさなどだった。

「気心知れた友だちに詩を見せたら『結構いいね』って肯定的な評価をもらえたので、もしかしたら自分には才能があるんじゃないか? って前向きに思ったんです(笑)」

福祉か、物書きか。悩んだ末、後者を選んだ。

「新潟の狭いコミュニティのなかで、自分のセクシュアリティに対するもやもやを、一人で抱えたまま生きていくのは無理だなって」

「自分と同じような人たちが集まってる新宿二丁目に行ってみたい、という気持ちもありました」

当時東京にあった、メディア記者としての訓練を積める「日本ジャーナリスト専門学校」へ進学することに決めた。

05バイセクシュアルなのかゲイなのか

苦学生

専門学校への進学や上京について、母親は反対しなかった。

「母親は『あなたの人生なんだから、好きなように生きなさいね』って言ってくれるような人だったんです」

ただ、母子家庭で金銭的な余裕がなかったことから、新聞奨学生の制度を利用することになる。

「奨学金をもらって営業所の寮に住まわせてもらえる代わりに、朝夕の新聞配達をする制度です」

専門学校に通っていた3年間、夜中に起床して新聞配達をこなしながら、学業にも勤しんだ。

「体力的にも大変でしたけど、若いからできたんだと思います。今は絶対に無理ですね(苦笑)」

社会人になる20代より前から苦労を重ねたからか、10代、20代のうちから「若いのに早熟だよね」と、人から言われるようになった。

「戦友」たちと共有した、もう一つの苦しみ

専門学校での学びは、今でも糧になっている。

「結果として、今は福祉の仕事に就いてますけど、ジャーナリズムを学んで、取材して人にものを伝える、ってことは今でも身になってると思います」

3年間一緒に学んだ同級生とは、今でも連絡を取り合っているほど仲がいい。

「1学年に30人1クラスしかいない小規模な学科だったんですけど、1年ごとに生徒が10人くらい脱落していって、最終学年では10人くらいにまで減りました(苦笑)」

「さらにゼミで2つのグループに分かれたんですけど、ゼミ仲間とは今でもつながっていて、会ったときには社会課題を議論してます」

卒業制作として、各自が関心のあるテーマを深堀りすることになった。

「社会課題となっているようなもので、かつ自分の内側にあるものをテーマにしなさいと先生から言われたので、私はセクシュアリティ・ジェンダーだな、と」

社会課題でもあるが、自分の内面に潜むもやもやにも向き合う卒業制作は、今でも心に残っている大切な過程だった。

だが、苦労も多かった。

「ゼミの仲間は、在日や宗教とか、それぞれ選んだテーマは違っても同じように悩んで通じ合える、戦友でした」

納得できた「ゲイであること」

専門学校1年生のときに、クラスメイトの女性に告白した。これが異性への告白の最後になった。

「裸足で山手線に乗るような、自由奔放だけど(笑)、とても天真爛漫で、今でも人間的に好きだなと思えるような子でした」

やはりそれまでと同じように「いい人だけれど、ごめんね」とフラれたが、決めていたことがあった。

「今度、女の子に告白してフラれたら、同性への興味を我慢することはもうない、行動してみようって」

その後、ゲイ向けの出会い系サイトで知り合った男性と、初めてデートをしてみた。

「数時間一緒にデートしただけで、自分はバイセクシュアルじゃなくてゲイなんだ、ってストンと腑に落ちました」

その男性に一目ぼれしたというわけではない。

「女の子に抱いてたあこがれとは違う感覚だったんです。身も心も、性的な部分も含めて、愛されたいと思う対象は男性なんだ、ってわかったんです」

プライベートでは心の蓋を開けて男性との交際を始めながら、学業でもセクシュアリティについて研究した。

専門学生時代は、自分のセクシュアリティについて掘り下げが進んだ時期でもある。

 

<<<後編 2024/11/15/Fri>>>

INDEX
06 福祉の道へ
07 パートナーと義父との共同生活
08 義父へカミングアウト
09 養子縁組と母親へのメッセージ
10 西東京市をLGBTQ当事者でも安心して暮らせる街に

 

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