INTERVIEW
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HIV陽性でありゲイである自分に誇りをもち、死と生についてポジティブに考えたい。【前編】

「動物が好きなんですよ。いつかワンちゃんと暮らしたいですね」と話す加藤力也さん。その日着ていたTシャツの胸ポケットからは愛らしい柴犬のイラストが顔を覗かせていた。ゲイであることを自覚しながら誰にも言えず孤独だった10代。ようやく出会えた同じセクシュアリティの仲間たちとオープンに生きられるようになった20代。そしてHIV陽性者として支援活動に参加し、あとに続く人たちのためにと走り続ける現在までを語る。

2024/12/26/Thu
Photo : Tomoki Suzuki Text : Kei Yoshida
加藤 力也 / Rikiya Kato

1968年、北海道生まれ。小学校低学年の頃、自分が好きな相手は同性だと気づく。大学生になるまでゲイであることを隠し続けていたが、19歳のとき、初めて同じセクシュアリティの男性と出会い、ゲイ・コミュニティに足を踏み入れる。33歳でHIV感染を告知され、服薬を開始する。35歳からはHIV陽性者や周囲の人を支援するNPO法人ぷれいす東京で、自身の経験を語るスピーカーとして講演を行い、現在は同団体の理事を務める。

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INDEX
01 「男らしくしなさい」
02 ゲイだとバレない立ち位置を探していた
03 つらいときに救ってくれたのは音楽
04 自分以外のゲイとの出会い
05 カミングアウトの前に考えるべきこと
==================(後編)========================
06 HIVを理由に解雇宣告
07 名前も顔も出してダブルカミングアウト
08 マイノリティを “排除” しない社会へ
09 HIVの発見は早いほうがいい
10 人生には期限があるから

01「男らしくしなさい」

男3人きょうだいの従兄弟と比べられ

「生まれ育ったのは札幌です」

「札幌といっても南の外れの山の中なので、小さい頃はたまに熊が出ましたよ。近所の人が倒して、熊肉をお裾分けに来る、なんてことも(笑)」

4つ下の弟と、8つ下の妹。
3人きょうだいの長男として育った。

自分から騒ぐことはなく、どちらかというと大人しいタイプの子。
近所には女の子の友だちしかおらず、男の子と遊ぶ機会は少なかった。

「親は自分に、いわゆる “男の子らしい活発な子” になってほしかったみたいで、いつも男3人きょうだいの従兄弟たちと比べられてました」

「従兄弟たちは、夏はいつも外で虫採りをしているようなタイプで、野球とか剣道とかスポーツもやっていて。自分は、家で絵を描いているほうが好きだったし、外で遊んでもおままごとをしていたので・・・・・・」

「親からは『あの子たちみたいに男らしくしなさい』『外で遊んで日焼けぐらいしてこい』みたいなことを言われ続けました」

家で遊ぶことが多かったせいか、肌も色白だった。

「女の子みたい」とまでは言われはしなかったが、何度も従兄弟たちと比較され、色白であることを指摘され、コンプレックスを感じるようになる。

同時に、小学校低学年の頃から、周りの同級生の男の子とは異なり、自分が同性である男の子を好きだということを自覚していた。

「自覚はあったんですが、そんなこと、周りに話してはいけないんだってなんとなく思っていて、そういう素振りすら周りに見せることはなかったです」

「だから、セクシュアリティのことで揶揄われたり、いじめられることはなかったんだと思います」

初めて実感した “人の死”

自分は人と違う。
同性を好きになるなんて自分だけだ。
このことを知られると、たぶんなにかイヤなことが起きるはず。
誰にも言わないでおこう。

「特に、家族には絶対に知られちゃいけないと、ずっと思っていました。だからでしょうか。子どもの頃から親に反論したことはなかったですね」

「言われたことを、ただ飲み込むだけで。いま思うと、それはそれでストレスだったと思うんですけど」

「いつもいい子を演じていたように思います」

子どもの頃の、忘れられない出来事がもうひとつある。
現在の死生観に関わることだ。

「男3人きょうだいの従兄弟たちとは別に、本当の兄のように慕っていた従兄弟がいたんですが、病気で亡くなってしまったんです」

「それまで一緒に秘密基地をつくったり、冒険したり、いろんなところへ連れ回してくれていたんで、喪失感が大きくて・・・・・・号泣しました」

「人の死を初めて実感したのがそのときでしたね」

02ゲイだとバレない立ち位置を探していた

中学校ではファンクラブが

いい子を演じていた小学生の頃。

親はおそらく「育てやすい」と感じていただろうし、学校の教師たちも「扱いやすい」と感じていたのだろう。

「担任の先生からは、すごい信頼されて、えこひいきされてました(苦笑)」

「学級委員をやらされたり、クラスメイトの家庭訪問に連れて行かれたりしてたんですよ。鞄持ちとか道案内みたいな感じで」

家庭訪問に連れて行かれたときは、先生の隣に座って、クラスメイトの親との会話を一緒に聞いていた。

「いや、なんで自分はここにいるのかな、みたいに思いましたよ(笑)。クラスメイトからしても、すごいイヤだったと思うんですよね」

「それでも直接的にいじめられることはなかったし、たぶんうまく立ち回れていたのかな・・・・・・」

クラスではモテるほうだった。
例えばバレンタインデーには、必ずチョコをいくつかもらっていた。

「中学生になると、なんか、あのぉ、ファンクラブができてたりとか(苦笑)」

「女の子が勝手に盛り上がっていて、告白されたりもしたんですけど、自分は女の子を恋愛対象としてぜんぜん見てなくて」

「むしろ目立ちたくなくて、なるべく周りに溶け込もうとしてました」

ゲイだという悩みを隠して

同性が好きだと自覚してからずっと、誰にも言えないセクシュアリティの悩みを抱えていて、悩みを抱えていることすら隠そうとしていた。

常に、周りから中傷されるようなことのない立ち位置を探していた。

「なんかちょっと少し俯瞰というか、達観して物事を見る子どもでした」

「たぶん、自分の中身を見せるのが怖かったんだと思います」

初恋は、セクシュアリティの悩みを人知れず抱えていた中学3年生のとき。

幼稚園の頃からの友だちが隣に引っ越してきた。

「引っ越してきた当初は、なんか漫画みたいだって思いながら、ひとりで盛り上がってたんですけど、好きだという気持ちを意識しだしたら、近づけなくなってしまって」

「家は隣だし、親同士も知ってるし、距離が近すぎて。近くにいるからこそ近づけなかったんです。それでもすごいずっと好きで。」

「やり場のない気持ちをどうしたらいいかわかんなくて。切なくて泣いちゃう・・・・・・みたいな感じでした」

その頃はまだ “ゲイ” という言葉も知らず、テレビなどで “オカマ” と言われ、笑われている人たちを見ると「自分とは違う」と思い込んでいた。

03つらいときに救ってくれたのは音楽

合唱コンクールでピアノ伴奏を

セクシュアリティの悩みを抱え続けた子どもの頃を思い返すと、いつだって音楽に熱中していたことに気づく。

「父が、学生の頃からピアノを持つのが夢だったらしくて、自分が小学生のときにアップライトピアノが我が家に来たんですよ」

「自分も、ピアノにはすごく興味があったんですけど、習うってところまではいかなくて。見よう見まねで、毎日なんとなく触っていました」

そして小学5年生のとき、地元の児童合唱団に入ったことから、ステージに立って音楽を奏でることの楽しさを知る。

「中学の校内の合唱コンクールで伴奏することになっちゃったんですよ。ピアノを習ったこともなくて、すごい我流なのに」

「そのとき指揮をする予定だった男の子がピアノを習ってたので、『あんたがやればいいのに』ってちょっと思ったんですけど、その子が指揮をするって言うんで、結局自分が伴奏をすることになりました」

高校では、校内唯一の音楽部だったマンドリン部に入部する。

「最初は、そこしかないから入部したんですけど、次第にマンドリンのおもしろさに気づいて、高校3年間だけでなく大学4年間と、さらに社会人団体でマンドリンを続けることになりました(笑)」

「家には、父が誰かから借りたらしいバイオリンもあって、触れるけど弾けないなと思ったんですけど、大人になってから自分でバイオリンを買ったりとか、フルートを買ってみたり、サックス買ってみたり・・・・・・いろいろな楽器に手を染めていくっていう・・・・・・(笑)」

聞いている人の気持ちが動くとうれしい

コロナ禍にあっては無性に鍵盤がほしくなり、電子ピアノも買った。

「ピアノも、もう一度ちゃんとやろうかなって」

「いまは、音楽活動では歌がメインになってますけど、いままでストックしてきた楽器たちも、たまには引っ張り出して触ってます」

音楽を奏でることの楽しさを実感するのは、聴いている人の気持ちが動いたと感じられたとき。

笑顔でも、涙でもいい。

聴いている人の気持ちが動いたのがわかると、すごくうれしい。

「日常生活で、自分の言動で人の気持ちが動くことってそんなにないんですけど、音楽をやるとそうした場面に出会う機会が多いんですよね」

「人の感情に働きかけるために、ステージに上がるのかなって思っています」

現在は、Pride Choir TokyoというLGBTQ混声合唱団に所属。

「それぞれがセクシュアリティを自覚して、その気持ちを発信したいと思って集まった合唱団なので、気持ちを乗せて歌うと、また違う人に届くんです」

「そういう意味で、すごくやりがいを感じていて、この活動のおかげで、つらかった時期も乗り越えられたと思っています」

「思い返すと、自分がHIVだとわかったときも、命の期限を提示されたような気持ちになって、やれることはいまやらなきゃダメだって思って、まずやったのは合唱だったんです」

一番つらかった時期を音楽のおかげで、なんとか乗り越えられた。

「音楽には、すごい救われてきたなあって思います」

04自分以外のゲイとの出会い

ゲイサークルのイベントに参加

小学生の頃は、同性を好きになるなんて自分だけだと思い込んでいたが、高校生くらいになると、テレビなどの情報から、どうやら世の中には自分と同じような人がいるらしいことは感じていた。

しかし、彼らにどうやってアクセスしたらいいのかわからないままだった。

「18歳の終わり頃かな、1年浪人している頃、たまたま入った本屋さんでゲイ雑誌を見つけたんです。ドキドキしながら買って、読みました」

ずっと求めていた情報が山ほど載っていたが、なかでも切望していた情報が、ほかのゲイと出会うための手段のひとつ、文通欄だった。

「さっそく文通欄に投稿して、初めて手紙をくれた人と実際に会いました」

「生まれて初めて出会うゲイの人。19歳になる頃ですかね、当時自分が目指していた大学の学生で、音楽をやっていて、趣味も合うし、これはもう付き合うしかないと思って、会ったその日に即決しました」

しかし道内の大学に入学し、忙しくなってくると、会う機会が少なくなり、いつしか彼との恋愛関係は自然消滅してしまう。

「その頃にまた、彼からまた連絡があったんですよ」

「地元のゲイサークルが主催する映画の上映イベントがあるから来てみないかって誘われたので、行ってみたんです」

彼は、そのサークルの立ち上げメンバーのひとりだった。

東北に初めてのゲイサークルを

サークル活動にも誘われたが、しばらくはっきりした返事をしないままにしていたところ、今度は「合宿するからおいで」と誘われた。

「行ってみたら、参加者はみんな年上で。それで今後は若い人にもゲイの情報発信が必要だから、若い人向けのサークルを作ります、リーダーをやってくださいねって言われて・・・・・・やることになったんですね(苦笑)」

「大学3年生の終わり頃ですかね。それがLGBTQ関連の最初の活動です」

「その頃・・・・・・実は、同級生のノンケの男の子のことをすごい好きになっちゃって、告白しちゃって、いろいろこじれて・・・・・・」

好きになった彼に、仲間内で彼女ができて、日常的にふたりと顔を合わさないといけない状況になり、苦しさのあまりうつ状態に陥ってしまった。

「そのせいでふたりのことも、すごい苦しめちゃったし・・・・・・すごいしんどい学生生活を送ってたんですよ」

「なので、ゲイサークルの活動をすることになって、大学の外にも目を向けられるようになったし、同じセクシュアリティの人たちと遠慮なく会話ができる場ができて、ちょっと救われたんですよね」

20代前半はゲイバーデビューも果たし、少しずつゲイコミュニティに足を運ぶようになり、交流できるようになっていった。

さらに、運営していたゲイサークルで、同性愛者の支援団体アカーによる講演会を開催したことがきっかけで、大学卒業後に同団体の東京の事務所に出入りするようになり、合宿やイベントにも参加。

そのうち、就職先の赴任地が山形に決まったことから、当時東北にはなかったゲイサークルを立ち上げて、活動拠点をつくった。

05カミングアウトの前に考えるべきこと

「ゲイは人間じゃない」

両親へのカミングアウトは、思わぬタイミングでせざるを得なくなった。
勤め先の上司が両親に告げ口したことがきっかけとなったのだ。

「その頃の上司がパワハラ気質で。一対一の会話のなかのひと言を両親にわざわざ伝えたんですよ・・・・・・。そしたら親から電話がかかってきて、『お前、そんなこと言ったのか』って訊かれて」

「突き詰められていくうちに、『ゲイなのか』とかそんなこと言われて」

「もう、そう言われたら否定できないと思ってカミングアウトしたんです」

父親は電話口で激昂し、母親は卒倒。

とても話せる状況ではなくなってしまった。

「それから何度か、両親に手紙を書いたんです。これまでの経緯とか、自分の考えとかを正直に書いたんですけど、やっぱり受け入れてもらえず、なんか、否定的なことを言うんですよ、手紙を出すたびに電話がかかってきて」

「あるとき『ゲイとか、そういう人たちは人間じゃない』みたいなことまで言われて、これはちょっと無理だ、絶対に許せない、と思って、しばらく実家に寄りつかない時期がありましたね・・・・・・」

その後、母親に「やっぱり女性と結婚はできないのか」と訊かれ、「申し訳ないけどできない」と答えてから、徐々に関係は修復していった。

カミングアウトは本当に必要か?

「父親とはね、セクシュアリティにまつわる話は一切しなくなりました」

「両親への手紙のなかで、自分が関わったイベントとしてプライドパレードのこととかも詳しく説明したんですよ。そしたら『そんなこと知りたくない』『言わないでくれ』と拒否されたので・・・・・・」

いずれ、両親にはカミングアウトしなければと思っていた。

20代も半ばを過ぎ、親との会話のなかに「結婚」というキーワードが出てきていたタイミングではあった。

そのうち見合い話までもってきそうな気配すら感じていたため、親に理解してもらうには、ゲイであることを伝えなければと考えていた。

「自分の場合は、考えていたようなカミングアウトにはならなかったから・・・・・・。だからこそ、カミングアウトの前に立ち止まって考えるべきことがあると思うんですよ」

「大切な人には、本当の自分を知ってほしい。だからカミングアウトする。その気持ちは尊重したほうがいいと思うし、伝えたほうがいいとは思う」

「でも、伝えることが自分にとっても相手にとっても本当にいいことなのか、相手に無理やり自分の気持ちを押し付けることにならないか、カミングアウトする前に考えたほうがいいかなと」

カミングアウトする環境を吟味し、相手の現在の心境を推し量ること。それは、意図しないカミングアウトの経験から思うことだ。

「自分の場合は、最悪なカミングアウトになってしまったんで、もし自分でタイミングを選べるなら、ちゃんと相手が受け入れられるような伝え方や環境を考えてからカミングアウトしたいと思いますね」

 

<<<後編 2025/01/02/Thu>>>

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06 HIVを理由に解雇宣告
07 名前も顔も出してダブルカミングアウト
08 マイノリティを “排除” しない社会へ
09 HIVの発見は早いほうがいい
10 人生には期限があるから

 

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