「生理のある人」や「子宮のある人」という言葉は、医療における包括的な表現を目指すために使われる言葉だ。ノンバイナリーの立場から、この言葉について語りたい。
「生理のある人」という言葉と、ノンバイナリーのぼく
文字だけ見ると、ぎょっとする人もいるかもしれない。しかしこの言葉は、生理/月経に関する情報(たとえば、生理用品の配布など)を届けるときに使われるものだ。
「生理のある人」「子宮のある人」って?
「生理のある人」という言葉が話題だ。
というのも「生理のある人」のすべてが、自身を「女性」と認識しているわけではないのだ。トランス男性やノンバイナリーなど女性以外のアイデンティティを持つ人や、現在女性として暮らしていない人も身体の状態によっては「生理のある人」に含まれる。
「生理のある人」という言葉は、誰かを排除せず、必要な人に情報を伝えるための言葉である。
「生理のある人」と一緒に「子宮のある人」という言葉が話題になることもある。これも、役割は大体同じだ。子宮に関する医療の情報は、性別にかかわらず子宮を持つ人に届く必要がある。
ノンバイナリーのぼくの身体
話を続ける前に、まずはぼく自身のことを明らかにしておきたい。
ぼくは出生時に割り当てられた性別、戸籍上の性別がどちらも女性のノンバイナリーだ。
自分のことは、男女どちらでもない「無性」として認識している。
すべてのノンバイナリーがそうというわけではないけど、ぼくは身体に強い違和感があり、子宮や月経の存在が苦痛だ。だから、病院から処方された薬(黄体ホルモン)を用いて生理を止めている。
ここ数年は、生理がほとんどなく快適な日々だ。しかし、毎日決まった時間に薬を飲むのも大変なので、子宮そのものの摘出手術も検討中である。
さしずめ現在のぼくは「生理がなく、子宮があり、女性ではない人」ということになるだろうか。
「生理のある人」という言葉の必要性
「生理のある人」という言葉に対して、強い批判が寄せられることもある。では、この言葉はなぜ必要なのだろうか。
※この章にはトランスジェンダー/ノンバイナリーへの差別的な発言が含まれます。ご自身の状況に合わせ、無理をせずお読みください。
だれかのストレスをなくすための言葉

「生理のある人なんて言わなくてもいい。女性って言えば伝わるはず」という意見がある。
「自分を女性として認識していない人たちも、生理があることは自分でわかっている。必要な情報くらい分かるはずだ。だから、そのままでいいじゃないか」という人もいる。
「トランスジェンダーもノンバイナリーも存在しない。生理のある人は全員女性だ」なんて発言も、インターネットでは見かけないことはない。この発言はノンバイナリーとして論外であるとしても「生理があることは自分でわかっている」というのは、その通りかもしれない。
現状のぼくは、生理を止めるためにレディースクリニックを利用しているし、自分に子宮がんのリスクが存在することもわかっている。「自分はノンバイナリーだから、女性の情報なんて関係ないね」という気持ちで生きているわけではまったくない。
でも、シスジェンダーではないぼくたちにとって、医療とのかかわりは往々にしてストレスフルなのだ。生理や子宮の存在自体も嫌だけど「婦人科」「レディースクリニック」と名のつく病院に行き、仕方なく性別欄の「女」に〇をつけるのも、気持ちのいいものではない。
だからせめて「生理のある人」「子宮のある人」という言葉を使ってもらえた方が、ぼくにとってはありがたい。あくまで個人の感じ方だけど「あなたは女性ですね」と言われるよりも「あなたには子宮がありますね」と言われる方が、違和感なく受け入れられるからだ。
言葉を変えるには、なんの設備も要らない。0円である。
「生理のある人」は限られた場所で必要な言葉
加えて、この言葉への批判でよく見るのが「人としての尊厳を無視している」というものだ。「相手に『そこの生理のある人』と呼びかける気なのか、とんでもない」というような誤解も散見される。
そうではない。「生理のある人」「子宮のある人」という言葉は、医療やヘルスケアのなかの、生理や子宮に関係がある領域で、必要な場合に用いられるものだ。そして、多くの場合は「生理のある人」「子宮のある人」全体に呼びかける言葉であって、個人に向けられるものではない。
たとえば「生理に関する健康」「子宮の病気」というような特定テーマのための言葉だから、日常的に使われることはないと思っていい。ましてや、外で誰かを突然呼びかけるための言葉では絶対にない。
「女性」を消そうとしているわけではない
さらに「『生理のある人』と『女性』を言い換えている」「女性という言葉を消そうとしている」という批判も目立つ。
これも違う。生理のある人は生理のある人、女性は女性である。そしてその2つは、重なりはあるが違うグループだ。「女性ではあるが、生理はない人」「生理はあるが、女性ではない人」は両方存在する。
「生理のある人」という言葉が使われるようになっても「女性」という言葉は消えない。
より適切な言葉が、適切に使われ続けるだけだ。もちろん、自己を女性として認識する人が、女性であることもまったく変わりない。
「生理のある人」から、ノンバイナリーが考えること

ノンバイナリーであるぼく自身は「生理のある人」や「子宮のある人」という言葉を歓迎している。
「生理や子宮があるなら女性でしょ?」という無理解に苦しんできた身としては、身体の状態と性別を切り離す表現をうれしく思うからだ。
しかし「自分は女性であり生理や子宮があるが『生理のある人』『子宮のある人』という表現が嫌だ」という人々も存在するだろう。そうした人々と、ノンバイナリーのぼくのニーズはぶつかってしまう。
ぼく自身は、自分たちが切り捨てられてきたからといって、いま「嫌だ」と思う人々の気持ちを切り捨ててよいとは思わない。だからといって、いまベストな答えが出せる、というわけではないけれども。
そして、もう1つ考えたことがある。
これらの言葉が批判される背景には「生理」や「子宮」の存在がある種タブー視されてきた、ということがあるのではないだろうか。
世の中にはいまだ生理への無理解が存在し、子宮に関する疾患の啓発もその途上にある。「生理」や「子宮」が表に出してはいけないもの、として扱われてきた歴史は、医療・衛生に関わる情報の届きにくさにもつながっている、といえるだろう。
「生理のある人」という言葉は、社会に小さくない反応を起こしている。そしてそれは、すべての人に関係があるものなのではないだろうか。


