LGBTQ+であること、家庭環境の悩みがあること。これらは、単体でも生きづらさの要因となるかもしれない。しかし「家庭がしんどいLGBTQ+」には、特有の背景や苦しみがあるのではないだろうか。家族関係で苦しさを感じていたLGBTQ+当事者の立場から、この問題について考えてみたい。
LGBTQ+と家族関係
セクシュアリティをオープンに暮らしていることもあって、ぼくにはLGBTQ+の友人がそこそこいる。
「家族がしんどい」LGBTQ+は多い?
いろいろな友人の話を聞いて、ひとつ気づいたことがある。LGBTQ+当事者には「家庭がつらかった」と感じている人が、特に多いのではないか、ということだ。
もちろん、統計をとったわけではないし、これはたまたまかもしれない。もしくは、ぼく自身が家族と不仲だから、似たような人と仲良くなりやすい、という可能性もある。でも、それにしても、家庭での傷つきを語る人々が多い気がする。
LGBTQ+のコミュニティでも、ぼくは同じことを思う。当事者の集まりで「実家に帰りたくなくてさ」という話をすると、そうでない場所よりも「自分も」という声があがることが多いように感じるのだ。
「家族がしんどいからLGBTQ+になる」ではなくて
話をはじめる前に、ひとつことわっておく。この記事でぼくは「LGBTQ+に ”なる” のは、家庭環境が悪いからだ」みたいな話をしたいわけではない。
ときどきだけど、LGBTQ+であることに対して理由を求める人を見かける。
LGBTQ+は、基本的に「なる」ものではないし、相関関係を因果関係だと決めつけるのはあまりに乱暴だ。まあ仮に、LGBTQ+に「なった」として、なにが悪いのか、とも思うけれども。
「LGBTQ+」と「家族関係」について、本気で考えたい
ぼくがしたいのは、LGBTQ+であることと、家族関係の悩みがどのように相互に影響し合うのか、という話だ。
「LGBTQ+当事者であることにより、家族関係に難しさが生まれる」という現状がある。反対に「家族関係の悩みを抱えていることで、LGBTQ+当事者としての人生に困難が発生する」ということもある。
「LGBTQ+」と「家族関係」が関連づけられることは、多くはないように思う。しかし、この2つのトピックを一緒に考えることで、見えてくるものがあるのではないだろうか。
「LGBTQ+が受け入れられない」という家族
まずは「LGBTQ+だからこそ、家族との関係に困難が生じやすい」という話をしよう。
LGBTQ+に差別的な家族のなかで育つ子どもたち

ぼくは20代で、いわゆる「Z世代」と呼ばれる世代だ。ぼくたち若者のなかでは、LGBTQ+の存在も、ある程度当たり前のもの、として認識されているように思う。
しかし、上の世代は必ずしもそうではない。LGBTQ+について「馴染みがない」「よくわからない」という人も当然多くいるし、強い嫌悪感を持つ人もいるようだ。
だから、大変残念なことに「LGBTQ+に差別的な家族がいる」というのは、当事者の悩みとしてありふれたものだ。
「テレビでLGBTQ+の話が流れてくると、毎回家族が差別発言をするから家を出たい」という人。
「両親の片方は理解があるけど、もう片方には絶対言えない」という人。
「親戚に嫌なことを言ってくる人がいるから、帰省するのが本当にゆううつ」という人。
こんな状況で、家族と仲良くできるはずもないだろう。
「LGBTQ+って知られたら、絶縁されるかも」
「家族が差別的だ」という当事者と話していると「絶縁」というワードが出てくることもある。
「カミングアウトするときは縁を切る覚悟」とか「バレたら追い出されるかもしれない」とか、そういう気持ちで生きている、という話は少なからず聞く。
「家を出られる年齢になるまでは、LGBTQ+であることを隠し通した方がいい」というアドバイスも見たことがある。
身を守るためには、ある意味もっともな意見だ。
しかし、そんな覚悟のなかで生きていかなければならない当事者が今もいることを思うと、いたたまれない気持ちになる。特に、未成年のLGBTQ+当事者にとって、こうした不安は深刻なものだろう。
本来、家庭は子どもたちにとって、外の世界に疲れたときの「安全基地」としての役割を果たすはずだ。しかし、差別的な家族をもつLGBTQ+の子どもは、自分を受け入れてもられない環境で子ども時代を過ごすことになる。
LGBTQ+に関する研究では、当事者がメンタルヘルスの問題を抱えやすいという結果も多く見られる。当事者の一人としては、その要因のひとつに、こうした家庭での経験があるのではないかと感じるところだ。
悪意がなくても無理解は起こる
ここまで書いてきたのは、LGBTQ+当事者と差別的な家族の間に生じる問題だ。
そして「差別的な家族」は、悪意のもとで当事者を傷つける、という人々ばかりではない。よかれと思った言動が、LGBTQ+当事者を苦しめることもある。
たとえば、LGBTQ+の子どもを持つ親が「子どもを愛しているからこそ『ふつう』の道を歩んで欲しい」と考えるケースがある。親は子どもを苦しめたいわけではないが、異性との結婚や子育てといった「ふつう」の人生を子どもに期待してしまっている。
そして、子どもがLGBTQ+だと「ふつう」の人生を歩めないと考え「(LGBTQ+は)治らないの?」「 ”ふつうに” 生きることはできないの?」と聞いたりする。
しかし、そうした言葉は子どもとしては「ふつうを押し付けられている」ということになる。
また「どうしても感情的に受け入れられない」「理解するまでに時間がかかる」という家族もいる。長い時間をかけて説明し、ようやく家族に受け入れてもらった、と話す当事者はめずらしくない。
もちろん、家族と折り合うのが難しい、という経験をする人は少なからずいるだろう。しかし、ここまで書いてきたような家族関係の苦しみは、LGBTQ+当事者だからこそ、と言えるものではないだろうか。
ぼくの体験談:「家族と仲が悪い」から詰むLGBTQ+
ここまでは、LGBTQ+という属性が家族関係にもたらす影響を書いてきた。加えて「家族仲が悪いLGBTQ+」だからこその困りごともある。ぼく自身の経験から、この問題について考えていきたい。
実家にいる間はなにもできない

NOISEではときどきお話させてもらっていることだけど、ぼくは家族と折り合いが悪い。
幼少期には母親からの暴力を受けていたし、そのあとも上手くやれることはなかった。
働きはじめて以降は、家族からの連絡をすべてシャットアウトしている。いわゆる「絶縁」に近い状態だ。
ノンバイナリーのぼくが、身体への違和感を抱え始めたのは、中高生の頃。でも、親の監督下にある状態では、治療なんて夢のまた夢だった。
我が家は父が忙しい人だったので、親になにか言わなければならないときは母とのやりとりが主だった。しかし、ぼくの母は「子どもの感情を受け取らない」というタイプの人で、コミュニケーションを取るのはとても難しかった。
どういうことかというと、たとえば「生理がつらい」と言ったら「はあ? みんなそうでしょ」と返ってくる、というような感じである。生理痛なんて当たり前だから、と痛み止めすら使えない家で、ぼくは「自分の辛さや苦痛は、共感されないもの」と学んでいった。
こんな状況で、性別違和の話なんてできるはずがない。
高校生でSNSを始めると、同年代の当事者たちが親にカミングアウトしたり、家族の許可を得てジェンダークリニックへの通院を始めたりしていた。「勇気があるなあ、すごいな」という尊敬の念と「我が家じゃ絶対無理だなあ」という悲しさが入り混じる。
ぼくは複雑な気持ちで、彼らの投稿を眺めていた。
手術も改名も「家族」が重要
結局、ぼくが性別違和と向き合うことができたのは、最近になってからだ。しかし、自分の望む名前や身体で生きたい、と思ったときも、家族がかかわってきてしまう。
たとえば、胸オペを受けようとしたとき。いろいろ調べていたら「成人していても、手術同意書に親のサインが必要」という病院があった。カミングアウトできていなかったり、両親と折り合いが悪かったりすると、手術の選択肢が限られる、ということになる。
また、ぼくは改名経験があるけれども、改名申し立てのときには「家庭裁判所から『家族が改名に賛同しているか』と質問されることがある」と聞いて、大いに不安になった。
ぼく自身はさいわいにも、そうした質問なしで改名を認められたけど、実際に「改名を確実に認めてもらうために、仕方なく家族にカミングアウトした」という当事者もいる。
解決方法は結婚しかない?
こうした不都合に直面するときに「結婚すれば、こんなに悩まなくて済む」と思ってしまうことがある。
ぼくは恋愛対象の性別を問わない「パンロマンティック」だ。
戸籍上異性のパートナーがいれば、婚姻制度を利用することができる。(ノンバイナリーなのに「妻」と呼ばれることへの違和感とか、性愛が婚姻の前提であることへのアセクシュアル的なモヤモヤとか、そういったことを捨てておけば、だけど)
でも、パートナーが戸籍上同性だったら? ひとりで生きていきたい、と考えた場合は? そもそも、結婚でぼくの困りごとが解決されて、それで終わりなのだろうか。
家族を前提にしない社会の必要性

LGBTQ+と家族をめぐる問題を考えていて、ひとつ思ったことがある。
現状の社会全体、具体的には人々の認識や制度が、あまりにも「仲のよい家族がいる人」向けに設計されているのではないか、ということだ。
このような社会からは、さまざまな人がこぼれ落ちてしまう。
自身が「家族」だと認識する相手と、法律上の家族関係をもてないという人。
血縁・法律上の家族ではない人々と、心から信頼し生活を支え合って生きている人。
ひとりで生きる選択をする人。
LGBTQ+当事者に限らず、こうした人々は日本でたくさん生活しているだろう。それにもかかわらず、社会の中では「想定されない存在」となってしまっているのだ。
社会の仕組みや人々の意識の中で、より多様な個人を想定していくこと。
これは、LGBTQ+当事者を含む、多くの人を生きやすくしていくのではないだろうか。
