韓国SF文学が、ここ数年で日本でも盛り上がりをみせている。その理由のひとつとして、フェミニズムやLGBTQ+といったテーマを扱っている作品が多い、ということがある。今回は、レズビアンが登場する韓国SF文学の一部を紹介したい。
小説『声を上げます』に登場するレズビアン
日本で人気の韓国文学作家のひとり、チョン・セランによる短編集『声をあげます』には、レズビアンが登場する作品がある。
想像を楽しめる「余白」― 短編集『声をあげます』で私の心を掴んだ作品
私がチョン・セランの小説に惹かれたのは、その設定や言葉選びの美しさからだ。
短編集『声をあげます』の最初に収録されている、小説『ミッシング・フィンガーとジャンピング・ガールの大冒険』はこのような1行で始まる。
「指が消えちゃう子を好きになったことある?」
この文章を目にした瞬間、私は図書館で借りるかどうか迷っていた『声をあげます』を迷いなく貸出カウンターに持って行き、さらに読み終えたあと、自分でも持っていたくてあらためて本を購入した。それくらいの衝撃だった。
ミステリアスで、軽やかで、続きがどうしても気になる。1行目に作品の魅力がすべて詰まっていると思えた。
『ミッシング・フィンガーとジャンピング・ガールの大冒険』は、指だけがタイムトラベルしてしまう子と、高跳びの選手だった子の冒険の物語で、まるで詩のように短い小説だ。
ミッシング・フィンガーの性別は作中で明かされていないけれど、だからこそ、私は読みながらいろいろなミッシング・フィンガーの姿を想像することができた。
ジャンピング・ガールが、危険なタイムトラベルについていきたくなるほど好きな相手。どんな人だろう、もしかしたら女性かもしれない、と考えられるのは楽しかった。
私はレズビアンだから、作中に描かれる恋愛が女性同士のものだと、すんなりと想像しやすい。読者にとって、より魅力的な「ミッシング・フィンガー」をイメージできるような余白のある描き方が、とても好きだと思えた。
レズビアンであることは悲劇につながらない― 小説『リセット』
短編集『声をあげます』には、レズビアンであるとはっきりわかる人物が出てくる作品もある。タイトルは『リセット』。
小説『リセット』は、地球に巨大ミミズが襲来し、あっというまに世界の様相が変わってしまうというストーリーだ。
この世の終わりかと思われるような絶望的な状況のなか、アンというミミズに詳しい少女が専門家として調査に招かれる。彼女の育ての親が、ナバロとシャイアンというレズビアンカップルなのだ。
私が小説『リセット』を好きだと思う理由のひとつは、作品のなかで、彼女たちがレズビアンであることがそれほど重要ではない点だ。
レズビアンの人物が登場すると、多くの場合、そのセクシュアリティは物語のなかで重要な意味をもつ。差別を受けたり、恋愛模様が描かれたり、あるいはカップルの仲が引き裂かれてしまったりする。
『リセット』はそうではない。
レズビアンカップルの彼女たちは、ただ娘のアンにとって「ミミズに詳しかった、かっこいいママたち」として描かれる。彼女たちがレズビアンであるために差別されたり、不幸になったりする描写はない。
その、さらりとした描き方に、私自身も救われたような気がした。
アンの「ママたち」は、巨大ミミズの調査のために命を落としてしまうけれど、悲劇的な人物としてではなく、ただ自分たちの興味にまっすぐな、人間味のある魅力的なキャラクターとして表現されている。
日本の作品ではあまり出会う機会のない、自然体なレズビアンのキャラクターのあり方に、感銘を受けた小説だ。
小説『ウエハース君』に登場するレズビアン
イ・ユリによる小説『ウエハース君』は、2025年秋に日本で刊行されたばかりの、こちらも韓国SF短編集だ。
独特の世界観を描く短編集『ウエハース君』に込められた、レズビアンの物語

短編集『ウエハース君』は、淡い桃色の表紙に作中のモチーフのイラストが並んだ、ポップかつキッチュな装丁に惹かれて読み始めた。
夢のなかにいるような独特の世界観のお話が多く、おもしろく読み進めていたのだけれど、ある作品を読んでいる途中で手が止まった。
タイトルは『キノコの国で』。人口増加と環境汚染が深刻になった未来の地球で、人類の選別が行われるというストーリーだ。
政府は、ある基準にあてはまる人間たちは新たな居住地へと移住し、生活を保障すると発表する。その基準とは、健康体であり、労働が可能な年齢であること。そして「身体的・精神的に健康な生殖が不可能」ではないこと。
これらの基準にあてはまらない人間は、食料の供給がなく餓死するか、もしくは政府の提供した劇薬(飲むと死に至り、体が白いキノコに変化する)を服用するか、という選択を迫られる。
つまり、生殖が不可能な同性愛者(ゲイやレズビアン)は、社会によって淘汰されてしまうという話なのだ。
レズビアンをふくむLGBTQ+が出会う苦難を、SFで描き出す
小説『キノコの国で』の主人公は、ガンヒとスミンというレズビアンカップル。
ずっと一緒に暮らしていて、交際十周年を迎えようとしていた彼女たちは、政府からの発表により意見を対立させる。
正義感が強く、不当なことを見過ごせないガンヒは、自分がレズビアンであることを隠そうとしない。スミンは、彼女の考えに激しく反発する。レズビアンじゃないと言いさえすれば生き残れるんだから、それくらいの嘘はついてもいいじゃないか、と。
しかし、ガンヒは「自分がレズビアンであることを否定するのは、自分自身を否定することと同じだ」という考えを曲げない。
恋人のスミンには生きのびてほしいと望みながらも、自分の信念に反することはどうしてもできない、とキノコになる劇薬を手にする。
この小説を読んで、私は思わずたくさんの人の顔を思い浮かべてしまった。
レズビアンをはじめ、LGBTQ+の権利のために身を挺して活動をしている人たち。一本気で、嘘がつけない性格のパートナー。そして、レズビアンであることを公表している私自身。
レズビアンであることは、決して罪や悪などではない。それでも、その事実は、命にかえても守らなければならないことなのだろうか。
私たちは、ここまで社会の状況が悪くなってしまったときに、私たちの信念を守る必要があるのだろうか。
レズビアンではないと自分を偽ることは、私たちの尊厳にどのような影響を及ぼすのか。
思考はどんどん枝分かれしていき、つい『ウエハース君』のページを繰る手を止め、本を閉じてしまった。短いストーリーの中に、心を強く揺さぶるパワーが詰まっていた。
『声をあげます』とは異なり、短編集『ウエハース君』は、レズビアンであることが悲劇につながるストーリーだった。でも、レズビアンの登場人物たちをそのような境遇においた作者、イ・ユリ氏の意図は充分に伝わってきた。
レズビアンをふくむ、LGBTQ+の人たちは、多かれ少なかれ、似たような苦境に立たされてしまうことが多いのだ。現代においても、悲劇はゼロにはなっていない。それを、SFという形でさりげなく訴えたいという思いが込められているように思えた。
韓国SF文学での「レズビアンの描かれ方」に込める期待
ここまでに挙げた『声をあげます』と『ウエハース君』の2冊以外にも、いくつか韓国SF文学でレズビアンの描写に出会ったことがある。
SFの世界では、レズビアンであることは特別じゃない

近年の韓国SF文学では、LGBTQ+やフェミニズムなど、ダイバーシティ的な価値観に基づいた作品が多くみられる。
いくつかの作品を読んだうえで、日本の小説でふれるレズビアンの描写と違うのは、存在がごく自然に感じられることだ。
日本の小説でよくみられるレズビアンの人物描写は、自身のセクシュアリティに悩んでいたり、同性へ抱いている気持ちが本当に恋愛感情なのか? と葛藤したりしていることが多いように思う。
(関連記事はこちらNOISE:レズビアンの甘く苦い ”人生” を描き出した小説『生のみ生のままで』)
『声をあげます』や『ウエハース君』をはじめとする韓国SF文学は、そもそもジャンルがSFであり、数百年単位の未来の話であることが多い。そのためか、レズビアンが登場すること自体はごく自然に映る。
たとえ同性愛者が淘汰されてしまうディストピアを描いていても、物語の舞台は現代のアジアよりもずっとLGBTQ+についての認識が広まり、深まっている未来なのだ。
あるいは、登場人物がレズビアンであることよりも、ずっとずっとイレギュラーな現象が物語のなかで起こっていて、レズビアンというセクシュアリティはちっとも特別じゃない、ごくあたりまえにある性質のひとつというふうに思える。
私には、その軽やかな「レズビアンの描き方」が、とてもうれしく感じられるのだ。
いつか、レズビアンであることがあたりまえの世界に
とある漫画家が、フィクションにおけるLGBTQ+について「悲劇的な描かれ方が多過ぎる。だから自分はもう悲しい物語は描きたくない」と語っていたのをトークショーで聞いたことがあった。
私も、その意見におおむね同意だ。
これまでつくられてきたフィクションに登場するレズビアンや、ほかのLGBTQ+の人物は、悲劇的な運命を迎えすぎていると思う。
LGBTQ+の社会的なありようを表現するには、その苦しさや葛藤を描くというのも有効だとは思う。ただ、LGBTQ+の登場人物は作品のなかで命を落とすことが多過ぎるし、パートナーと別れてしまう場合が多過ぎる。
ごく平凡で幸せで日常的な雰囲気の作品があまりにも少なくて、そこにはたしかな偏りがある。
だからこそ、私は韓国SF文学に惹かれたのかもしれない。レズビアンであることが、すなわち悲劇につながるとは限らない。たとえ悲劇的な目に遭ったとしても、その世界観は多様で、さまざまな人がさまざまな現象に遭遇するのがあたりまえだから、レズビアンであることが特別に悲劇的だというふうにはみえない。
こんなふうに、ごくさりげなく、さらりとレズビアンの人物が登場する作品が日本にもっと浸透していけば、現実でのレズビアンの存在ももっと身近であたりまえのものになっていくのではないだろうか。
小説『声をあげます』と『ウエハース君』に出会って

私にとって、韓国SF文学というジャンルの入り口になってくれた小説『声をあげます』。そして、同じレズビアンの悲劇を描いていても、従来の作品とどのように違うかをあらためて考えさせてくれた小説『ウエハース君』は、本棚のなかでも特に大切な2冊だ。
韓国の文化に馴染みのない人にとっては、ハードルが高いと感じたり、登場人物の名前に違和感をおぼえたりすることもあるかもしれない。
しかし、韓国SF文学の多くはとても読みやすく、キャッチーで、マイノリティへのやさしいまなざしにあふれている。
ぜひ少しでも興味があれば、1冊手に取ってみてほしい。
そして、そのなかに登場するレズビアンの人物がいかに自然体で、さりげなくSFの世界にまぎれこんでいるかを、楽しみながらたしかめてみてほしい。
■作品情報
小説『声をあげます』
作:チョン・セラン
訳:斎藤真理子
出版社:株式会社亜紀書房
小説『ウエハース君』
作:イ・ユリ
訳:渡辺麻土香
出版社:株式会社晶文社
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