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Writer/shu

痛みを味わえるようになったクワロマンティックの話

わたしは最近まで「傷つかない生き方」や「痛みを感じない生き方」が良いと思っていました。でも最近気づいたんです。それは、間違っていたってことを。そしてなんと、傷ついたり、痛みを感じたりして、受け入れられるようになってからのほうが、生きている実感を感じています。

痛みを感じないように生きていたクワロマンティックのわたし

わたしは、善く生きられている?

わたしは長い間「ちゃんとした人」であろうとしてきました。
・人に迷惑をかけない
・相手を傷つけない
・相手を理解しようとする、共感する
・自分の気持ちよりも、みんなにとって良さそうかを考えて行動する

など。そんなことができている自分を「善く生きられている」と本気で思っていたんです。

対話を学び、他者を理解しようと本気で向き合ってきた時間は、いまの自分をつくってくれた大切な時間でした。いまわたしの周りにいる仲間の多くは「ちゃんとした人」であろうとしてきたことで築けたつながりでもあるからです。

でもその裏側では、自分の感情を置き去りにしていました。
・嫉妬なんて無駄な感情だ
・わがままな人だと思われないように、自分の強いこだわりや主張はしない
・怒るなんて子どもみたいだから、怒りの感情は持ってはいけない
・人を傷つけるなんて最低だから、絶対になってはいけない
・「頼ったら迷惑かな?」と考えて、頼らない
・自分は納得しなくても、相手がしたい選択はすべて尊重する

そんなふうに、自分の気持ちにずっとふたをしてきました。

クワロマンティックであることへの過剰な意識

振り返ると、わたしは痛みを避けることが、とても上手でした。他者に期待しすぎず、傷つきそうな関係性の作り方はしないで、どこか一歩引くように・・・・・・。

前回の記事でも書きましたが、「クワロマンティックとして」とか「LGBTQ+について考えている人として」という言葉が頭をついてまわっていました。(関連記事はこちらNOISE:クワロマンティックのわたしは、正解を探すのをやめた

・クワロマンティックとして、人との関係をもっと丁寧に考えなきゃ
・LGBTQ+について考えている人として、配慮がきちんとできるようなお手本にならなければいけない
・LGBTQ+について考えている人として、失敗は許されないから、感情に流されず、考え抜いて発言や行動をしないとダメだ

これらのことを達成するために
・他者とぶつからないようなコミュニケーションをする
・相手に嫌な考えをぶつけられても「この人の考えだから」と思ったほうがいい
・他者を否定するような感情を抱いてはいけない

そうすれば、自分も相手も苦しまなくてすむ。そう思っていました。

でも本当は違いました。それはすべて、わたしが傷つきたくない、痛みを感じたくない、と思っていたからでした。もしできなかったら、自分に失望するし、自信をなくしてしまう。生きていけないかもしれない、とすら感じていました。

傷つきたくないし、間違えたくない。そんな思いが、自分でも気づかないうちに「わたしは(本当は)こうしたい」という心からの欲求や願いを、心の奥底に閉じ込めてしまっていました。

痛みは感じてもいいものだった

2026年に入ってからです。少しずつ、自分の中にため込んでいたものを吐き出せるようになりました。

たくさんの喜怒哀楽を抑えてきた

悔しかったこと、悲しかったこと、さみしかったこと、嫉妬したこと、怒っていたこと、本当は嫌だったこと、本当は望みたかったこと・・・・・・。

以前のわたしなら「そんなことを言う自分はかっこ悪い」「人としてどうなんだろう?」「そんなこと思っていいのかな?」「クワロマンティックであることと辻褄が合うだろうか」と思っていたかもしれません。

そして、自分の望みもどんどん出てきたんです。パートナーがほしい、愛されたい、愛したい、触れ合いたい、もっと楽しさやよろこびを分かち合いたい、というおもいが沸々と・・・・・・。

これまでのわたしは、そんな感情を「ないこと」にしようとしていました。でももう違う。自分の心が何を求めているのかわからなくなっていたわたしは、もういません。

痛みは悪者なんかじゃなかった

・誰かをうらやましいと思う
・人から変なことを言われて悲しい
・あの人のこと好きだから、離れるのがさみしい
・なんでいままで気づかなかったんだ、と後悔する

これらを感じるとき、心はチクチクします。痛いです。泣きたくなります。

これまでのわたしなら「こんな感情、感じちゃダメ」ってジャッジしていました。でもいまは違います。自分の感情を否定しなくなりました。

「そりゃあ痛いよね〜」「悲しいよね」って受け止められる。受け入れることができています。そうなったいま、心はすごく軽くなりました。

痛みはできるだけ避けたほうがいい。そんなものは、できれば経験しないほうがいい。そう信じていたわたしですが、いまは「痛みは、わたしが本気だった証」と捉えています。

・あの人みたいになりたいと憧れていて、でもなれないから、嫉妬するし、悔しい
・本気で誰かを好きになったからこそ、苦しい
・一緒にいると楽しい相手だから、離れるとさみしい
・本気で人生を分かち合える相手がほしいと思ったから、涙が出る

痛みがあるということは、それだけ心が動いているということです。だったら、決して悪いものじゃない、っていま思えています。

痛みは、自分が必要としているものを満たせていないからこそ感じるもので、逆にありがたいものなんだ。自分の願いとよりつながるための痛みなんだ、って思えるようになってきました。

痛みを味わえるようになったら、生きている感じがした

繰り返すようですが、わたしは「痛みがない人生」がしあわせだと思っていました。
しかしいまは「痛みを避け続ける人生は、本当に豊かな人生なんだろうか」と疑問に思うのです。

痛みを味わえない人生なんてつまんない、って思えてきた

痛みの中にいるときは、なんでこんな気持ちにならなきゃいけないんだろうって思います。この苦しみから抜けて、早く楽になりたいって。

でも、本当に経験しないほうがいいことなのだろうか、と。

自分が本当に心から望み、欲しがり、行動し、しかし届かなかった。手に入れられなかった。そのときに感じる痛みが痛ければ痛いほど、次の自分につながると思うんです。

望みもしなければ返ってくる痛みも小さいし「自分はどうしてもこんなことがしたいんだ」という強い欲求や心から願っていることも、感じられない気がするのです。

希望や願いがあるから痛みを感じるし、痛みを感じるからこそ次のエネルギーになっていく。そして、願いが叶ったときのそのよろこびは、ひとしおだと思います。

もし痛みを感じないように、人生から取り除こうとして生きていっていたら、それは人生の楽しみや幸福感まで薄くなってしまうような気がしています。

だからいまは「痛みを味わえない人生なんて、つまんない人生なんじゃないか」とすら思うようになりました。

痛みを受け入れられるようになったら楽になった

不思議なことに、痛みを受け入れられるようになってからのほうが、心は軽くなりました。

すると、他者との間のコミュニケーションも変わっていきました。

以前は、話す前に頭の中で何度もシミュレーションをして話をしていました。
「こういう言葉は使わないほうがいいな」「こう思われたらどうしよう」そんなことばかり考えていました。

でも最近は、思ったことが自然と言葉になって出てきます。降りてきた言葉をそのまま口にしている感覚です。

それに、人前で自然に笑えるようにもなりました。自然に嘆いたり、頼ったり、わがままを言えるようにもなりました。そういう自分になれたことが、わたしにとってすごく大きな変化です。

わたしがいま思うこと

わたしは「ちゃんとした人」でいることをやめました。

一皮剥けた新しい自分で生きている


みんなの期待に応えることも、この場で一番適した行動は何かと考えることも、こんなことを思う自分はダメだと否定しなくなりました。自分の思いをジャッジすることもやめました。

それよりも、いまのわたしは「自分がどうしたいか」に意識が向いています。ただ自分がどうありたいかということに、無意識的に心が向いている、という感覚です。

人生のパートナーがほしいという願いも強くなりました。パートナーとどんな関係性を築きたいかという思いも、ただ純粋に自分がどうしたいか、という目線で考えられるようになりました。

酸いも甘いも味わいきって生きていく

わたしは長い間「痛みを減らして生きること」を目標に生きていました。でも、これからは違います。

よろこびも。悲しみも。怒りも。さみしさも。うれしさも。願いが叶わない苦しさも。
全部ひっくるめて、自分の人生なんだから、受け入れてやろうと思っています。

しっかり感じて、しっかり味わって、酸いも甘いもたっぷりの豊かな人生を生きようって決めました!

「傷つくことを怖がらなくていい。その痛みは、ちゃんと自分の想いを大切にできた証だ、よ」
「喜びも痛みも、いまよりももっと味わえるようになったとき、きっと、生きていることが好きになれる」

自分に、そう声をかけ続けています。

 

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クワロマンティックのわたしは、正解を探すのをやめた

 

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