安藤尋監督の映画『blue』との出会いは、今から10年以上前。自分がレズビアンかもしれないと気づいた頃だった。当時は入手困難だった原作、魚喃キリコ作の漫画『blue』が復刻刊行されていたと知り、あらためて今、読んでみることにした。
漫画『blue』との出会い直し―10数年の時を超えて
私にとって、レズビアンとしての初恋を思い出させる作品のひとつが、まちがいなく映画『blue』だった。
大好きな映画『blue』の原作漫画が、10数年ぶりに復刻された
地方の海を映した静かな映像。素朴なリコーダーの音。語りすぎない、余白の多い会話。
映画『blue』を初めて観たとき、その空気感があまりにも自分の好みにぴったりで驚いた。しかも、作中で描かれている主人公・桐島の恋模様は、私自身の初恋の記憶にそっくりだった。
私も桐島と同じように、高校生の頃、同じ学年の女の子を好きになった。
最初は友達として仲良くなり、気づけば周囲からも「めちゃくちゃ仲良しだよね」と言われるほどになり、それでも自分の気持ちと相手の気持ちには差があるように思えてもどかしく・・・・・・。
自分はレズビアンなのかもしれない、と思い至るきっかけになった初恋の思い出は、そのまま『blue』のストーリーに重なった。これは自分にとって重要な作品だ、と確信した。(関連記事はこちらNOISE:映画『blue』から考える、レズビアンの「恋愛対象」と「憧れの人」の違い)
映画『blue』について調べると、原作は魚喃キリコ作の漫画だということがわかった。
しかし、当時魚喃キリコ作品は入手困難となっており、漫画『blue』を読んでみたいという願いは叶わなかった。
とはいえ、レズビアンとしての自分の原点ともいえそうな作品の、原作だ。
「いつか絶対に読みたい」と願い続けていたものの、何も手を打つことができず10年以上が経った。
そしてある日、魚喃キリコ氏の作品が復刻刊行されたというニュースを目にしたのだ。
私は一も二もなく、書店に駆け込んだ。
レズビアンの初恋とともに、漫画『blue』とあらためて出会い直す
漫画『blue』を開いてみて驚いたのが、実写映画版を先に観ていた自分でも、まったく違和感をおぼえなかったことだ。
そのくらい、漫画の絵柄と雰囲気が、映画版の醸し出す空気感に近かった。
あまり表情を崩さないように見える、主人公の桐島と遠藤。
静かにほほえみ、仏頂面にも見える真顔でぽつぽつと語り合い、そっと交流を重ねていくふたりの姿が、映画にもしっかりと活かされていたことをあらためて知った。
もちろん、原作である漫画版と、映画版の間には違いもたくさんある。個人的に好きだと思えるポイントもあれば、少しモヤッとしてしまう部分もあった。
今回は、10数年ぶりに『blue』という作品と出会い直した記念に、レズビアンとしての初恋の記憶を振り返りつつ、漫画版と映画版を比較してみたい。
漫画『blue』と映画版の違い―レズビアンという括りすら超えて
個人的に、漫画『blue』で最も印象に残ったのは「友情と恋愛の境目」の描き方だ。
友情と恋愛を区別しない、漫画『blue』での印象的な描き方

『blue』のストーリーは、主人公である桐島が、同級生の女の子・遠藤を「好き」だと思うところから始まる。
明確に「恋」という言葉で表現されるわけではないけれど、遠藤から「好きってそうゆー意味の?」と確認されるシーンもあるので、私は、桐島の気持ちを「恋愛感情」と呼びたい。
特に理由があるわけじゃないけど、女の子である遠藤を「好き」だと思う感情。
仲良くしたいし、一緒にいたいし、少しでも近づきたい。
ほかの同性の友達には抱いたことのない感情が、自然と湧いてくる。
「レズビアン」という単語が浮かぶよりもずっと手前の、なんとなく「私はあの子のことが好き」と感じる、シンプルな確信には、私もおぼえがある。
とはいえ、その微妙な感情の揺れ動きの扱い方が、漫画と映画では少しずつ異なっている。
漫画『blue』は、映画版よりも「友情と恋愛の境目」を意識して描いている、という印象を受けた。
たとえば、「まさみちゃんはあたしより中野が大事」という桐島のモノローグがある。
遠藤(まさみちゃん)が、自分よりも付き合いの長い友達である中野に心を開いているように感じて、桐島は中野に嫉妬するのだけど、映画ではその描写は省略され、中野との関係性はごくあっさりとしている。
また、桐島が以前から仲良くしていた友達・渡辺との関係性も、映画より漫画のほうが印象的に描かれている。
桐島は遠藤に恋心を抱いてから、あるきっかけで渡辺との仲がギクシャクしてしまう。その流れは漫画も映画も同じなのだけど、漫画版では桐島と渡辺が仲直りするシーンがある。
渡辺が桐島に「シットしてたんよ」「(桐島)カヤコがだんだん遠藤と仲良くなっていく それが気にくわなかっただけなんよ」と語り、それを聞いた桐島は「あたしもそれとおなじなの」と心の中で思う。渡辺の語った嫉妬心を、遠藤と中野に対する自分自身の嫉妬心に重ねて、共感をおぼえるのだ。
漫画『blue』では、友達同士の嫉妬心と、恋愛感情が混ざった嫉妬心が、ほぼ同じものとして並列に描かれている。それが映画版との明確な違いであると感じた。
レズビアンという括りすら超えた普遍的な感情
私が桐島のような初恋を体験した高校生の頃、実は「自分はレズビアンだ」とはまったく考えていなかった。
正確には、友達を好きだと感じてから1年近く「どうしてこんな感情になるんだろう」と理由もわからずモヤモヤしており、高校卒業間際の春になって突然「ああ、私は女の子に恋愛感情を抱くのか」と腑に落ちたのだ。
もしかしたら『blue』の桐島も、遠藤に「好きってそうゆー意味の?」と聞かれて初めて、自分の気持ちが恋愛感情だと気づいたのかもしれない。
「自分はレズビアンかもしれない」という可能性すら頭に浮かばないうちは、わけもわからず「あの子のことが好きだなあ」と思うだけで、どこまでが友情でどこからが恋愛かなんて区別しようとすら考えない。
そんなふうに、友情と恋愛の絶妙な境界で揺れ動く桐島の気持ちは、高校生の頃の私の記憶とも重なるし、もしかしたらレズビアンではない人たちにとっても、おぼえのある感情かもしれない。
実際に、ヘテロセクシュアル(異性愛者)である友人が「高校生の頃、同性の友達のことを本気で好きになったことがある」と語っていたこともある。
きっと『blue』に描かれている繊細な感情は、レズビアンという括りすら超えた普遍的なもので、あらゆる人が体験したことのあるものなのだろう。
映画『blue』の「卒業」というテーマと、レズビアンの初恋
漫画『blue』と映画版と比較してあらためて気がついたのは、映画版のテーマの根底に流れる「卒業」という要素の大きさだ。
レズビアンとしてモヤモヤしていた、映画『blue』のキャッチコピー

実は、長らく映画『blue』の「恋人ができるまで。」キャッチコピーについて、モヤモヤした感情を抱いていた。
キャッチコピーの真意はわからないけれど、桐島と遠藤の関係性が一時的なものだと思わせるようなそのフレーズは、レズビアン当事者としてかなしいものに感じられた。
まるで桐島の抱いていた恋愛感情が「本物の恋」じゃないみたいじゃないか、と憤慨すらしていた。
ただ、漫画『blue』と映画版を比較してみたときに、このキャッチコピーが今までで一番しっくりくるように思えたのだ。
なぜなら、映画『blue』では全体を通して「卒業」というテーマが重視されているような印象を受けたから。
映画『blue』で描かれたテーマと、レズビアンの初恋の行方
漫画『blue』と映画版との違いのひとつに、桐島の「絵を描くこと」についての向き合い方がある。
原作である漫画『blue』では、桐島はもともと絵を描くことが好きで、授業中に遠藤の後ろ姿をスケッチしたり、卒業後の進路を聞かれて「専門学校行こうと思って デザインとか絵の」と答えたりしている。
一方、映画『blue』では、桐島が絵を描き始めるのはストーリーの後半だ。遠藤との間にすれ違いがあり、会わないでいた期間に絵を描き始めた桐島は、美術教師に進路を相談しに行く。
まるで、好きなのにおもいが届かないと感じてしまった遠藤と距離を取るために、桐島が「絵」という別の居場所を見つけたかのような流れになっているのだ。
私はこの映画版の脚色に「卒業」というテーマを感じた。
どれほど桐島が遠藤を好きだと思っても、ふたりの関係性は大人になるまで続かない。
それは、遠藤がレズビアンではないからとか、桐島のおもいが一方的だからというわけではなく、きっと桐島と遠藤では見ている景色が違うから。高校生の今だからこそ一緒にいられるだけで、大人になったら、お互いの人生の優先順位が違うことが明確にわかってしまうから。
映画『blue』での桐島は、絵を描くことという新たな「好き」を見つけたことで、遠藤との関係性を自然に「卒業」していくきっかけができたように見える。
漫画『blue』では、ほかの友達もふくめて、卒業したらバラバラになってしまう刹那的な関係の中で桐島の恋心が描かれているのに対し、映画『blue』は桐島と遠藤の関係にしっかりとフォーカスを当てて、お互いが新たな道へと踏み出していく「過去からの卒業」が重点的に描かれている。
今の私の解釈では、キャッチコピー「恋人ができるまで。」の余白に隠された言葉は「(私に新しく)恋人ができるまで、遠藤のことずっと忘れないよ。」だと思う。
一緒にいる未来は選べなかったけど、あなたを好きになってよかった。そんな桐島のおもいが反映されたキャッチコピーだったのかもしれないと、今ではそう思えるのだ。
レズビアンとしての原点である作品『blue』との出会い直しを経て

漫画『blue』を読んで、いいなと思った描写がある。
それは、桐島が遠藤のことを、心の中だけで「まさみちゃん」と呼んでいることだ。
みんなの前では、あるいは遠藤本人の前でも、桐島は遠藤のことを「遠藤」と呼びながら、心の中ではひっそり下の名前で呼ぶ。
好きでありながら、そしておもいを相手に伝えていながら、まだ遠藤に対して距離がある。
特別な仲良しのように近くにいても、どこか遠藤を仰ぎ見てしまっているような、自分のおもいのすべては素直に打ち明けられないような、桐島の無意識の部分を表現していると感じられる。
映画『blue』では描かれていない部分だけれど、もしかしたら映画版の桐島も、心の中でひっそり「まさみちゃん」と呼びかけていたのかもしれない。
10数年ぶりに原作漫画にふれたことで、レズビアンの自分の原点のひとつである作品『blue』を、また一層奥行きを増して味わえるようになったことがうれしい。
■作品情報
漫画『blue』
作:魚喃キリコ
出版社:講談社
映画『blue』
監督:安藤尋
脚本:本調有香
出演:市川実日子、小西真奈美、ほか
配給:ミコット、スローラーナー
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