ゲイとレズビアンは「同性愛者」という1つの分類で語られることがあるが、それぞれの住む世界は結構はっきりと分かれている。映画『恋人はアンバー』は、そんなゲイとレズビアンの「溝」と「絆」を浮かび上がらせる作品だった。
映画『恋人はアンバー』ってどういう作品?
2020年製作の映画『恋人はアンバー』は、90年代半ばのアイルランドで暮らす10代のゲイとレズビアンを描いた物語だ。
映画『恋人はアンバー』の主なストーリー
『恋人はアンバー』の舞台となるのは、同性愛が違法でなくなってからたった2年しか経っていない、つまり同性愛への差別が根強く残っていた時代のアイルランドの田舎町。
レズビアンのアンバーとゲイのエディは、それぞれ自分のセクシュアリティを隠しながら生活しているけれど、高校では同級生たちから「レズビアン/ゲイなんじゃないか?」と疑われている。
円満な高校生活を送るために、アンバーはエディに偽装カップルにならないかともちかけ、エディは承諾する。
最初こそぎこちなく、異性愛者のカップルらしさを表面的になぞるだけだったアンバーとエディの関係は、ゆっくりと時間をかけて変化していく・・・・・・。
ゲイとレズビアンの苦難を描いても、どこか明るい『恋人はアンバー』の世界観
私が、映画『恋人はアンバー』を「好きだ!」と思った重要なポイントとして、作品全体を通して感じられる「からっとした明るさ」がある。
まず、タイトルロールでもあるレズビアンのアンバーが、ものすごく魅力的なのだ。
髪にランダムなメッシュを入れ、母親に「口紅をつけたら?」と言われてもきっぱりと拒否し、エディに「男らしすぎる」と顔をしかめられるような気の強さを発揮するアンバーは、学校で「おいレズビアン!」などと馬鹿にされても決してへこたれない。
卒業までの期間を安らかに過ごすため、エディに偽装カップル作戦を持ちかけるけれど、その間も自分のアイデンティティを見失わず、卒業後にロンドンへ旅立つことを夢見て日々をしたたかに生き抜いている。
軍人である父のようになれない自分を否定しつづける弱気なエディを、強く明るいアンバーが反発しあいながらも引っ張っていってくれることで、物語が湿っぽくなりすぎない。
また、差別意識が根強く残っている学校の同級生やふたりの家族たちも、どこか人間らしいチャーミングさや弱さが垣間見えて、憎めない雰囲気になっている。
数十年前の閉鎖的な田舎町を描いているにもかかわらず、鑑賞中も終わったあとも、どことなく爽やかで明るい気分にさせてくれるのが『恋人はアンバー』という作品の素敵なところだ。
ゲイとレズビアンの間にある「溝」と「つながり」
私自身、レズビアンとして生きているなかで実感するのは、日常生活でゲイの人と出会う機会なんてほとんどないということだ。
レズビアンとして生きていて、ゲイの人に出会うことはあまりない

私が、はっきりとわかる形でゲイの男性と出会ったのは、これまでの人生でおそらく2回だけだ。
1回目は、大学生の頃。
LGBTサークルというものが存在すると知って、勇気を出してメールを送ったところ、サークル代表だという男性が会ってくれた。
自己紹介のとき、彼が「僕はゲイなんですけど」と言ったのを聞いて、私は自分がレズビアンであることを棚に上げて、心ひそかに「ゲイの人に会ったの初めてかもしれない!」と感銘を受けていた。(ちなみに、当時のサークルにはほぼ男性メンバーしか所属していないと聞いたため、結局イベントなどにも参加することなく終わった)
2回目は、つい最近のこと。
仕事先で会った男性が、休憩時間に「彼氏は○○の仕事をしているんですけど・・・・・・」と語っているのを耳にして、またもや心ひそかに感銘を受けた。
1回目のときとは違って、日常生活の中で偶然ゲイの人に出会うのは初めてだったからだ。
そこで「え、彼氏がいらっしゃるんですか!?」などと食いつくのはあまりにも品がない気がしたので、私も思いきってさりげなく「私の彼女も以前○○の業界で働いていたって言ってました!」と言ってみた。
私も、彼も、話しながら「おや」というように一瞬の目配せはしたものの、それっきりお互いのセクシュアリティについてふれることはなかった。
実際、日常生活を過ごしていて、ゲイとレズビアンの世界が交じりあうことはあまりなく、あってもこんなふうに淡く、何事もなく通り過ぎてしまうような関係性で終わることが多い。
ゲイとレズビアンの間に「溝」があるのはあたりまえ
映画『恋人はアンバー』でも、レズビアンのアンバーとゲイのエディは、はじめから連帯感をもってお互いを見ていたわけではない。
アンバーは気が強く、自分をしっかりもっているのに対し、エディは繊細で、周囲に溶け込もうと必死だ。性格からして正反対で、趣味も合わないし、話のテンポもずれまくっている。
また、アンバーがエディの好きな男性を見破ったうえで「(エディの好みが)全然理解できない」と毒づくという、あまりの横暴さに笑ってしまうシーンがあるのだけど、私はこの描写に共感をおぼえた。
ゲイとレズビアンは「同性愛者」というくくりでまとめられがちだけれど、そもそも恋愛対象が一致しない者同士なのだから、お互いのふるまいや好みに理解できない部分が多いのはあたりまえなのだ。
私も、アンバーほどずけずけと悪口を言うことはないにしても、ゲイ男性の恋愛エピソードなどを聞くと「よくわからないなあ・・・・・・」などと思ってしまうことが、正直なところ、わりとある。
たぶん、ゲイの人たちにとってのレズビアンも、似たようなものなのではないだろうか。
同じ「同性愛者」というつながりは感じつつも、共通する趣味や話題も少ないし、同じカテゴリーでくくられると途端にうっすらとした「溝」が浮かび上がる。それくらい、ゲイとレズビアンの関係性は微妙なものだと思う。
でも、だからこそ『恋人はアンバー』のアンバーとエディの関係は、生々しくて危なっかしく、尊いものに映るのだろう。
ゲイとレズビアン。価値観は違っても、かけがえのない絆を結んだ映画『恋人はアンバー』のふたり
恋愛ではないからこそ、お互いが必要だった―映画『恋人はアンバー』の描きだす絆

映画『恋人はアンバー』の作中では、エディが自分のセクシュアリティをなかなか受け入れられない様子が描かれている。
アンバーに「あなたはゲイでしょ」と何度言われても「僕は違う」と反発し、恋愛やセックスの話ばかりしている周囲の男子学生たちに馴染めるよう必死に努力する。
一方、アンバーは自分がレズビアンであることを受け入れていて、エディの葛藤をもどかしく見守っている。
きっと、時代や土地柄を考えると、エディのように葛藤を抱えるLGBTのほうが多かったはずだ。
また、アンバーは「考え方が都会的だから」と自分で語るくらい、思考が時代を先取りしていて、だからこそ田舎町では煙たがられている。気丈にふるまう作中の様子からはわからないけれど、傷ついたり、寂しい思いをしたりすることもたくさんあったはずだ。
お互いに価値観が一致せず、ぎこちないまま偽装カップルとして過ごすアンバーとエディは、それでも、お互い似たような孤独や悩みを感じたことのある者同士だ。
偽装カップルとはいえ、恋愛感情やお互いの利害に関係なく一緒にいられる存在は、きっとアンバーにとってもエディにとっても、たったひとりしかいなかったのだ。
家族にも言えない秘密を共有することができ、相手に何も期待せず、相手からのプレッシャーも感じる必要がない相手の存在は、アンバーとエディにとって次第にかけがえのない存在になっていったのだろう。(関連記事はこちらNOISE:大人になってからわかる真実― 映画『アフターサン』とLGBTの絆)
近いようで微妙に遠い、ゲイとレズビアンの世界で
ゲイとレズビアンの間には、微妙な溝とつながりの両方がある。
日常のなかで偶然、レズビアンの人に出会ったときのことを思い返すと、前述したような「ゲイの人に出会ったとき」との違いを特に実感する。
私はレズビアンの人たちのコミュニティに参加するようなことはほとんどないのだけれど、それでもたまに、レズビアンの人と出会うことがある。
それも1回や2回ではなく、数えきれないほどだ。たぶん、少なくとも10回は超えているはず。
私がセクシュアリティをオープンにしていることもあってか、初対面の人から「実は私もレズビアンなんです」と自己紹介されたことが何度かあった。あるいは、会話のなかで私がパートナーの性別を明かしたときに「そうなんですか! 私も実は・・・・・・」とカミングアウトされるというパターンもあった。
いずれにせよ、レズビアン同士が日常の中で出会うと、その後は急速に「レズビアンあるある」のような話や恋愛エピソードの披露が始まり、不思議な盛り上がりをみせるのだ。
「彼女さん、どんな人なんですか?」
「フェミニン? それともボーイッシュなタイプ?」
「彼女は髪を切ったときとか、メイクを変えたときにすぐ気づいてくれるんです」
「パートナーが女性だと、服の貸し借りがしやすくていいですよね!」
などなど、ものすごくそういう話がしたいと思っているわけでもないのに、なぜか話が止まらなくなることが多い。
たぶん、同性同士の気安さと共感性で、レズビアンというお互いの共通点について話さなければ! という気持ちが無意識に湧いてくるのだろう。
それに比べると、ゲイの人に出会ったときの私は(相手の男性も)、なんとなく遠慮がちで、ぎくしゃくしていた。
きっと、ゲイとレズビアンというセクシュアリティを意識せず、お互いをお互いとして受け入れあえるくらい仲を深められたら、ほかには代えられない大切な友人同士になれるかもしれない。『恋人はアンバー』の、アンバーとエディのように。
ただ、今のところそういう関係性を築けそうな機会はめったにないので、まだまだ私にとってゲイの人たちの世界は、近いようで微妙に遠い距離感を保っている。
映画『恋人はアンバー』に感じるレズビアンもゲイも、自分らしく生きられる時代の訪れ

映画『恋人はアンバー』は、LGBTにとっては厳しい時代の物語ではあるけれど、描かれているのは「LGBTの悩み、苦しみ」だけではなく「未来への希望」だ。
レズビアンである自分を解放できそうな外国へ行くことを夢見ていたアンバー、ゲイである自分を受け入れられず、父親のように軍隊に入隊しようとしていたエディは、お互いに出会ったことで少しずつ心境を変化させていく。
そして、アンバーとエディだけでなく、周囲の人たちの態度も作中で少しずつ変化していくのだ。
多くの国で同性愛は違法ではなくなり、時代は変わっていく。アンバーやエディが自分らしく生きていけるような時代が、ゆっくりと近づいてくる予兆が『恋人はアンバー』には描かれている。
私自身、家族にも周囲にも自分がレズビアンであることを公表できる日がくるなんて、10年前には想像していなかったと思う。
新たな時代の訪れを希望とともに描いてくれている映画『恋人はアンバー』は、まちがいなく私の中で「好きなLGBT映画」の上位にランクインする作品だ。
■作品情報
映画『恋人はアンバー』
監督・脚本:デイヴィッド・フレイン
出演:フィン・オシェイ、ローラ・ペティクルーほか
配給:ASMIK ACE
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