アカデミアでは「女性学」、アクティビズムとしては「女性解放運動」「女性の権利運動」などと訳されることもあるフェミニズム。わたしは女性ではなく、ノンバイナリーですが、だいぶ長いことフェミニズムに関心を持ち、自分のことをフェミニストだと自認してきました。一方、フェミニズムについての本を読んだり、イベントに参加したり、授業を受けたりするなかで、ノンバイナリー・フェミニストとして違和感があることも。
どうしてフェミニストに?
わたしはまずフェミニストになり、それから自分がノンバイナリーであることに気づきました。
フェミニストになったきっかけ
フェミニズムとは、性別に基づく不平等をなくし、すべての人が性別に関わらず、平等な権利と機会を持てる社会の実現を目指す運動や学問のこと。
「女性だけを優遇して、男性を批判するもの」という誤解がありますが、フェミニズムはあらゆる性別の人にとってより平等な社会を目指しています。(少なくともわたしはそう考えています。)
フェミニストは、フェミニズムの「性差別に反対し、性差別の撤廃をめざす」という考えに賛同する人たちのことです。
わたしは高校生のとき、フェミニストたちと出会って「わたしもフェミニストだ!」と明確に感じました。しかし、それよりずーっと前から、フェミニストになる種はまかれていたように思います。
わたしの家では、母が専業主婦で、父が「外で働いて」いました。
専業主婦として生活するなかで、母が家に閉じこもり、生気を失っていく感じや、父が母を「家にいるから世間のことはわからないだろ」とでもいうように馬鹿にして扱うのを、小さいころから違和感をもって見ていました。
どうしてか両親は対等に見えないし、仲も悪い。
それなのになぜか離婚はしない。
あるいはできないのかな・・・・・・?
そんなことを幼ごころに考えて育ったので、フェミニズムについて学び始めた高校のとき
「母に対する父の態度は、性差別的だと言えるかもしれない」
「女性を家庭に押し込め、無賃で家事をやらせることを、性別役割分担と言うのか」
と、自分の感じてきた違和感に、みるみる言葉が与えられていき、エンパワーされたのを今でも覚えています。
高校のフェミニスト・クラブ
わたしが初めてフェミニストたちと出会ったのは、高校の「フェミニスト・クラブ」でした。
当時、わたしは留学して、北欧のインターナショナルスクールに通っており、生徒が主体的にイベントを組織化するサークルのようなものが、学内にはたくさんありました。
その1つが「フェミニスト・クラブ」でした。
友人に誘われて、フェミニスト・クラブのイベントに足を運ぶと、人種も性別もさまざまな人たちが輪になって座っていました。
そこでは「身近な性差別」というテーマについて、話したい人は話してみて! という運営メンバーの呼びかけに、多くの同級生が口を開きます。
同級生の個人的なストーリーを、わたしはどこか自分の経験ともつながっているような、新鮮な気持ちで聞いていました。
・「女なのに力強いね」「男なのに泣くな」と言われること
・両親が「女の子だから」と言って教育にお金を出してくれなかったから、奨学金をとって高校に入ったこと
・両親の間のDVのなかで育ったこと
それらのことを「フェミニストとしておかしいと思う」「だからわたしはフェミニストになった」と言っているみんなの話を聞きながら「ああ、わたしもフェミニストだって言っていいんだ」と、胸にストンと落ちました。
フェミニストにまつわるイメージ
当時、わたしは「フェミニスト」という言葉は知っていましたが、なんとなく遠いと感じていました。
政治家や、一部の活動家が名乗るものだと思っていたのかもしれません。
北欧に留学する前は「自分はフェミニストだ」と言う大人や同世代の人たちは、わたしの周りに全然見つかりませんでした。
でも、高校のフェミニスト・クラブに参加していたのは、いつも同じご飯を食べて、同じ授業を受け、同じ寮で生活している友人たち。
その場には、女性も男性もノンバイナリーもいて、そのうちの多くの人が「フェミニストとして」と発言していたのです。
「フェミニストになる」ということは、なにも大それたことではありませんでした。
違和感をもってきた性差別的な発言や、たとえば「女なんだから」「男なんだから」といった、バイアスのかかった呼びかけを普段からおかしい! と思ったり言ったりすること。
そう実感し、自分自身も「フェミニストになる」ことが「当たり前」のように感じました。
ノンバイナリーだと自認して感じる、フェミニズムもやもや
フェミニストを自認したときはまだ、わたしは自分のジェンダー・アイデンティティについて、あまり考えたことがありませんでした。しかし、自分がノンバイナリーであることに気づいていくなかで、フェミニズムの言説や集まりに感じられる「居心地のよさ」にも変化が生まれます。
ノンバイナリーだと自認して

以前NOISE記事「ノンバイナリーでレズビアンって自己紹介していいの?」にも書きましたが、わたしは、自分のジェンダー・アイデンティティについて考えていくにつれて、
自分が「ノンバイナリーである」という感覚を強くしていきました。
自分の身体に胸があることへの違和感
「わたしは女性である!」と強く言い切れない
「女性として見られる」というのがしっくりこない
それらの経験を重ねるなかで、自身のノンバイナリー・アイデンティティにだんだんとなじんでいきました。
フェミニズムが問題化する「女性への暴力」
ノンバイナリーを自認し始めてから、フェミニズムの授業やイベントでよく耳にする、小さなことが気になるようになりました。
たとえば「女性への暴力」というフレーズ。
性暴力やセクシュアルハラスメントを「女性への暴力」として、加害者として男性のみを想定しているフェミニスト団体をよく見かけます。
しかし、ノンバイナリーであるわたしでも、性暴力やセクシュアルハラスメントを経験したことがありますし、もちろん男性であっても、それらの被害者になる事例は、いくつも存在しています。そして、女性が加害者となることもあるでしょう。
また「男女平等」というフレーズにも違和感を持ち始めました。
「男女平等」というのは、あくまで2つの性別を前提としており、ノンバイナリーは想定されていないように感じるからです。
すべてのフェミニズム系の場で、これらのフレーズが多発するわけではありませんが、なんとなく「自分のことを話されていない」感じを受けることが増えていきました。
「ジェンダーに基づく暴力」へ? フェミニズムの変化
近年、性別を男女しか想定しないことに対して、フェミニズムのなかでも批判的な声が上がり、「男女平等」のようなフレーズを見直す動きもでてきています。
たとえば「女性への暴力」ではなく「ジェンダーに基づく暴力(gender based violence)」という言い方も最近はよく聞きます。
「男性だったら誰でも性的なことをされてうれしいだろう」と思って、同意のないまま体をさわったりすることなども「ジェンダーに基づく暴力」と言えます。
トランスジェンダーの人に対して「性器はどうなっているのか?」などと問うのも、ジェンダーに基づいたハラスメントの例でしょう。
そして「女なの? 男なの?」といった問いかけや、トイレやお風呂で怪訝な視線に長らくさらされたり、からかわれたりといったノンバイナリーがノンバイナリーだからこそ経験しうる暴力も、この「ジェンダーに基づく暴力」は含めることができそうです。
このように、フェミニズムのなかでも、ノンバイナリーをはじめとした性的マイノリティなども想定していこうとする動きがあることを、わたし自身、なんとなく感じています。
ノンバイナリーなわたしが、だからこそフェミニストである理由
ここまでフェミニズムについて書きましたが、なんとなく「女性のためのもの」と思ってしまいがちなフェミニズム。ノンバイナリーなわたしがフェミニストである理由はどこにあるのでしょうか。
ノンバイナリーとフェミニストの共通の敵「ジェンダーロール」

フェミニズム論にわたしが疎外感をもちつつ、それでもフェミニストである大きな理由の1つが、フェミニズムの敵でもある「ジェンダーロール(性役割)」。
これは、ノンバイナリーなわたしの敵でもあるからです。
フェミニストの多くは「女性だから○○をすべき/すべきでない」「男性だから△△をすべき/すべきでない」といった、ジェンダーロールを批判します。
「女性だから男性の下につくべき」
「男性は女性を守らなければいけない」
といったジェンダーロールが、性差別と結びつき、女性が男性と比べて「劣っている」「か弱い」とされてきたことや、「男性は強くあれ」「男性は女性をけん引する立場だ」などと、それらがベースになって制度化されていることを問題視するのです。
ジェンダーロールに苦しめられてきたノンバイナリーとして
わたし自身、ノンバイナリーだからこそ、ジェンダーロールにがんじがらめになってしまった過去があります。
とくにわたしは、生まれたときに「女性」と割り当てられたので、ノンバイナリーを自認してから一時期、「いかに女性に見えないようにふるまうか」に心を砕いていました。
つまり「女性に見えないように」
・足を広げて座る
・わざと乱暴な言葉を使う
・できるだけ弱音を吐かない
など
世の中で「男性らしいとされていること」を実践しようとすることで、自分を「女性ではないものとして認識してもらおう」としてしまっていたのです。
しかし、それらの実践は、わたしが実際に表現したいことや、築きたい人との可能性をつぶしていきました。
たとえば、わたしはパートナーと悩みが言い合える関係でいたいのに、「弱音を言ったら女性っぽくなっちゃうかも」と思って言えなかったり。
今考えたらおかしなことですが、そのくらい「ジェンダーロール」にこだわってしまっていました。
ジェンダーロールが解体された先に
ジェンダーロールに自分をあてはめる必要はないんだ、と気づいてからは「女性らしさをなくそう」と試みることをできるだけやめました。
もし、フェミニズムが目標とするように、ジェンダーロールが強制されず、小さい頃から「女らしさ」「男らしさ」を教えられることがなかったら。
そうすれば、ノンバイナリーのわたしも、ジェンダーロールはあまり気にせず、自分のしたいことをして、それでも「わたしはノンバイナリーです」と胸を張って言えたかもしれません。
その意味でも、ジェンダーロールを問題視するフェミニズムに、いちノンバイナリーとして、やはり深い共感をおぼえるのです。
ノンバイナリー・フェミニストとして

わたしは、フェミニズムの授業やイベントに参加するとき、ノンバイナリーであることをわざわざ言わず、「女性側」の意見に賛同することもあります。
そういうとき、わたしは「“女性” のフェミニスト」に見えるでしょう。
でも、わたしの周りのノンバイナリーの友人たちが、1人残らずフェミニストであるように、フェミニズムのなかには、カミングアウトしていてもしていなくても多くのノンバイナリーが存在してきました。
女性であっても、男性であっても、ノンバイナリーであっても、ともに性差別に抗っていきたい。その先の解放をつかみたい。
フェミニズムはすべての人のためにあるのだから、と声を大にして言いたいです。
■参考情報
・日本被害者学会第35回学術大会 小西聖子「ジェンダーベイストバイオレンスと法改正―精神科医の視点から」レジュメ
・特定NPO法人 国連ウィメン日本協会 【解説】フェミニズムとは何でしょうか?
■NOISE関連記事
NOISE記事「ノンバイナリーでレズビアンって自己紹介していいの?」


