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Writer/あさか

クィアなわたしが、ヴィーガンでもある理由

昨今、世界的に人口が増えているヴィーガン。クィアコミュニティでも、ヴィーガンの人を見かけることが多いのではないでしょうか。わたしは、ここ1年ほどヴィーガン生活をしています。「すきな食べ物は?」と聞かれて「鶏の唐揚げ!」と答えていた頃から考えると、大きな変化です。そんなわたしがなぜヴィーガンになったのか。それには、わたしがクィアであることも大きく関係しています。

ヴィーガンとは?

そもそも、ヴィーガンとはなんでしょうか? ベジタリアンなどとも混同されがちなヴィーガンの定義をさらっと確認します。

ヴィーガンって何?

ヴィーガンとは、動物由来のものを食べたり買ったりすることを可能な限り避ける人たちのこと。

肉や魚を食べない人たちのことをベジタリアンと言いますが、ヴィーガンは、肉や魚に加え、卵や乳製品も食べません。

また、はちみつや、羊毛でできた衣類、動物実験が行われた化粧品や衛生用品など、動物を「使って」できている商品を消費することもできるだけ避けます。

なぜヴィーガンになるの?

ヴィーガンの定義を聞いて「そんな生活たいへんだよ・・・・・・」と思う人も多いでしょう。

わたし自身、ヴィーガンになる前は、ヴィーガン生活は自分には無理だと思っていました。
それほど、わたしたちの身の回りには、食べ物や衣類、道具をはじめ、動物由来のものであふれています。

しかし、なぜヴィーガンになる人がいるのでしょうか。

もちろん理由は人それぞれだとは思いますが、大きくわけて、ヴィーガンになる理由は3つだと言われています。

①環境のため
②健康のため
③動物のため

食肉をつくる畜産業は、水質汚濁や大気汚染、地球温暖化につながるとされています。気候変動や環境破壊に問題意識を持ち、アクティビズムをやっているわたしの友人も、その理由でヴィーガンになっていました。

植物由来、動物由来の偏りがどうなのかは諸説ありますが、ヴィーガン食は「栄養不足になりやすい」と言われがちで、敬遠されることが多いものの、実は肉や魚介類と比べて「健康である」との科学的研究も最近は多く見られます。

むしろ、肉や乳製品などの動物性食品を食べ続けることで、ガンや脳卒中、心筋梗塞などのリスクが高まるとの研究もあるそうです。

一方で、わたしがヴィーガンになった理由は、③の「動物のため」。

ヴィーガンが反対する「種差別」?

前でのように、ヴィーガンは、動物由来のものの消費を最小限にします。

そんなヴィーガンは、どのような考えをもとにしているのか。
1つの答えは、先ほどの③ともつながる「種差別反対」の立場です。

種差別とは、簡単に言うと

ほかの種と比べて人類が優位である、との考えに基づき、ほかの種に対して行われる暴力や搾取

のこと。

わたしがこの「種差別」という言葉に出会ったのは、ほんの2年ほど前。

たしかに言われてみれば、肉を食べるという行為は「種差別」と言えそうだと、ハッとしたのを覚えています。

人間にはすべきでないとされている「監禁」や「殺し」を、動物にはしたうえで、食肉が生産されているわけですから。

クィアなわたしがヴィーガンになった理由

「種差別」という言葉に出会い、動物由来のものを消費することの問題性に気づいた2年前。しかし、わたしはすぐにヴィーガンになったわけではありませんでした。

「あらゆる差別に反対する」クィアとして

わたしは小さい頃から、肉が大好物の人間でした。
「すきな食べ物は?」と聞かれて「鶏の唐揚げ!」と答えていたくらい。

そのため、動物性食品の消費が「種差別」だと知っても、なかなか肉を食べることはやめられないでいました。

しかし、わたしがヴィーガンになるきっかけの1つとなる出来事が起こりました。
それは、いちクィアとして「あらゆる差別に反対します」と自分で言い始めたこと。

この「あらゆる差別に反対します」というのは、デモや、クィアフレンドリーなイベントのグラウンドルール、さらにはクィア向けのマッチングアプリのプロフィール欄などでよく見かける文言です。

クィアコミュニティ内での差別も存在するなか、性差別だけでなく、トランスジェンダー差別や障害者差別、人種差別など「あらゆる差別」に反対の立場を表明することは、さまざまなクィアにとってセーファーな人であることや、そんな人であろうとすることを示す、大事な実践でもあります。

わたし自身、クィアとして差別を受け、怒ったり申し立てたりしてきた経験があるからこそ、自分はできる限り「あらゆる差別」に反対するクィアでありたいと思ってきました。

そのため「あらゆる差別に反対します」と言ったり書いたりしているクィアを、周りでよく見かけるようになったころ「自分もそう言いたい! 書きたい!」と感じるようになっていきました。

しかし、ためらいもありました。

というのは「あらゆる差別」にはもちろん「種差別」も含まれるはずなのに、わたしは動物の肉や革製品の消費を続けている「種差別者」でもあったからです。

「種差別にも反対する」クィアとしてヴィーガンに?

種差別に反対し、それを実践にうつすこと。
つまり、ヴィーガンになること。

「あらゆる差別に反対するクィアです」と言うなら、ヴィーガンになることが欠かせないことのように感じました。

その思いから、わたしは徐々に、動物性のものを食べたり買ったりすることをやめていきました。

最初の数週間は「やっぱり肉や魚が食べたい」と思う瞬間もありましたが、消費をやめていくにつれて、だんだんとそんな感覚もなくなっていきました。(実は今では、肉や魚、乳製品の匂いをかぐと時々気持ち悪くなってしまう、というくらい)

周りにヴィーガンのクィアが多かったことも「ヴィーガンへの移行」を楽にしてくれたと思います。

わたしのパートナーもヴィーガンですし、親友のクィアもヴィーガン。「種差別に反対する」という同じ考えを共有できるクィアたちに囲まれていることの安心感もありました。

クィアにはヴィーガンが多い?

わたしには、クィアでありヴィーガンである人が周りに多い印象があります。クィアにヴィーガンが多いとしたら、それはなぜなのでしょうか?

ハンガリーでヴィーガン・カフェに行って・・・

以前、ハンガリーに旅行したときのこと。

ヴィーガン・カフェに友人と入ると、そこにはクィアらしき人たちがたくさんいました。

レインボーフラッグをつけていたり、「同性」に見える人たち同士で親密そうにしていたり。

もちろんそれだけで「クィアだ」とわかるわけではありませんが、店内がなんとなくクィアフレンドリーに感じられたのです。

クィアなパートナーや友人たちがヴィーガンであったり
クィア・タウンには、ヴィーガン・カフェやレストランが多かったり
新宿2丁目でも、ヴィーガンのゲイたちのイベントが開催されていたり

なんとなく、クィアでありヴィーガンである人たちをよく見かける気がします。

クィアは政治的だから、ヴィーガンになりやすい?

クィアにヴィーガンが多い理由の1つは、先ほども書いた

「あらゆる差別に反対する」人や、そうしようと努力している、政治に意識的な人がクィアに多いからのように思います。

そもそも「クィア」というのも

侮蔑的な意味で同性愛者やトランスジェンダーに対して使われていた言葉である「クィア(変態・奇妙な)」を、当人たちが「わたしたちはクィアだよ! それが何か?

と開き直って使い始めた歴史があり、非常に政治的です。

政治的であり、差別や規範にアンテナが張っているクィアたちだからこそ「種差別」にも意識的になりやすいのかもしれません。

そして「クィアを差別するな!」と言いながら、種差別はする、という矛盾を問題視して、ヴィーガンになる人も多い気がします。

猫がすきなクィアとして、ヴィーガンになる?

ほかにも、わたし自身もヴィーガンになったきっかけの1つとして感じるし、周りでも時々聞くこととして「動物がすきだからヴィーガンになった」という話。

これも個人的な印象でしかありませんが、クィアには猫好きや犬好きが多いイメージ。

家族のなかで、カミングアウトができなかったり、暴力や差別を受けたりする可能性の高いクィアたちが、自分の生まれた「生育家族」では、居場所を見つけられない、となったとき。

パートナーや友人だけでなく、猫や犬などの動物をふくめた「家族」を自分たちで選び取り、家族と思えるような関係をつくっていく。そういう人生を歩むクィアが多いことも「クィアには猫好き・犬好きが多い」という印象を生み出している気もします。

そのように、家族として、悲しみや喜びを共有する相手として、大好きな犬や猫と暮らしながらも、動物に対する種差別を続けることに違和感を覚えるクィアもいるでしょう。

わたし自身、友人が一緒に暮らしている猫を、痛みや感情をともに経験しうる存在として考え、接し始めて以降、たとえば豚肉を見ると「この豚、痛かっただろうな」などと考えるようになりました。

猫好きであることが、わたしをヴィーガンにしたとも言えるかもしれません。

クィアであり、ヴィーガンであること

「肉を食べてはいけない」「革製品を買ってはいけない」などの禁止の側面が強調されがちなヴィーガン生活ですが、実際は、植物性食品を駆使して料理したり、いろんな食べ物からたんぱく質を取ろうとしたり、クリエイティブな実践でもあります。

すでにヴィーガン生活をおくってきた人たちが、おいしいヴィーガン・レシピを教えてくれたり、一緒にヴィーガンあるあるで盛り上がったりすることも。

何より、自分を「差別されるクィア」として考えるだけでなく

誰かを差別しうるクィアと気づきながら
でも、できるだけ知りうるほかの差別にも、できるだけ加担しないように日常的な実践を重ねていくクィア

として考え、行動しているクィアたちと出会えたことが、ヴィーガンになってよかったことだと感じます。

もちろん、種差別に反対してヴィーガンになったからといって「あらゆる差別に反対する」ことが達成されたわけではありません。

しかし、ヴィーガンになることは、きっとその第一歩であるし、楽しいことでもあるのだと、少しずついろいろな人たちに伝わっていけばうれしいです。

 

■参考情報
ZINE『青牛』boru//、黒川陽子 著(京都ユース団体AS-動物と倫理のメディア)

 

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