NOISE ライター投稿型 LGBT情報発信サイト
HOMEすべての記事 「何者でもいいじゃない」と言えた、アロマンティック・アセクシュアルの旅の終わり

Writer/佐藤恵美

「何者でもいいじゃない」と言えた、アロマンティック・アセクシュアルの旅の終わり

4月のある日、わたしは愛媛から東京に向かいました。誰もわたしを知らない街で、何者でもない自分になれる時間。とても心地よいものでした。

誰もわたしを知らない街で、背筋を伸ばして歩いてみた

ゴールデンウイーク前の満員電車と、せわしなく行き交う人々。東京の空気は、田舎で暮らすわたしにとって少し特別です。多様な人が溶け込むこの街では、自分が「何者であるか」なんてささいなことのように思えます。誰もわたしを知らない。だから普段より、背筋を伸ばして歩きたくなるのです。

ぎゅうぎゅうの満員電車がもたらした自由

先日、久しぶりに東京へ行きました。いつもお世話になっている、クライアントを訪問するためです。

羽田空港から目的の駅へ。想像以上の人の数です。リュックを抱えて、ぎゅうぎゅうに押し込まれた電車のなかは少し息苦しい気がしました。

ワイヤレスイヤホンをつけて目を閉じている若い男性、優先席になんとか座って、本を読んでいる80歳くらいのおじいさん、朝から疲れた顔でスマホを見つめる40代くらいの女性。いろんな人がいて、あたりまえですが、それぞれの時間を生きています。

わたしは普段、愛媛の小さな町で暮らしています。

田舎にいると、スーパーや病院、あるいは書店、ケーキ屋などで知り合いにバッタリ・・・・・・なんてことも。でも東京では、誰もわたしのことなんて見ていませんし、知りません。

そう。お互いを知らない。どこの学校で勉強して、どこの会社で働いて、誰と仲が良くて、誰を遠ざけているのか。まったく知らない。

ああ、なんて心地いいんだろう! ここでは、誰もわたしを縛らない。わたしも誰かを縛らない。東京はよく「冷たい街」なんて聞くけれど、そんなこと、全然ないじゃない。

1日目にして、わたしは久々の東京に舞い上がっていました。

属性という重荷を下ろして、足早に歩く

わたしたちは普段、生きていくなかでいろいろな「属性」を背負っています。仕事の肩書きだったり、家族のなかでの役割だったり。あるいは「自分がどんな人間で、どんな人を好きになるのか、ならないのか」を定義したセクシュアリティだったり。

でも、知らない街を歩くときはわたしが何者かなんて、本当にちっぽけなことのように思えてきます。

誰もわたしの肩書きなんて気にしていないし、わたしの恋愛観についてたずねる人もいません。ここでは、ただの一個人でいられる。

それがうれしくて、まるで「ずっと東京に住んでいますけど、何か?」とでも言うように、背筋を伸ばして、足早に歩いてみました。

すれ違う、名も知らぬ人たちのなかに自分が溶け込んでいく感覚。肩の力が抜けて、深く息を吸い込めたような気がしたのです。

地元と違って、ずっとずっと、空気が薄いような気がする、東京で。

同性婚の展示会に思う、アロマンティック・アセクシュアルなわたしの現在地とは

東京での心地よさを抱えたまま、わたしは帰路につきました。帰り道に待っていたのは、見知らぬ誰かの願いに触れる時間。ふらりと立ち寄った展示室で、わたしはあらためて「自分とは」を確認することになったのです。

羽田空港で見つけた、偶然の出会い

楽しかった東京の旅を終え、羽田空港の出発ロビーで帰りの飛行機を待っていたときのことです。

スマートフォンでInstagramを見ていると、タイムラインにある投稿が流れてきました。香川県三豊市で開催されている「私たちだって “いいふうふ” になりたい展 in 三豊2026」という、同性婚に関するイベントのお知らせです。

恋愛も結婚も興味のないわたし、いつもならスルーしたかもしれません。ですが、このときは「行かなきゃ、行きたい」と強く思いました。

会場は、空港から自宅までの道中。ノートパソコンやお土産が詰まったリュックは重くて、車移動とはいえ疲れを感じていましたが、それでも会場へと向かいました。

展示会場に着いたとき、そこには誰もいませんでした。蛍光灯の明かりに照らされた、静かな空間。数時間前までいた東京の喧騒が夢だったのかと思えるほどです。

わたしは東京で歩き疲れた足を少しずつ動かして、展示物に目を向けました。

アロマンティック・アセクシュアルな視点で見つめる、同性婚への願い

展示されていたのは、同性カップルたちの写真と、彼らが綴った言葉の数々でした。

苦難を乗り越えた話、楽しかった時の話、出会いを振り返る話。直筆で書かれた言葉は、見ず知らずの相手にも関わらず「確かに、ここにいるんだ」と思わせてくれます。

彼ら・彼女らは、お互いを大切に思っています。けれど、同性であるがゆえに法の壁にぶつかってきました。

きれいごとを言うつもりはありませんが、わたしは「好きな相手と結婚したいと思う気持ちに、性別ってそんなに重要なんだろうか」と考えています。けっこう昔、それこそ自分のセクシュアリティがわからないころから。

妊娠や出産を考えれば、それは男性と女性が一緒になるのが自然でしょう。けれど、今はパートナーと体を重ねなければ子どもを作れない時代ではありません。

もうずっと「男でも女でもどっちでもなくても、互いに『結婚したいな』って思うならすればいい。よく考えたら、同性婚ができないって変だよな」って、思っています。だって人が人を好きになるのに、異性でなければならない、なんて決まりはないのですから。

こんなことを考えているわたしは、他者に恋愛感情をもたないアロマンティックであり、他者に性的な欲求を抱かないアセクシュアルです。

50年の人生で、誰かと添いとげる道をリアルに考えられたことはありません。だから、展示されているカップルたちの「ふうふになりたい」という願いは、わたしの人生には生まれ得ないものです。(関連記事はこちらNOISE:アセクシュアルの結婚迷走記録

けれど、彼らを見つめるわたしのなかに冷めた気持ちはありませんでした。
「人と添う道を考えられないわたしと、彼らは違う。でも、この人たちも『自分は何者なの?』と、悩んだ夜があったのかもな」

そう思うと、なんだか自分が、人の気持ちを考えられる人間になった気がしました。

同じアロマンティック・アセクシュアルの当事者であっても、あるいは別のセクシュアリティをもつ人であっても、誰もが自分なりの答えを探している。探していた。探したいと思っている。

きっと、出口を見つけた人もそうでない人もいて、パートナーと幸せそうに笑うこの人たちもそうなんだろう。

わたしは彼らの温かな笑顔を、文字を、祈りを見つめ、同時に自分が今ここにいる意味を考えていました。

「こうであらねば」に別れを告げて、揺らぎのなかに身を浸す

数日後、わたしは再び香川に向かいました。当事者の方とお話するために。そこで「こうであらねば」にとらわれていた自分を振り返りました。

再訪と対話と

香川から愛媛の自宅に戻り、展示会の投稿をされていた方にInstagramから連絡しました。普段、引きこもりライターの名をほしいままにしている自分ではないみたいです。
東京でたくさんの人と会った勢いが残っていたのかもしれません。

お約束した当日、やや緊張しながら当事者の方とお話ししたときのことです。「セクシュアリティが変わってもいいと思うんです」という言葉をもらいました。

それはそうだ。グラデーションのなかに、わたしたちは存在している。とくにマイノリティであるわたしたちは、マジョリティの人よりも揺らぎを感じる場面が多いかもしれない。

LGBTQ+。なかでも「+」に属するわたしのようなタイプは、自分にラベル付けできるとかなり安心します。

わたしなら、アロマンティックやアセクシュアル。ジェンダーを加えるなら、心と体の性が一致しているシスジェンダーです。

自分のセクシュアリティ名に気がついて「自分はこんな人間です」と言えるようになったのは、たしかに大きい。でも、そこに固執すると少ししんどくなってしまう気がしていました。

セクシュアリティって、数学と違って公式も唯一の解もないから。

もし、自認するセクシュアリティとは異なる部分に気づいてしまったら?

そう考える心の余白が、きっと人には必要なのでしょう。

ラベルのなかにおさまらない、自由を享受してもいい

東京で、たくさんの人に会いました。見かけました。すれ違いました。

その多くは、パートナーのいる人たちだと思います。それが世界の常識で、なんらおかしなことはなく、自分もそうした大人たちに育てられたはず。それなのに、わたしはそれを自分ごととして捉えられません。

異性であれ同性であれ、彼らはみな、他者を愛する気持ちを持っています。性愛をはらむものもあれば、そうでないものもある。でも、わたしにはそれがない。あったとしても、きづけないくらい小さなものなんだろう。ずっとそう思っています。

本当は気づいていないだけで、ひょっとしたら淡く恋愛感情を抱くグレーロマンティック、深い信頼関係を築いた相手にのみ恋愛感情を抱くデミロマンティックなのかもしれません。(関連記事はこちらNOISE:そのセクシュアリティ、間違いない? アセクシュアルの意味を考えて戸惑った話

かつて、わたしを「その年齢でその幼さは異常だ」と罵った男性がいました。彼の顔も声も覚えていませんが、当時はその言葉に傷ついたものです。でも今は、他人がわたしを異常だと思ったって、別に構わない。

あのときだって、別に構わなくてよかった。恋愛感情や性的欲求がないからといって、わたしの心が欠損しているかというと、それはそれで違う気がするから。

「こうであらねば」にしがみつく必要なんて、どこにもないんです。きっと。

「何者になってもいい」と自分に許しを与える

東京では、いくつもの駅に降りて数えきれないほどの他人を見てきました。

独身、既婚者、同性のカップル。その誰もがわたしを知らないし、わたしも彼らを知りません。どんな家に住んで、どんな仕事をして、どんな価値観をもっているのか。どんなことに怒り、泣き、笑うのかも。

それでも、地球は回り、季節は巡る。だったら、無理に誰かの姿と自分を重ねて「周りの常識を受け入れなきゃ」なんて気張る必要はないですよね。そんなの、しんどいだけですから。

空港で、地下鉄で、見知らぬ街で。非日常に身を置いて思考の海に沈むのは楽しくて、また旅に出たくなります。

今、目の前を横切ったあの人はこれから家に帰るのかな。それとも、買い物に行くのかな。
電車で隣に座ったこの人は、学生さんかな。寝不足で講義を受けるのかも。
ああ、男性ふたりが手をつないでる。楽しそう、いいな、これから遊びに行くのかな。

こんなふうに人間観察してしまうのは、きっとわたし自身が「誰かと違う自分」を掘り起こしたいから。

どこが違って、どこが同じで、どこに重きを置いているのか。
女性であること、性愛わからないこと、恋愛感情がわかないこと、あるいは、マジョリティを演じるのをやめた自分を賞賛すること。

そのどれもが「自分」であると、認めること。

 

■参考情報
私たちだって “いいふうふ” になりたい展 in 三豊2026

■NOISE関連記事
アセクシュアルの結婚迷走記録
そのセクシュアリティ、間違いない? アセクシュアルの意味を考えて戸惑った話

 

RELATED

関連記事

ロゴ:LGBTER 関連記事

TOP