著名なアーティストが「自分はノンバイナリーだ」と表明して以来、LGBTQ+のひとつとしての「ノンバイナリー」は広く知られるようになった。ただ、世間一般の人と話していると、好意的なだけではない、複雑な意見に出会ってしまうことが今でもある。
ノンバイナリーへの憧れ。同じ「LGBTQ+」でまとめられない感覚の違い
「ノンバイナリーにうらやましさを感じていた」と書くと、怒られてしまうかもしれない。でもたしかに、10代の頃の私にはその感覚があった。
「女性らしさ」から逃げたくて、ノンバイナリーに憧れていた頃
「自分はレズビアンかもしれない」と気づきはじめた10代の頃から、私はどこかで、ノンバイナリーの人たちに憧れをおぼえていた。
恋愛感情や性愛感情の向かう先ではなく、自分自身のキャラクターの説明として「LGBTQ+であること」を表明できる。シンプルに、それがうらやましかったのだ。
私自身は、スカートをはくことが苦手というくらいで、特に生まれながらの性別には違和感をおぼえていなかった。
それでも、一般的な「女性としてのイメージ」を押しつけられることには抵抗があった。
女性だから、いつかは男性と交際して結婚するはず。
女性だから、できれば可愛らしくおしゃれな格好をするのが望ましい。
女性だから、身のまわりのことに気を遣って、丁寧な立ち居振る舞いをしたほうがいい。
そういった「世間一般のイメージ」に抗いたくて、すっぴんのジャージ姿で大学のキャンパスをうろついたり、髪を短く切ったり、あえてメンズの服を購入したりしていた。
ただ、それが「自分らしい」と思える行動だったかというと、そうではなかった。
「男性と交際(結婚)するために、可愛らしく身綺麗にする」という意味での「女性らしさ」から逃げたかっただけで、実際は好きな同性から魅力的だと思われたかったし、そのためのおしゃれをしてみたかった。
この葛藤が、だんだんと「ノンバイナリーへの憧れ」につながっていったのだと思う。
同じ「LGBTQ+」でも違いはある。ノンバイナリーに感じるうらやましさの正体
私のパートナーもレズビアンで、いわゆる「ボーイッシュ」なタイプだ。
メンズライクな服装と髪型を好み、どちらかといえば「カッコいい」と言われることにうれしさを感じる。
それでいて、パートナーは自分自身を「女性」だと認識している。
今ではほとんど葛藤はないけれど、自分の性別に悩みを抱えていた思春期の頃は「ノンバイナリーやトランスジェンダーの人に対して、複雑な感情があった」とパートナーは言う。
なんとなく、パートナーの言いたいことはわかる、と私も思う。
同じLGBTQ+といっても、私やパートナーのように「シスジェンダー(体の性と心の性が一致していること)の女性で、レズビアンである」という人は、自分のセクシュアリティを説明する際に、どうしても恋愛や性愛の感情についてふれることになる。
逆にいえば、恋愛や性愛感情の話を抜きにすると、自分は世間一般の(マジョリティの)人たちとあまり違いがないのではないか・・・・・・? と悩んでしまうこともあるのだ。
「自分は女性が好きだと思っているけど、恋愛感情なんて主観的なものだし、実は男性と恋愛や結婚をすることもできるのかもしれない」
「だとしたら、女性らしい格好をしたくないというのは、単に私個人の好みの問題で、LGBTQ+であることとは関係がないのかも?」
「自分の性別に違和感がないのに、女性らしいイメージから逃げたいと思うのはわがままなんだろうか・・・・・・」
このような葛藤から、男性と出会うための街コンに参加したり、周囲が勧める「女性らしいファッション」に挑戦したりした経験が私にもある。パートナーも同様だ。
だから、ノンバイナリーの人にうらやましさや軽い嫉妬を感じてしまうというのは、私にもパートナーにもおぼえのある感覚だったのだ。
ノンバイナリーは自由? それとも不自由?
かつての私がノンバイナリーの人に感じていた「性別にとらわれない自由さ」のようなものは、第三者による勝手な想像でしかないのかもしれない。そう気づいたのは、ある友人との出会いがきっかけだった。
ノンバイナリーの友人と出会って気づいた「ノンバイナリーならではの窮屈さ」

私にはノンバイナリーの友人がいる。仮にその友人をAとする。
Aは出会った頃、ピンクブラウンの髪を長く伸ばして、レースのブラウスやショートパンツを好んで着ていた。可愛らしいファッションがとても似合っていて、周囲も「Aさんの服、いつも素敵だね」と言っていた。
Aがノンバイナリーであることを知ったのは、出会ってしばらくしてからのことだった。
周囲の人たちは、AがLGBTQ+であることなど想像もしていなかった様子だった。また「ノンバイナリー」についての説明を聞いても、あまりピンときていない人が多いようにみえた。
Aは生まれついた性が女性で、可愛らしい服がもともと好きだった。
でも、自分がノンバイナリーであると気づいてから、それを周囲にわかりやすく伝えるため、あえて髪を短く切り、中性的なファッションを選んでいた時期があるという。
「でも途中で、それは自分らしくないって気づいたから、好きな服を着るようになったの」
Aは清々しい表情で語っていたけれど、きっと多くの人たちからは「可愛らしい格好が似合う女性」として扱われることが多いのだろうし、そのために窮屈な気持ちになることだってあるだろう。
カミングアウトした際の周囲の人たちの反応を思い返してみると、なんとなく想像がついた。
あえて「自分らしくない」中性的な格好をAが選んでいたのも、そうしなければ見た目から判断して「女性」として扱われてしまうからだ。
かつて、10代で悩みを抱えていた私は「ノンバイナリーの人は『自分は女性でも男性でもない』というはっきりしたアイデンティティがあって、うらやましい」「私もノンバイナリーだったら、女性らしい格好をしないための大義名分ができるのに」などと考えていた。
でも実は、ノンバイナリーとひとくちに言っても、さまざまな性自認の形がある。
ノンバイナリーとは、自分を「男性か、女性か」という枠組みにあてはめてとらえないセクシュアリティのことで、同じノンバイナリーの人でも「中性」「両性」あるいは「無性(アジェンダ―)」や「ジェンダー・フルイド(流動的な性)」など、さまざまな性自認があり得る。
多くの場合、ノンバイナリーとは別ものとして分けて語られることの多いトランスジェンダーとも、はっきりと分かれているわけではなく、グラデーションでゆるやかにつながっている。
以前の私は、なんとなく「中性的でニュートラルな存在の人たち」というイメージでノンバイナリーをとらえていたけれど、その認識がそもそも正確ではなかったのだ。
そしてきっと、そのうらやましさも見当違いで、ノンバイナリーにはノンバイナリーの不自由さ、窮屈さがあるはずなのだ。当時の私が気づいていなかっただけで。
漫画『ボールアンドチェイン』がリアルに描き出すノンバイナリーの葛藤
私が愛読している漫画のひとつに、南Q太『ボールアンドチェイン』がある。ノンバイナリーの漫画家による、ノンバイナリーが主人公の漫画だ。(関連記事はこちらNOISE:“性” に縛られたくない。漫画『ボールアンドチェイン』が描き出す窮屈な現実)
主人公である20代のけいと、そして50代のあやは、それぞれ見た目や性格は異なるけれど「女性なんだから」「妻(母親)なんだから」という価値観を周囲に押し付けられ、窮屈さを感じながら生きてきた。
「女性らしさを押しつけられるのに違和感がある」
「かといって、男性になりたいというわけではない」
ノンバイナリーというセクシュアリティを知らない、あるいは周囲に理解がないと、これらの葛藤がすべて「それはわがままだよ」「あなたの勝手な思い込みだよ」という強い声に押しつぶされていく。
漫画を通して、けいととあやの生き様を追うことで「ノンバイナリーとしての葛藤と窮屈さ」が胸に迫ってくるような感覚があった。
ノンバイナリーの人たちが自由に見えたのは、その葛藤や窮屈さを乗り越えてきたからこそなんだ。友人Aの清々しい笑顔が、あらためて脳裏に浮かぶ。
同じLGBTQ+であっても、そのことに気づけていなかった自分が恥ずかしくなった。
ノンバイナリーについての分断と、共通するテーマ
「ノンバイナリー」に対する率直な意見に出会って

以前読んだことのある本を、たまたま読み返す機会があった。
ブレイディみかこによるノンフィクション本『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』だ。
図書館の書棚で見かけて、そういえば昔読んでおもしろいと思ってたんだ、と記憶がよみがえり、続刊もあわせて借りた。
そうしたら、続刊である『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』のほうに、ノンバイナリーについてのエピソードが載っていたのだ。
著者の息子はイギリスの学校に通っていて、ノンバイナリーの教員が複数いる。彼らは自分の担当教科にかかわらず、自己紹介の際に「『第三の性』であるノンバイナリーについて」説明し、LGBTQ+の教育を同時に行うのだという。
著者はそのことを好意的にとらえていたけれど、エピソード内では、周囲の人の率直な考えについても描かれていた。
「ノンバイナリーの教員が、自分のセクシュアリティだけに重点を絞って教えているのには違和感がある」
「それよりも貧困問題など、ほかのトピックについて教える時間を増やしてほしい」
慈善活動に熱心な教員による正直なコメントは、単にノンバイナリーやLGBTQ+に対する理解がないというわけではないからこそ、より分断を感じてしまう。
私は読みながら、つい深く考え込んでしまった。
ノンバイナリーについてのテーマは、LGBTQ+にかぎらない?
ノンバイナリーにかぎらず、LGBTQ+についての問題は、ほかの問題と比較されて「生死に直結するわけじゃない」「もっと切実に悩んでいる人がいる」などと言われてしまうことがある。
私自身、LGBTQ+について発信を続けるなかで「あなたの個人的な悩みについて話されても困る」と言われたことがあった。
LGBTQ+の問題は、当事者としての実感がなければ深刻さが想像しにくいのかもしれない。
人生の重大な部分に、時には生死にもかかわってくる問題でもあると私は思うのだけれど、貧困問題など別のトピックと比較されてしまうと「私たちだって苦しんでいるんです」とは主張しづらいような気持ちになってしまう。
人は誰しもそれぞれの悩みを抱えているし、社会問題にアンテナを張っている人たちだって一枚岩になれるわけじゃない。それぞれの価値観があって、分断はどうしても生まれてしまう。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』では、ノンバイナリーについての章のおわりで、ノンバイナリーについての問題は「ジェンダーの話だけじゃない」と述べている。
複数の国や人種のルーツをもって生まれた人や、多数派の宗教を信仰していない人は「どこにも属していない」という感覚をおぼえる。それは、男性でも女性でもない「ノンバイナリー」という属性にある意味似ている。人種問題とLGBTQ+の問題という違いはあっても、共通するテーマといえるのではないか。
読みながら、目からウロコが落ちたような気がした。
LGBTQ+の問題について語ることは、ほかの問題をないがしろにすることじゃない。
むしろ、それぞれの問題に共通する「多様性の尊重」というテーマにたどりつくための、重要なヒントをお互いに与えあえるはずなのだ。
ノンバイナリーについて考えながら、LGBTQ+全体にかかわる気づきを得ることになった、貴重な読書体験だった。
「自分らしく、自由に生きる」ノンバイナリーの友人によるメッセージ

ノンバイナリーの友人Aは「可愛いものが好きなのは女性だからじゃないし、カッコいいものに惹かれるのは男性になりたいからじゃない」と語る。
「自分の体の性に疑問はないけれど、自分のことは女性とも男性ともとらえていないし、周囲にもそう理解してほしい」「私は自分らしく、自由に生きていきたいから」
友人Aの言葉は、友人A自身の願いと実感が込められたものだけれど、私自身もその言葉にかなり救われた。
私の好きなものや人間性は、私が女性だということに関係ない。
私は女性だけど、時には女性扱いされたくないという気持ちにだってなるし、可愛いものもカッコいいものも、両方好きでいていい。
そんなあたりまえのことを、友人Aの言葉で、あらためて自分に許すことができたのだ。
ノンバイナリーに対するかつての憧れは私の勝手な感情だったけど、でもやっぱり、ノンバイナリーである私の友人は最高に格好いい。
これは、ノンバイナリーだけにかぎった話じゃないし、LGBTQ+だけの話でもない。
「自分らしく、自由に生きていいんだよ」というメッセージは、あらゆる人に共通して届けられるべきものだから。
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■作品情報
漫画『ボールアンドチェイン』
作:南Q太
出版社:マガジンハウス
書籍『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』
著:ブレイディみかこ
出版社:新潮社


