アロマンティック・アセクシュアルの私が、かつて個人サイトで連載していた物語。高校生たちの日常を描くなかで、私は当たり前に恋愛要素を織り交ぜました。大人に抗い、手をたずさえて生きる子どもたち。未完の物語は、20年経った今もエンディングの形は見えません。
深夜の個人サイトで自分を救うために綴る
20代から30代のはじめにかけての約10年間、趣味の個人サイトで小説を書いていました。仕事が終わってから眠るまでの間の数時間キーボードを叩き、一心不乱に書き続けたあのころ、私はまだ「アロマンティック」や「アセクシュアル」「セクシュアリティ」という言葉さえ知らず、世のなかの ”ふつう” と戦っていたように思います。
自分の城で、誰にも邪魔されずに書き殴る日々
私が個人サイトを運営していた時代は、一瞬で言葉が拡散される現在のSNS時代とは違っていました。華やかであるようで、どこかひっそりとしていて、見知らぬ他人と細い糸でつながっているような、不思議な空気が流れていた気がします。
同じ趣味の人同士が互いのサイトにリンクを貼って、日記にコメントしたり作品の感想メールを送ったり。
私が物語を綴っていたのは、インターネットの片隅にある地味な個人サイト。誰の目も気にせずに、自分の「好き」を詰め込める自由な場所でした。
部屋の明かりを少し落として、パソコンの画面からもれる青白い光を浴びる真夜中。
家族が寝静まり、外には人っ子ひとりいません。世界から隔絶されたような感覚のなか、私は現実から少しだけ離れて物語の世界へもぐり込んでいました。
アロマンティック・アセクシュアルの避難先だった架空の物語
アロマンティックでアセクシュアル。小説を書いていたのは、この言葉を知るずっと前のことです。
周りは結婚&出産ラッシュで、職場の同僚とランチを食べるときもこの手の話題が頻繁に出ていました。
やりづらい。とってもやりづらい。
自分の価値観を伝えたら妙な顔をされるに違いない。そう思っていた私は、現実世界でとても息苦しい思いをしていました。
たとえば、取引先のあの人が好きだとか。
たとえば、彼氏とのコミュニケーションがうまくいかないとか。
体の相性が悪いとか。
他者への恋愛感情がないアロマンティック。性的欲求がもてないアセクシュアル。ふたつを備える私は、気の利いた言葉を口にするのに苦労していました。
適当なあいづちしか打てない自分が、ひどく未熟に思えていたんです。
そんな私が、自分の考えや価値観を叩きつけられる場所は、創り物の小説のなかだけでした。
社会で、何者かであることを求められる私たち。自分が周りと明らかに違う性質をもっていると自覚していた私にとって、小説を書いている時間は偽りのない自分をさらけ出せる時間だったのかもしれません。
薄暗い部屋で、キーボードを叩く音が小気味よく響く。そのリズムに合わせて、私の心がようやく深い呼吸をはじめられる。
そんな夜の静けさが、たまらなく好きでした。
未知の感情と、まだ見ぬ居場所を探しながら書く
その小説は、一気に書き上げたものではありません。不定期連載で少しずつ積み上げたものです。
小説を書いていると、しばしば面白い現象が起こります。
書きはじめる前準備として、登場人物をしっかり作り込むのですが、話が進むにつれて勝手に動き出すのです。名前、性別、年齢、身長や体重、特技や長所、短所、家族構成など、かなり細かく設定しているにも関わらず。
彼らは私が生み出したものでありながら、私とは違う価値観や夢を持つ、ひとりの人間へと育っていきました。
今日はこのシーンを書こうかな。
明日はスピンオフでも書いてみるか。
書き進めながら彼らの日常と私の日常が交差していくような感覚は、とても心地よいものでした。
私の書き方はちょっと変わっていて、書きたいシーンや山場のセリフ、ラストの一文が突然頭のなかに浮かびます。起承転結の「転」と「結」ですね。これを目的地として、「起」「承」をつないでいく感じ。
漠然とした「こんな話にしよう」って枠組みはあるものの、ストーリーはなかば勢いで書いていたため、けっこう脱線していました。
物語の中心にすえたのは、大人たちの振る舞いや、抗えない環境に翻弄される高校生。
彼らが傷つきながらも必死に居場所を守ろうとする姿を書いていると、なんだか自分の曖昧な立ち位置を掘り起こしていくような感覚がありました。
自分を偽らずにアロマンティック・アセクシュアルとして生きる道を模索する作業だったのだと、今になって強く感じます。
現実世界から小説の世界に身を投じているあいだ、私は彼らに生かされていたのかもしれません。
アロマンティックでアセクシュアルな私が、あえて恋愛を書こうとした理由
高校生を描く話なら、そこに恋があっても不思議ではない。むしろ、ないと不自然では? アロマンティック・アセクシュアルの当事者である私がどこまで書けるか、実はかなり不安でした・・・・・・なんて、これもいわゆるマジョリティ的な考えですね。
高校生が恋愛するの、不思議じゃないから。

物語の主役を高校生に設定したとき、当然のように「このキャラクターに片想いさせて、あのキャラクターは両想いになるように進めよう」など、恋愛の要素を組み込みました。
高校時代は、子どもから大人にぐっと近くなる繊細な時期。恋は避けて通れないエピソードだと、私もわかっていました。
現実の世界を見渡せば、放課後の教室や登下校の道すがら、誰かを想って一喜一憂する少年少女の姿はどこにでもあります。彼らの世界をリアルに、そして鮮やかに書くために、恋愛は欠かせないと思っていました。
正直言って、恋愛感情を持たない私にはけっこうな苦行だったと言わざるをえません。自分の高校時代、異性の友人はいましたが、彼らに対して友情以上の感情を抱いたことは一度もなかったからです。
わからないんです。友情を超えるおもいというものが。
せめて、ほのかな独占欲や嫉妬でもあったなら、あるいは鮮烈な恋の感情を書き尽くせていたのかもしれない。そう思うと、ひとりの物書きとして歯ぎしりしたくなる思いです。
とはいえ、自分のなかにない感情を想像しながらキーボードを叩く時間は、苦しさのなかにどこか実験的なおもしろさも感じられる時間でした。まるで、色も形もわからない宝物を探すためにダンジョンに挑むような。
アロマンティックやアセクシュアルだからこそ書けた、魂の共鳴
私は、他者への恋愛感情がわかないアロマンティックです。また、他者に性的な惹かれを感じないアセクシュアルでもあります。
こんなセクシュアリティの私が、物語のなかとはいえ恋を書く。豊かとはいえない想像力を働かせて。
書くなかで焦点があうと感じたのは、恋の表現にありがちな「胸の高鳴り」ではありませんでした。「魂の共鳴」とでもいうのでしょうか。人と人が惹かれ合うとき、そこにあるのは性的欲求やロマンチックな感情だけではないはずです。
孤独感の共有や、相手の存在を丸ごと肯定しようとするおもい。そういったものが、私の書く「恋」へ姿を変えていきました。
友人から恋人へ。幼馴染から相棒へ。敵対関係から親友へ。私が生み出した物語のなかで、登場人物たちはさまざまな関係性へと変化していきました。何人かは、実らぬ片想いに悩んだり裏切られて自暴自棄になったりも。
彼らの感情が不透明で「これって合ってるのかな?」と思いながら筆を進めていたのを、今も懐かしく思い出します。
アロマンティックでアセクシュアル。それでも、他者と深くつながれないわけではありません。ただ、関係性を築いていくルートが多くの人とは違うとでもいいましょうか。
だから、私は世間一般でいうところの恋とは違ったものを書いていたんでしょう。きっと、そうなんだと思います。だって、私には彼らのように瑞々しいおもいを感じたことなんてないんです。
大人に抗う子どもたちと世間に抗いたい私
私が書いていた小説の核は、大人たちに傷つけられながらも、必死に自分の足で立とうとする子どもたちの姿でした。未完のまま止まってしまった物語、今の私なら彼らをどう描くのか。そんな想像に胸をふくらませるときもあります。
現実で声をあげられない作者が、虐げられた子どもたちの抵抗を書く

私が連載していた小説のなかでは、登場する大人の何人かは妙に情けなく描かれています。子どもの尊厳を平気で踏みにじったり、自分の都合で彼らを縛り付けたりする、理不尽の権化のような。
そんな大人たちのもとで、生きていた子どもたち。彼らが選んだのは暴力による解決でもただ膝を抱えて耐えることでもなく、静かに手をたずさえて生き抜く道でした。
大人から見れば突拍子もないことでも、彼らにとっては精一杯の抵抗。この幼さとひたむきさは、私が一番書きたいものだったのだと思います。
私は執筆当時、社会の「恋愛・結婚するのが当たり前」という目に見えない圧力を感じていました。アロマンティックやアセクシュアルの概念を知らず、自分がただただ異常なのだとイライラしていたころです。
周囲は当たり前のように「恋人がいて当たり前」「家庭を築いて当たり前」など、しあわせとはかくあるべきだと押し付けてきます。けれど、そこにどうしても自分の居場所を見出せない。
私は、苛立ちや焦りが混じった感情をキャラクターたちに託して文章を書いていたのかもしれません。
「大人が決めたルールに従わなくても、私たちは私たちのやり方で幸せになれる」
小説のなかで、彼らはそれぞれのやり方で互いを癒し、労り、鼓舞します。高校生の彼らが大人に対しておこなった小さな抵抗。それは、世間の価値観と相容れない私の「自分を受け入れて生きたい」という願いを表していた気がします。
未完の物語に焦がれる理由
残念ながら、連載していた小説は未完となってしまいました。最後のページまで書き終えられなかったことは、今でも心残りです。
でも、最近になって思うんです。あの物語が未完で終わったのは、当時の私がまだ自分自身を救う術をもってなかったからじゃないか、と。
あのころの私は、小説のなかの子どもたちがどんな大人になるのかをしっかり決めていませんでした。これは「好きなシーンに向かって書く」という、私の書き方自体にも問題があるのですが。
もちろん、キャラクター設定の段階で「ゆくゆくはこんな仕事につく」みたいな構想はありました。彼らの性格や得意科目を決めていると、自然と大人になったときの姿も浮かんできます。
ですが、それはあくまでも職業だけで、大人になるまでにどんな障害を乗り越えてなにを得るのかまでは決めていませんでした。
「物語が進むにつれて、きっと勝手に彼らが道を決めていくんだろうな」なんて、他力本願な考えもあったので。こんないい加減な作者では、未完となるのもうなずけますよね。
当時はまだ、自分がアロマンティック・アセクシュアルであると理解できておらず「わたしって何者なんだろう」と考えることすらしていなかった気がします。
でも、セクシュアリティを自認し、あのころよりもずっと年齢を重ねたいまの私なら、違った物語を展開して彼らを未来に連れて行けるのかもしれない。よくそう考えています。
空白の未来は、これからゆっくり書けばいい

未完の小説は、20年経った今もまだ結末は真っ白なままです。でも、それでいいんだと今は思えます。あのころの私には、彼らを大人にして上げられるだけの筆力も経験もなかった。
ボロボロになった主人公たちが救われる手前で、物語は止まっています。ひとりの物書きとして恥を感じるところではありますが、当時どのような構想を練っていたのか、今は何となくしか思い出せません。
小説も、人生も、セクシュアリティとの向き合い方も、必ずしも完璧な終わりを迎える必要はないのかもしれない。たまに、そう考えます。
投げ出すわけではなく、ちょっと休憩だったり、長いお休みだったり。あるいは大きな方向転換だったり。そうした節目を何度か乗り越えた先に、自分なりの落としどころがあるんじゃないかって気がします。
自分が何者かを言葉にできなかった私が書いた、未完の小説。
自分が何者かを言葉にできるようになった私が、もしいま、あの小説を続けられるとしたらどうなるだろう。それを考えると、少しだけわくわくするんです。
きっと、恋愛も性愛もない、ただ子どもたちがわちゃわちゃしているだけの物語になる気がしますけど、ね。


