わたしはクワロマンティックを自認しています。「好き」と思う気持ちが、恋愛感情なのか友情なのか、その境界がはっきりわかりませんし、どちらかに無理に当てはめたいとも思っていません。わたしは今、人生をともに歩むパートナーがほしいと思っています。しかし、大きな壁にぶつかってしまいました。
クワロマンティックのわたしは「人として好き」でパートナーをつくれると思っていた
わたしが人生をともに歩むパートナーがほしい、と思うようになった理由については、以前お話ししました。(関連記事はこちらNOISE:クワロマンティックが「パートナー」を望むようになった理由)
「人として好き」同士ならパートナーになれる、と本気で思ってきたクワロマンティックのわたし
誰かとパートナーになるには、まず人として好き同士であることが前提だと思っています。クワロマンティックのわたしだって、人として好きじゃない人とはパートナーになりたくありません。
わたしには、人として好きな人がたくさんいます。そして、周りから人として好きだとそれなりに思われている気もします。
人として好きだと思ってくれていれば、パートナー候補にはなれるかもしれない。クワロマンティックでも、パートナーをつくる土俵には立てるのかもしれない。
お付き合いをして、そのうち家族というひとつのチームになる。力を合わせて、さまざまな壁を乗り越えていく。人間としての質や価値みたいなものが大事なはずだから、わたしでも大丈夫だと、そう信じていました。
個別のニーズが関係をつくるという考え
最近、納得できた考え方があります。それは、人はそれぞれ「求めているもの」が違うということです。
わたしはこれまで、誰にでも等しく、人として正しい人やいい人でいることに重きを置いていました。しかし目の前にいる人が、必ずしもそういうあり方を望んでいるとは限りません。
ほかにも、ある人にとっては「異性としての魅力」が重要かもしれないし、別の人にとっては「安心して対話できること」が大切かもしれない。
そう考えると、相手のニーズに応えられたら、もっともっと深い関係になれるのかもしれない、という気づきを得ました。
パートナーになるには “異性” という意識は必須なのか?
正直に言うと、わたしはこれまで、誰かのことを「女性(異性)として魅力的だな」という視点で見たことがありません。
「異性としての魅力」がなくたって

こんな自分が誰かを異性として見るなんて失礼なのではないか、とさえ思ってきました。
もしかしたら、相手が異性であることを無意識では感じているのかもしれませんが、少なくとも自覚としては「人として好き」が前提という結論でした。(関連記事はこちらNOISE:クワロマンティックだから? 私にはわからない「異性として見る・見られる」ということ)
逆に、わたし自身に男性としての魅力があるかと問われたら「ない」と答えます。かっこよさや爽やかさ、男らしさ。そんなものは自分にはないし、これまで考えてきたこともありませんでした。
わたしのなかでは、友達・親友の延長線上にパートナーがある、というイメージです。だから「男性としての魅力がなくたって、パートナーになれるでしょ」と思っていました。
異性として意識されないとパートナーにはなれない?
いざ「パートナーがほしい」と思うようになって、ひとつの現実にぶつかりました。
異性愛者が多数である世の中では、基本的に「異性として意識されること」が、パートナーになるための前提になっているか? ということです。
どれだけ人として魅力的でも、どれだけ話が合っても、どれだけ一緒にいて心地よくても、異性として見られていないと、相手との関係は知人・友人から先に進まないかもしれません。
恋愛関係に至るまでに「人として好きであること」と「異性として見られること」は、どのような順番で意識され、好意の中身はどのように構成されているのだろう。
そんなわたしは、ひとまず筋トレやダイエットをしてみたり、髪型や眉毛を整えたり、服装を見直してみたり、少しずつ行動を変え始めています。そうした見た目に気をつかっていった先に「異性として意識される」ことがあるのでしょうか。
何事も動くことで見えてくる世界があると思うので、とりあえず思いつくことをやって、前に進んでみています。
同じ異性愛者なのに、ズレを感じていた
わたしも異性愛者であり、そしてクワロマンティック

「異性として意識される」ことについて考えてみて、あらためて気づいたことがあります。
それは、クワロマンティックであるわたしも、異性愛者であることに変わりはない、ということです。
それなのに、なぜこんなにも引っかかりを感じるのか。振り返ってみると、わたしはこれまでずっと「みんなとどこかズレている」「好きの感覚が違うかもしれない」と感じてきました。
異性愛者という大きなカテゴリでは同じ空間にいるはずなのに、その中でズレを感じ続けてきたんです。
恋愛的指向のクワロマンティックとしてはマイノリティなのに、性的指向の異性愛者としてはマジョリティ。自分はマジョリティなのか、マイノリティなのか、どちらにも属しているようで、どちらにも属していないような、よくわからない感覚。
これはいったいどういう状態なんだろうと戸惑いを感じています。
「人として好き」を意識しすぎていたのかもしれない
わたしだけじゃなく、多くの人にとっても「人として好き」は、好意をもつ前提なんだろうな、と思います。ただ、これまた多くの人が、それを特段意識していないんじゃないか、とも思うんです。
そしてもうひとつ、パートナーを「異性として好き」という感覚も、強く意識することはあまりないんじゃないか、とも思います。だって、異性を好きになることがマジョリティであり、それは自然とされているから。
思えば、わたしも女性しか好きになったことがないです。
それは相手の性別を特に意識して好きになっているのではなく、交流するなかで自然とそういう想いが湧いています。
つまり、わたしがパートナー関係を望む相手に「人として好き」とか「異性として好き」とかを、意識して考えすぎていただけなのかもしれません。
もしかしたら多くの人にとっては「その人を好きになったら、たまたま異性だった」というくらいの感覚に近いのかもしれない、と思いました。
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