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Writer/酉野たまご

同じレズビアンでも生き方は違う? 語りあうことでわかった「自分自身を受け入れる方法」

レズビアンといえど、同じセクシュアリティの人と直接話をする機会は少ない。いつ自分がレズビアンであると気づいたのか、カミングアウトはどのようにしてきたか、恋愛事情は? 気になる「これまでの生き方」について、レズビアンの友人と振り返ってみることにした。

最初に「自分はレズビアンかもしれない」と気づいたきっかけ

数少ないレズビアン仲間である友人と、お互いの半生を振り返ってみた。同じレズビアンとはいえ、その生き方には共通点もあれば、違うところももちろんあった。

自分がレズビアンだと気がついたのは、子どもの頃?

「小さい頃から、つい目で追ってしまうのは女の子だった」

レズビアンの友人はそう語った。

海外ドラマシリーズ『Lの世界』を観たときにも、同じようなセリフを登場人物が口にしていて、私は「やっぱりそういう人もいるのか!」とひそかに驚いていた。

私自身、今でこそ自分のことを「レズビアンである」と思っているけれど、友人と違って、幼少期から女の子に恋愛感情を抱いていたわけではなかったのだ。

幼なじみの男の子を「○○様」と様付けで呼んでみたり、「好き!」と言って追いかけまわしたりするようなこともあったらしい。

今思えば、その男の子のことがものすごく好きだったという記憶はないのだけど、「女の子は男の子を好きになるものだ」という刷り込みがあったのかもしれない。

アニメ『美少女戦士セーラームーン』のように、憧れのヒーローを「タキシード仮面様!」と呼ぶようなことをしてみたかっただけのような気もする。

私は小学生くらいまでそんなふうに、ちょっとしたきっかけで「私はこの男の子のことが好きなのかもしれない」と妄想をふくらませるような子どもだった。

だから自分がレズビアンだとは夢にも思っていなかった。

一方、友人は同じように恋愛の妄想をすることはあっても、その相手は必ず女の子だったという。

ただ、子どもの頃の友人が、その思いを周囲に話すことは決してなかった。

幼心に、「男女の恋愛がふつうで、女の子ばかり好きになるのはおかしい」と考えていたからだ。

自認のタイミングは「レズビアンとしての生き方」を左右するのか?

私が自分のセクシュアリティに気づき始めたのは、まさに思春期ど真ん中の、中学生くらいの頃だった。

女性の先輩に強い憧れを抱いたり、後輩の女の子と「ずっと一緒にいたい」と思ったりするなかで、だんだん「自分っておかしいのかな」と感じるようになった。

当時、母親にも相談してみたが、「思春期によくある気の迷いで、今だけの感情だから」とばっさり切り捨てられ、そうなのか、と渋々自分を納得させていた。

そのせいか、私が自分をレズビアンであると受け入れられるようになったのは、高校卒業の年くらいだった。

友人と比べても、気がつくのはかなり遅かったかもしれない。

ただ、そのために「レズビアンとしての生き方」の命運が分かれたかといえば、そうでもない。

なぜなら、早くから自分のセクシュアリティに自覚的だった友人も、「レズビアンとしての自分」を許容できていたわけではなかったからだ。

恋愛の話が盛んだった中高生の頃、友人は女の子が好きなことを隠し、「ファッションセンスがいい」と感じていただけの男の先輩を「好きな人」として挙げていたという。

意識してか、無意識にかという違いはあるけれど、私も友人も「レズビアンであることは公にせず、周囲には異性を好きだと言う」という経験をもっていた。

レズビアンの生き方としては、ひとつの「あるある」ともいえる行動なのだろう。

性別に違和感をおぼえた10代―レズビアンの自分を受け入れるには

自分がレズビアンであると気づいた時期は違ったものの、友人と私の思春期には共通点もあった。それは「女の子扱い」に違和感をおぼえていたという点だ。

「女の子/女性」ではない存在に憧れた思春期

友人いわく、思春期の頃はずっと「男の子に生まれたかった」という思いがあったのだそうだ。

自分が男の子に生まれていたら、女の子とお付き合いできるかもしれない。
周囲から、「かっこいい」という目線で見てもらえるかもしれない。
メンズファッションを、より素敵に着こなせたかもしれない。

そう考えていた友人は、「でも、今振り返ると、本当に男性になりたかったわけじゃなかったんだろうね」と語った。

私は友人のその言葉に、強い共感をおぼえた。

私も、いわゆる「女の子らしい服装」に違和感を抱き、周囲から女の子扱いされるよりも「かっこいいと思われたい」と考えながら思春期を過ごしていたからだ。

レズビアンであれば皆、「中性的なかっこいい存在」に憧れるのか? と問われれば、そんなことはないと思う。

私も友人も、いわゆる「女性らしいファッション」を好むレズビアン女性に、これまで何度も出会ってきた。

ただ、世間一般の「女の子扱い/女性扱い」は、やはり「男女の性別の違い」がベースになっていて、私たちはその基準に当てはめられることにモヤモヤしていたのだ。

その後の生き方に影響を与える、思春期の「レズビアンいじり」

友人は、高校生の頃にはじめて同性とお付き合いしたのだという。
相手は同級生の女の子で、彼女は当初レズビアンではなかったそうなのだけど、友人からのアプローチを受けて、最終的に両想いとなった。

ただ、周囲には付き合っていることを隠し、「誰にも見られていない」と安心できる場所でしか、恋人らしいふるまいはできなかったそうだ。

同級生たちの「レズビアンって気持ち悪い」という差別意識や、「あいつってレズなんじゃない?」といういじりあいを目の当たりにすると、友人も、当時の恋人も、カミングアウトする勇気は出なかったのだ。

私も、レズビアンに対する偏見をひしひしと感じる学生時代を送ってきたので、その心境は容易に想像できた。

だからこそ余計に、友人は「男性に生まれたかった」という思いを強く抱いたのかもしれない。

結局、友人と当時の恋人は、周囲からの偏見や家族からのプレッシャー、「結婚できない」という制度上の問題に立ち向かうことができず、数年でお別れすることになってしまった。

思春期の頃に出会う差別意識は、ありのままの自分自身を受け入れることを阻むし、その後の生き方にも大いに影響を与えるのだ。

生き方に迷った20代―世間の価値観と、自分自身の変化

同じレズビアンでも全く異なる、大学生時代の生き方

私は高校卒業の年に「自分はレズビアンだ」と気づいて以来、基本的にはレズビアンであることを隠さずにいたいと思って生きてきた。

わざわざ恋愛の話をしたいと思えない人には話さなかったし、両親に対しては長い間黙っていたけれど、親しい人にはカミングアウトする機会も多かった。

ただ、友人のほうは、私とは異なる生き方を選んでいた。
大学生になってからも、周囲からの「レズビアンへの差別意識」に苦しんでいたからだ。

女子大であったことや、スポーツ系の学部であったことが関係しているのかは定かでないけれど、大学生では「きっとレズビアン仲間なのだろう」と感じる人が周囲に何人もいたのだという。

それでも、彼女たちは自分がレズビアンであるとは口にしなかったし、「レズビアンじゃないの?」と疑われれば強く否定していた。

友人も、レズビアンであることを理由に差別されることが怖くて、自分のセクシュアリティを隠す生き方を選んだ。

その話を聞いて、私は大学生時代の自分の生き方を振り返った。

もしかしたら私は、親しく交流する人が限られていて、基本的に一人で過ごすことを好む大学生だったからこそ、臆せずカミングアウトすることができていたのかもしれない。

女子大のスポーツ系学部、そしてスポーツ系の部活という一種の「小さな世界」で生きていた友人にとって、差別されるかどうかというのは死活問題だったのだろう。

当時の空気感を想像するだけで、私も胸が痛んだ。

レズビアンであることを受け入れるための、世間と自分自身の変化

社会人になってからは、私も友人も、それぞれに恋活を始めた。

「結婚」へのプレッシャーから、マッチングアプリや街コンなどで異性と会ってみては「やっぱり違う」と思い直し、あらためて同性のパートナーを探す・・・・・・という流れも共通していた。

(以前のNOISE記事「レズビアンの恋活事情―パートナーと出会うまでの経緯を聞いてみた」も参考にしてください)

「しっくりくるお相手にはなかなか出会えなかった」という点も、驚くほど似ていた。

レズビアンは、ふだん生活しているコミュニティで恋愛対象を探しづらい分、恋活に苦労することも多い。

ただ、恋活を続けるうち、友人はだんだん世間の価値観が変化してきているのを感じ始めたそうだ。

知人にカミングアウトしても、驚いたり同情したりせず、「そうなんだね」と軽やかに受け止めてくれる人が増えたこと。
同世代や年下だけでなく、年齢が上の世代の人でも、同じようなリアクションをしてくれる人が増えたのを実感したこと。
同性の相手と手をつないで歩いていても、街中で変な視線を感じないと気がついたこと。

あらゆる気づきが積み重なって、自然とレズビアンである自分を受け入れられる気持ちになったのだという。

私も、ここ10年ほどで、世間のレズビアンに対する視線はかなり変わったように思う。
最近では、自分がレズビアンであることはそれほど特別なことだとは感じない。

レズビアン関連の作品に触れたり、ごくまれに偏見を述べる人に出会ったりしたときに、「そういえば私はマイノリティだったんだ」と気がつくくらいだ。

友人は、恋活で出会ったパートナーとのデートの様子をSNSに投稿した際、「いいね」やコメントをくれる人の多さに救われているらしい。

「みんなに自分とパートナーの関係を認めてもらえていると思えてうれしいし、何より、自分で自分のことを認めてあげられるのがうれしい」

そう言って、友人は朗らかに笑った。

ふたりのレズビアンが「これまでの生き方」を振り返って

私と友人との出会いは、社会人になってからだった。

お互いの学生時代を知らなかったからこそ、今回「レズビアンとしてのこれまでの生き方」をふたりで振り返ってみて、その違いと共通点の両方に驚き、感慨深い思いでいっぱいになった。

ふたりとも、今では「レズビアンである自分」を受け入れている。

その道のりは穏やかなものではなかったけれど、似ているようで違うそれぞれの困難を乗り越え、今ここにいられることを思うと、互いにねぎらいの言葉をかけ合いたい気持ちになった。

この文章が、レズビアンとしての生き方に悩み、「他の人はどうなんだろう?」と思っている人への参考に、少しでもなっていればうれしい。

 

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