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Writer/酉野たまご

観客参加型演劇「わたしたちのからだが知っていること」を、LGBT当事者として振り返る

2022年、京都にて開催された「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」というイベントの中で、観客参加型の演劇「わたしたちのからだが知っていること」が上演された。私は当時、LGBT当事者として抱いたこの公演の感想を、誰にも話すことができずにいた。

観客参加型の演劇「わたしたちのからだが知っていること」の記憶

オーストラリアの演出家による演劇「わたしたちのからだが知っていること」

「チケットが余っているんだけど、代わりに行かない?」

そんな誘いを受けたのは、2022年の秋。

京都では毎年「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」というイベントが開催されており、演劇やダンスなどのパフォーミングアーツを鑑賞することができる。

その芸術祭で上演される作品のチケットを譲ってもらったのだ。

イベント自体に興味はあったものの、馴染みのない団体や海外のアーティストの作品を観ることにしり込みしてしまっていたため、自分でチケットを取ったことはなかった。

せっかくの機会だから観てみようと思い、譲られたチケットを握りしめて向かった演目。
それがサマラ・ハーシュというアーティストによる観客参加型演劇「わたしたちのからだが知っていること」だった。

オーストラリア出身の演出家、サマラ・ハーシュは、「地域社会における世代間の対話」をテーマに作品づくりに取り組んでいる。

この年の「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」では、ほぼオンラインで完結する創作スタイルにチャレンジし、関西での作品上演を実現したのだという。

鑑賞前に思い返した、10代のLGBT当事者だった頃の記憶

自分でチケットを取ったわけではなかったので、観劇時点ではサマラ・ハーシュ氏のことも、「わたしたちのからだが知っていること」という演劇のねらいについても、何も知らなかった。

ただ、鑑賞する前にアンケートに答えるよう案内があり、「10代の頃の思い出の曲」について回答したことを覚えている。

私は音楽をあまり積極的に聴かない学生時代を過ごしたので、とっさに思い浮かばず、しばらく考えを巡らせた。

10代は私にとって、「自分がLGBT当事者であること」に気がついた年代であり、多くの同世代と同じような恋愛体験をもてない自分に悩み、葛藤した時期だった。

そのことを思い出し、また初めて同性への恋心を自覚したときに繰り返し聴いていた曲のことも思い出して、アンケートには加藤ミリヤ「Lonely Hearts」と回答した。

若い女性同士の恋愛感情を描いたMVが印象的で、LGBT当事者として生きることの息苦しさを歌詞に重ね、せつない気持ちで何度も聴いていた曲だった。

そして、アンケートの効果もあってか、10代の頃のモヤモヤとした感情やままならなかった現実を思い返し、半ばしんみりとした気持ちで、演劇「わたしたちのからだが知っていること」の会場へ向かった。

演劇「わたしたちのからだが知っていること」が描きだす「LGBT」というテーマ

観劇から数年経ってしまっているので記憶があいまいだけれど、覚えているかぎりで演劇「わたしたちのからだが知っていること」の内容について書いていく。

10代の出演者と電話越しに対話―演劇「わたしたちのからだが知っていること」のねらいとは

会場は広いホールで、集まった観客は年代も性別もさまざま。
円形に並べられた椅子に着席した私たちに、専用のスマートフォンが配られる。
そして、次々にスマートフォンが鳴り、観客はそれぞれの端末で通話を始める。

観客参加型演劇である「わたしたちのからだが知っていること」は、出演者が会場に現れないという特殊なスタイルの作品だ。

観客に配られた専用スマートフォンの向こうに、出演者は存在する。

この演劇は、公募で集まった10代の出演者たちが、自宅から会場へ電話をつなぎ、観客と対話することで作り上げられるのだ。

慣れない形式に戸惑いつつも待機していると、私のスマートフォンも鳴りだした。

電話に出ると、通話相手は高校生くらいの子。
演劇部に所属していて、部活のことで悩みを抱えているのだという。

会ったことのない人と通話をする気恥ずかしさもあったけれど、自分にもおぼえがある「部活動の悩み」を話してくれる通話相手に親近感を抱き、私は自然とアドバイスのようなものを口にしていた。

おそらく、あのとき会場にいた他の観客たちも、私と同じように10代の出演者たちの悩みを聞き、励ましたり、共感したり、助言したりしていたのだろう。

この「世代間の対話」こそが、演劇「わたしたちのからだが知っていること」のねらいなのだった。

通話相手が語った「LGBT当事者の友人」についての悩み

次の電話相手は、こちらも高校生くらいの子で、友人関係についての悩みがあるとのことだった。

先ほどの電話で少し勝手がわかってきていた私は、観客として「10代の出演者と話す大人の役」をまっとうしようと、親身に話を聞く体勢に入った。

通話相手の彼が語ったのは、「友人から『自分はLGBT当事者だ』とカミングアウトされた」という内容だった。

一瞬、私は言葉につまった。

その人は、「カミングアウトされて、どういうふうにリアクションすればいいかわからなかった」「友人を傷つけたくないけど、自分にはLGBTのことはあまりわからないし、今後どう接していいかもわからない」といった内容を話してくれた。

話を聞きながら、私は自分自身の高校生時代の記憶と、当時カミングアウトした友人たちのことを思い出して、その記憶のもつ力に飲み込まれそうになっていた。

出演者の彼はきっと、この作品に参加するにあたって、自分の実体験をもとに素直な気持ちを語ってくれたのだと思う。

実際、演劇「わたしたちのからだが知っていること」の出演者募集の要項には、「身体」「性、ジェンダー」「他人と自分の境界線」などのトピックについて観客と話し合う、という内容が示されていた。

演劇「わたしたちのからだが知っていること」は、LGBTを含む「性、ジェンダー」もテーマに内包する作品だったのだ。

「LGBT当事者のカミングアウト」がもつ周囲への影響力

私は出演者の彼の電話越しの言葉が「本物であること」に、かなり打ちのめされてしまった。

私自身、これまで多くの友人・知人に「自分はLGBT当事者だ」とカミングアウトしてきた。

驚く人、嫌悪感を示す人、戸惑いを隠せない人、なぜか謝ってくる人・・・・・・その反応はさまざまで、特に10代の頃は、好意的なリアクションをしてくれる人は少なかったように思う。

ただ、もしかしたらカミングアウトをする際、私はずっと自分のことしか考えていなかったのかもしれない、と気がついた。

出演者の彼のように、「カミングアウトをされたけど、どうリアクションすればいいかわからない」という悩みを抱える人がいることを、想像できていなかった。

彼にLGBT当事者であることをカミングアウトした友人は、彼になら話してもいいという信頼があったのだろう。
あるいは、仲が良い彼に隠しごとをするのが苦しかったか、誰でもいいから聞いてほしかったのか、何の気なしの軽い気持ちだったのか・・・・・・。

いずれにしても、きっと10代の頃の私と同じように、自分の悩みに精一杯で、カミングアウトされたことで友人が悩んでしまうとは、思ってもみなかったのだろう。

通話相手の率直な言葉と、LGBT当事者である彼の友人に思いを馳せ、胸にずしんと重い荷物を負ったような気持ちで、私は会場に立ち尽くしていた。

LGBT当事者が「作品の題材になること」へのモヤモヤを抱えて

演劇「わたしたちのからだが知っていること」の独特な構成

観客と出演者が電話越しに話していたのは、悩み相談についてだけではなかった。出演者が口頭だけでヒントを伝え、観客が会場内を歩き回って「宝探し」をしたのだ。

見つけたのはちょっとしたお菓子やドリンク、そして大人が寝転がることができるほど巨大な、ピザの形のクッション。

観客たちが電話で話しながら会場をうろうろ歩き、お菓子の入った袋や巨大なピザを抱えて戻ってくる様子は、自分もふくめてとても滑稽に思え、つい笑みがこぼれた。

最終的に、巨大なピザを中央に集め、簡易的なテントを設置して、海外ドラマなどで目にする「パジャマパーティー」の空間ができあがった。

20代以上の世代の大人たちが、10代の出演者との対話によって当時の記憶を思い出し、ティーンエイジャーが集まっておしゃべりをするようなリラックスできる空間を作り上げる。

演劇「わたしたちのからだが知っていること」の全体の構成がようやく見えてきて、私は感心すると同時に、なんともいえないモヤモヤとした感覚をおぼえた。

LGBT当事者として「作品に組み込まれたくない」という思い

私があのとき感じたモヤモヤを言語化するとしたら、「LGBT当事者としての自分が、いともあっさり作品の題材に組み込まれてしまうこと」への違和感だった。

友人がLGBT当事者であるという悩みを語ってくれた出演者との通話で、私は強いショックを感じたし、自分が10代の頃に感じていた息苦しさをはっきりと思い出した。

でも、作品の進行上、私も通話相手の彼も、そこで話をやめるわけにはいかない。

「私もLGBT当事者だから、あなたの友人の気持ちがわかる」
「私だったら、カミングアウトをしても変わらずに仲良くしてくれて、LGBT当事者であることは大した問題じゃないと思わせてくれたら嬉しい」

電話越しに、精一杯の思いでそう伝えると、通話相手の彼は少し驚いたようだった。

出演者の彼の友人がLGBT当事者であるとカミングアウトをしたこと、彼がそのことで感じた悩み、その話を聞いて私が抱いた息苦しい思い・・・・・・。

すべて無視できない、とても重要なことであるはずなのに、約1時間45分という上演時間の中で、それらはひとつの「題材」として扱われ、既定の時間になったら電話はあっけなく切られる。

作品の構成自体はとてもおもしろかったけれど、私は「自分がLGBTであることを、こんなふうに手軽に作品に組み込まれるのは違う気がする」とも感じてしまったのだ。

パフォーマンスの終盤、10代の出演者たちのオンライン通話画面がプロジェクターで投影された。

「それでは、テントの中でリラックスして、ゆっくり思い出を振り返ってください!」というような言葉のあと、スピーカーから音楽が流れ始めた。

観劇前に集められたアンケートの回答から、観客たちの「10代の頃の思い出の曲」を順番に流すという演出だった。

そう気づいた瞬間、私はどこかほろ苦い気持ちになった。

今まさに、10代の頃の葛藤や息苦しさを生々しく思い出したところだったのに、この演劇の中で、私は「10代の出演者たちとは世代の異なる、大人の観客たち」のひとりとしてこの場に存在している。

あの頃の感情が解決されたわけではないのに、ただ時間だけが過ぎて、私はいつのまにか大人になってしまった。

その事実があまりにも苦く感じられて。

でも、この気持ちに共感してくれる人がいるのかがわからず、結局誰にも感想を話せないままだった。

ただ、「LGBT当事者としての自分が、いともあっさり作品の題材に組み込まれてしまうこと」への違和感は、思い返すとLGBT関連の問題というより、観客参加型公演という構造への課題だなと、いまは思う。

演劇「わたしたちのからだが知っていること」をLGBT当事者として振り返って

数年後の今振り返ってみても、演劇「わたしたちのからだが知っていること」の作品としてのおもしろさ、着眼点の鋭さは新鮮に感じられるし、貴重な観劇体験をしたと思う。

LGBT当事者として作品に組み込まれることへのモヤモヤはあったけど、それを今回、数年越しに言語化できたことで、当時感じた重苦しい気持ちをいくらか昇華できたようにも思う。

演劇だけでなく、創作物に触れていてふいに「LGBT」というテーマに遭遇することは多々ある。今後もたくさんあるだろう。

そのとき自分が何を感じるのか、どのような表現に引っ掛かりを感じ、どのような意図に共感をおぼえるのか、毎回注意深く見極めて、言語化して伝えていきたいと思う。

LGBT当事者と周囲の人との間の隔たりを、少しずつでも埋めていくために。

 

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