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Writer/酉野たまご

映画『ザ・ホエール』の主人公はなぜゲイとして描かれたのか?

『ザ・ホエール』という映画がある。同名の舞台演劇を原作として、2022年にアメリカで公開された作品で、2023年に日本でも上映されている。重度の肥満体である主人公の姿が印象的な映画だが、この主人公は作品内で ”ゲイ” として描かれている。

ワンシチュエーションで男の人生を浮き彫りにする映画『ザ・ホエール』

映画『ザ・ホエール』を観て抱いた、小さな違和感

映画『ザ・ホエール』は、俳優ブレンダン・フレイザーが特殊メイクで重度の肥満体の主人公を演じ、数々の賞を受賞した作品である。

予告編の映像だけでも、主人公がうす暗い家に閉じこもり、自力で歩くこともままならず、涙ながらに自分の人生を悔いる様子は非常に印象的だ。

私は昨年、ある本を読んでいた際に映画『ザ・ホエール』の存在を知り、予告編の短い映像に心をつかまれたことがきっかけで、本編を視聴した。

一人の男の人生を、派手な演出やドラマティックなストーリー展開を抑えて、じっくりとワンシチュエーションで描きだしたこの作品は、予告編から期待していた以上にすばらしい映画だと思えた。

ただひとつ、映画を観る中でどうしても気になってしまったことがあった。

映画『ザ・ホエール』に登場する主人公・チャーリーは、ゲイの人物として描かれていたのだ。

冒頭の数分で「主人公がゲイである」と判明する演出

おおまかなストーリーでいえば、チャーリーの自宅を新興宗教の宣教師が訪問するところからこの映画は始まる。

家のドアを開けた宣教師は、突然の発作に苦しむチャーリーのかたわらで、ゲイ向けのアダルト映像が再生されているのを目撃し、困惑する。

この時点で、観客はチャーリーがゲイであると察することができるのだが、私はちょっと引っ掛かりをおぼえてしまった。「この演出は本当に必要だったのだろうか?」と。

映画『ザ・ホエール』の主人公・チャーリーは、病的な肥満体のために外を出歩くことも叶わず、他人にはめったに姿を見せない。
いつもデリバリーを頼んでいるピザの配達員にも、料金を郵便受けから持って行くように指示して、直接顔を合わせないようにしている。

病気で家に引きこもり、親しい人との交流も最低限であるチャーリーは、冒頭からかなり悲劇的な人物として描かれているのだ。

そのうえで、初対面の人間(宣教師)に自分の姿を目撃されてしまい、同時にゲイであることも知られてしまうという展開は、少々やりすぎに思えた。

「チャーリーがゲイである」という設定を、悲劇の演出のひとつとして利用しているのではないか? と、私は感じてしまったのだ。

冒頭の数分で抱いたこの違和感を紐解いていくため、私はもう一度あらためて映画の内容を確認していくことにした。

映画『ザ・ホエール』の主人公はなぜゲイとして描かれたのか?

そもそも、映画『ザ・ホエール』の主人公はなぜゲイという設定で描かれたのだろうか?

私が考える、映画『ザ・ホエール』がゲイを描いた3つの理由

愛する人を亡くした哀しみから極度の肥満症となってしまい、生きる気力も失った主人公の悲劇的な人生の最期を描く・・・・・・というだけであれば、主人公がゲイであるという設定は必要ないようにも思える。

私がこの映画をあらためて観て考えた、「主人公がゲイである理由」は3つ。

まず、映画『ザ・ホエール』の中で重要なモチーフとなっている、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』がゲイ文学として読むことができる作品であるため。

次に、ゲイであることから家族や信仰している教会に糾弾されたチャーリーの恋人が、自死を選んでしまったという経緯を描くため。

そして、「チャーリーが当時の妻や娘と別れてまで、新しい恋人と共に生きる人生を選んだこと」に必然性をもたせるため。

これらの要素を成立させるためには、たしかに、主人公のチャーリーをゲイとして描く必要があると思える。

なぜ私は映画『ザ・ホエール』に引っ掛かりをおぼえたのか

主人公がゲイである理由を3つ考えてみたものの、私自身、必ずしも「フィクションの登場人物がゲイ(LGBT)であること」に必然性が要るとは考えていない。

映画『ザ・ホエール』の舞台演劇である原作と映画の脚本を務めるサミュエル・D・ハンターが、自身のセクシュアリティと同じ「ゲイ」の主人公を描いたのだ、と言ってしまえば、それ以上の理由は必要ないのかもしれない。

ではなぜ、私はここまで「主人公がゲイであるという設定」に引っ掛かりをおぼえたのか。

それは、あまりにも主人公が自分本位で、他者からの愛情に鈍感な人物として、そしてあまりにも「悲劇の主人公」として描かれているように感じてしまったから。

たとえば、私自身はレズビアンで、レズビアンの人物が登場する作品によく触れるけれど、作品内でレズビアンの登場人物が「あまりにも自分本位で、悲劇的な人物として」描かれていたら、やはり私は同じようにモヤモヤを感じたと思う。

ゲイの人物を描いた映画は、悲劇的な作品が多過ぎる

これまで私は、ゲイやレズビアンを描いた映画をいくつも観てきたけれど、そのうち大多数を占める作品が、悲劇的なストーリー展開を迎えている。

映画に登場するゲイの人物に、自死を選んでほしくない理由

個人的な好みとしては、喜劇よりも悲劇のほうが好きで、シリアスな展開の作品も好きなのだけど、これほどまでにゲイやレズビアンが辛い目に遭う映画が多いと、ちょっと辟易してしまうところはある。

そして、私が特に気になってしまうのは、自分のセクシュアリティを苦にして自死を選んでしまう登場人物の多さと、セクシュアリティに悩んだ末に不倫をしてしまう登場人物の多さだ。

映画を観ていて、ゲイやレズビアン、そのほかのセクシュアルマイノリティの人物が出てくると、私は願わずにはいられない。どうか死なないでほしい、と。

LGBT=悲劇の人物、自死を選ぶことが多い存在というふうにカテゴライズされてしまう世の中であってほしくないのだ。

映画『ザ・ホエール』の主人公・チャーリーの「不倫」という罪

映画『ザ・ホエール』では、主人公・チャーリーが結婚した経緯や、離婚に至った詳しい経緯は語られていない。

ただ、チャーリーは結婚して娘をもうけた後にアランという青年と出会い、妻と離婚してアランと共に生きることを選んだ。この事実に変わりはない。

ゲイであるチャーリーが結婚生活においてどのような思いを抱いていたか、アランと出会ったことでどんな心境の変化があったのか、私にはわからない。

それでも、チャーリーの妻や娘の立場からすれば、「チャーリーは私たちを捨てて、アランという男を選んだのだ」「チャーリーは、私たちのことをそこまで愛してくれていなかったのだ」と感じてしまうだろう。

別れた後にチャーリーが何を思い、どんな行動をとったとしても、妻と娘の受けた心の傷は変わらない。浮気、不倫という行為はそれほど重みのあるものだと思う。

だからこそ、映画『ザ・ホエール』でチャーリーが悲劇的に描かれれば描かれるほど、私は葛藤した。

チャーリーの物語に目を向けたい一方で、どうしても妻や娘のほうに感情移入してしまうのだ。

チャーリーをゲイとして描くのであれば、せめて「不倫相手と暮らすために、妻と離婚する」という展開はどうにか変えられなかったのだろうか、と勝手ながら思ってしまう。

映画『ザ・ホエール』から、ゲイ映画としてのテーマを読み取るとしたら

ここまで、映画『ザ・ホエール』の主人公の描き方について「私がなぜ引っ掛かりをおぼえたか」を紐解いてきた。ただ、そんな私にとっても、映画『ザ・ホエール』は示唆に富んだ名作で、人生について考えさせられる作品であったことは事実だ。

ゲイカルチャーの観点で読み解く映画『ザ・ホエール』のテーマ

では、あらためて映画『ザ・ホエール』をゲイカルチャーの観点で読み解くとしたら、どのようなテーマを読み取ることができるだろうか。

私は、この映画の大きなテーマのひとつは「逃避」であると感じた。

主人公・チャーリーが肥満症になった理由は明らかではないけれど、恋人を亡くした哀しみから過食症になったのだとすれば、それは「食」への逃避だ。

さらに、チャーリーは他人に姿を見せず、引きこもることで「社会」から逃避し、積極的に医療行為を受けようとしないことで「生き続けること」からも逃避しようとしている。

チャーリーの恋人であった青年・アランが選んだのは「死」への逃避、宣教師が選んだのは「宗教」への逃避。

チャーリーの妻は、不良行為に走る娘から目をそらすことで現実逃避し、チャーリーの娘は乱暴な言動で自分を守ることで父親の愛への渇望を押し隠し、自分の素直な気持ちから逃避している。

しかし、チャーリーが最後にひとつだけ、逃げずに向き合おうとしたのは、自分の娘の将来のことだった。

映画ではほんの一瞬、さりげなくしか描かれていないが、チャーリーの娘が「レズビアンかもしれない」と感じさせる描写がある。

チャーリーはきっと、ゲイであるために多くの現実から目を背け、逃げ続けることしかできなかった自分の人生を振り返ったはすだ。

娘には同じような苦しみを味わってほしくないという思いがあったのだろう。

映画『ザ・ホエール』から読み取れる、ゲイの人びとへのメッセージ

ゲイ、そして多くのセクシュアルマイノリティの人たちにとって、未だこの世の中は「完璧に寛容である」とは言い難い。

自分のセクシュアリティと向き合うことすら難しかったり、誰にも悩みを打ち明けられず、殻に閉じこもったり、現実逃避してしまったりすることは、私を含め、多くの人が通らざるをえない道だ。

だからこそ、チャーリーが自分の娘に、何の根拠もなく、無条件に「君はすばらしい」と声をかける場面は、悩みを抱えた10代やゲイの人びとへの、映画『ザ・ホエール』からの最大の贈り物だと思えた。

社会的に、あるいは宗教的に、正しい行いができなかったとしても、自分で自分を受け入れられなかったとしても、「君はすばらしい」のだとチャーリーは娘に語りかける。

証拠などなくてもいい、私は君がすばらしいことを知っている、君は大丈夫だ、立派に生きていける、と。

それは、チャーリー自身がずっと求めていた言葉であり、同じような苦悩を抱える私たちにとっても、生きる道を示してくれる光のような言葉だ。

この言葉にもう一度出会いたいがために、私は何年後かに再び映画『ザ・ホエール』を観る予感がある。

そのときには、主人公の描かれ方やこの映画のテーマについても、また違った感じ方をするのかもしれない。

 

■作品情報
『ザ・ホエール』
・監督:ダーレン・アロノフスキー
・脚本:サム・D・ハンター
・出演:ブレンダン・フレイザーほか
・配給:A24(アメリカ)、キノフィルムズ(日本)

 

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