前回のNOISE記事『ノンバイナリー当事者が、戸籍上の性別を記載しないよう申し立てを。世間に理解されないノンバイナリー』で、ノンバイナリーがいかに社会的に受け入れられていないかについて紹介しました。しかしごく一部ながら、ノンバイナリーの性別違和について興味を持ってくれている人もいることが分かりました。今回は、鈴木信平さんの著書『男であれず、女になれない』(小学館)を引用しつつ、ノンバイナリー当事者である自分の抱える性別違和について改めて振り返ります。
ノンバイナリー当事者は、自分の性別違和を他者に分かってもらえるとは思っていない
これまで多くのノンバイナリー当事者から、数々の諦めの言葉を耳にしてきました。
ノンバイナリーは空想の性別? 構ってちゃん?
ノンバイナリーの性別違和について語る前に、始めにお伝えしておきたいことが2つあります。
第一に、今回引用する『男であれず、女になれない』の著者・鈴木信平さんは、ご自身をノンバイナリーとカテゴライズしていません。ですが、著書を読み進めると多くの部分で共感できるので、著書のお力をお借りします。
第二に、私を含めた多くのノンバイナリー当事者は、そもそも自分の性別違和について他者に共感、理解してもらいたいと思っていないだろう、ということです。
鈴木さんも次のように述べています。
あなたが想像力を手放した時点で、この話は終わります。(中略)
これから私は、ほとんど多くの人にとっての納得や理解から、
もちろん共感などからは遠く離れた話をするのです。
分からないで良いのです。簡単に分かることではないという事実を
一番知っているのは、他ならぬ私自身ですから。
前回の記事で取り上げた、戸籍上の性別を記載しないよう申し立てたニュースに対して「この申し立てを受理すれば、空想の生物を認めることになる」というコメントをSNSで見かけました。
『男であれず、女になれない』に対するレビューでは「著者は構ってちゃんだ」といったコメントがいくつか見られました。
このようなコメントが飛び交っていること自体は、残念です。しかし私自身、自分の性別違和について声を上げたところでそのような指摘を受けるだろう、ということは想定済みなのです。
ノンバイナリーの感覚を説明する困難さ
ノンバイナリー当事者である、自分の性別違和を説明することは難しい。だから伝えることを最初から諦めている・・・・・・。
今まで、このような台詞をノンバイナリー・Xジェンダー当事者から何度も耳にしました。正直、私自身もそのように思っています。
たとえば私の場合、正確にはジェンダーアイデンティティが「ない」のですが、ないものを説明することは極めて難しいです。
なぜ難しいのか? これはジェンダーアイデンティティが「ある」場合を考えてみると分かりやすいでしょう。
FTM(トランスジェンダー男性)、MTF(トランスジェンダー女性)の「自分は男性/女性なのに、周囲からは正反対の性別だと受け止められている」ことによる生きづらさであれば、シスジェンダーの人でも理解しやすいのではないかと思います。
女なんだから、と制服のスカートをはくよう強いられる
男なのにすぐに泣いて女々しい、と責められる
性自認と異なる更衣室で、異性の目にさらされながら着替えなければならない
等々。
でも、ノンバイナリーだと話が変わってきます。
私の場合、たとえば就活開始前、大手フォーマルウェア販売店にリクルートスーツを買い求めに行ったとき「女子は面接時にはスカートが望ましいですね」と言われて「えっ、なにそれ」と思いました。
でも、それは「自分はメンズのスーツを着用すべきなのに」と思ったからではありません。ただ「身体的性別が女性なのだからレディーススーツを着用すべきだし、面接時にはスカートをはくべき」という考えに違和感を覚えたのです。
「メンズのスーツを着たいのか」と問われれば、私のジェンダーアイデンティティは男性ではないので「メンズスーツを着て男性として就活・就職するのが本来の姿である」とは考えていません。
そのため、面接時にレディースのスカートを着用したくないと言っても「じゃあ何が着たいの?」「ただのわがままじゃん」と言われるのがオチ、と目に見えているのです。
「なんで身体的性別がメスだからって、面接時にスカートをはくことが暗黙の了解とされているのか?」とモヤモヤしたことは確かです。
でも、社会規範に従って波風を立てないほうがまだ生きやすいから、自分の性別違和を理解してもらうことを諦めて、妥協点を見出しながら性別違和を押し留めてなんとか生活するしかないのです。
『男であれず、女になれない』に共感できても、ノンバイナリー当事者の性別違和は人それぞれ
ノンバイナリー当事者同士でさえも、自分の感覚を理解してもらおうとは思っていないかもしれません。
『男であれず、女になれない』のなかで共感できるところ
『男であれず、女になれない』は、多くのノンバイナリー当事者に共感を与えている本だと思います。
たとえば、鈴木信平さんは幼少期のジェンダーについて、次のように語っています。
(前略)末っ子の私には姉も兄もいたから、一緒に遊ぶ機会は
圧倒的に姉の方が多かったけれど、それでも自分が姉や母のようになるとは
思っていなかった。(中略)全く共通の要素を持たない兄だったけれど、それでも
自分の所属は父や兄の側にあると思っていた。
だって私には、お股にお印があったから。
もうそれだけで、そこに想いが入り込む余地があるなんてことは
考え付きもしなかった。
私も、幼少期から身体的性別が女性であり、周りからも女性として扱われていることは受け止めていました。
一方、幼少期の私はおままごとや人形遊びに毛ほども興味がなく、バトル系のテレビゲームやカードゲームが好きでした。
それに対して、弟は当時ピンク色を好むなど、一部で女の子っぽいとされる趣味嗜好を持っていたので「私が男、弟が女で生まれてくるはずだったが、手違いで逆になった」と考えていました。
現在であれば「性別はグラデーション」といった知識を小さい頃から見聞きして、性別二元論に囚われない考え方を知る機会も増えているでしょう。
ですが20~30年前は、性別と言えば男女どちらかしか考えられていなかったので、自分はノンバイナリーであると気づきようがなかったのです。
鈴木信平さんの性別違和と、私の性別違和
『男であれず、女になれない』に掲載されている数々のエピソードや、鈴木さんの考え方に共感できる部分は多くあります。しかし、エピソードのすべてに共感できるわけではありません。
それは、マジョリティであるシスジェンダー(身体の性的特徴と性自認」が一致する人)でも同じでしょう。すべてのシスジェンダーの考え方や感覚に、共感できるわけではありませんよね。
たとえば、鈴木さんは高校2年生のクラス・コース分けの都合で、男女共学だったにもかかわらず、男子のみのクラスに振り分けられて多大なストレスを受け、高校中退にまで追い込まれました。
一方、私は(志望校にことごとく落ちたので、滑り止めの一つだった)女子大に、自分の意志で進学しました。
でも、高校までは男女比半々の共学校しか知らなかったので、女子しかいない環境とはどのようなものなのか? と多少の不安はありました。
加えて、当時はノンバイナリー、Xジェンダーをまだ知らなかったものの「シスジェンダーではないだろうな」という自覚は持っていたので「戸籍上の性別は女だけれど、自分が女子大を選択していいのか?」と、周囲を騙しているような感覚もゼロではありませんでした。
実際に通ってみると、4年生になっても女子大生だらけのキャンパスを見て「女ばっかり!!」と毎回新鮮味を覚えながらも、それなりに楽しく充実した大学生活を送ることができました。
そもそも、ノンバイナリーはさらに中性、両性、不定性、無性など、細分化できると言われています。シスジェンダーに比べると、ノンバイナリー当事者同士が共感できる部分は必ずしも多くないと言えるでしょう。
日常生活で当たり前に存在する性別
性別二元論が当たり前すぎて、男女だけでは表せない性別があることを、普段自覚していない人がほとんどだと思います。
意識しなかったら気づかない、性別というもの
戸籍上の性別を記載しないよう申し立てたニュースに対して「普段、私は性別なんていちいち意識して生活していないけれど、申立人は常日頃から性別について考えているのか?」というコメントをSNSで見かけました。
身体に対する違和感がなく、社会に決められたジェンダー(社会的規範や性差)を疑問なく受容しているなら、日常生活で「性別」を意識することは少ないでしょう。
鈴木さんは性別違和の例として、仕事着を挙げています。
私が仕事をしようとする時には、非常にネックになることがあります。
それは、私はスーツを着て仕事をすることができないということ。
(中略)毎日スーツを着て仕事をするということは、毎日「あなたは男です」と
言われ続けるのと同じことで、毎日「私は男です」と
宣言し続けるのと同じことですから。
日常の様々な場面には、性別二元論を前提としたルールが敷き詰められているのです。
普段は意識していなくても、ジェンダーアイデンティティは必要不可欠?
鈴木さんは、性別が日常生活の根底に流れる概念として常に潜んでいることを、次のように述べています。
「想像してみてください」
あなたから性別を除いたとしたら、今のあなたをとりまく
愛しいものは、どれだけ残りますか。(中略)
そして、あなたがあなたであるというアイデンティティは
あなたの人生から性別を除いても
変わらずそこにあるものでしょうか。
*
どうか気づいてください。
その思い出のほとんどすべてに、あなたがその性別を持っていることが
彩りを与えていますから。
どのような場面で日常が性別で彩られているかより、日常を彩っている性別が欠如した場合を考えたほうが分かりやすいかもしれません。
たとえば、病気によって、40代後半以降の女性が子宮や卵巣を摘出することがあります。しかし、たとえもう子どもを産む予定がなかったとしても、摘出後に「もう自分は女性ではない」と女性としてのアイデンティティを失って精神的に病むことは、そう珍しくないといいます。
しかし、手術後にメンタルが不安定になったシスジェンダー女性が、病気が発覚する前には常日頃から自分がシスジェンダー女性であると意識し、それに誇りを抱いていたとは、正直考えにくいと思います。
今回の記事を通して、社会には性別二元論が根底に流れていること、自分のジェンダーアイデンティティが自分の知らないところでメンタルを支えていること、それらの既定路線に乗れないノンバイナリー当事者の不安に、少しでも気づいてもらえたら幸いです。
■参考図書
鈴木信平『男であれず、女になれない』小学館、2017年。