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Writer/酉野たまご

アライの輪を広げていくために―LGBT当事者が「ん?」と感じた場面

LGBTであることを親しい人に明かし、少しでもアライの輪を広げていけたらと思って日々周囲の人とやりとりをしている。ただ、普段は理解を示してくれている人たちでも、ちょっとした瞬間に溝を感じてしまうこともまだまだ多い。

知人に「LGBT当事者です」と公表してみたことで感じた変化

LGBT当事者であることをカミングアウト

2024年、私はSNSで自分がLGBTであることを公表した。

前々から親しい人には話していたし、聞かれればあまり隠すことなく答えていたのだけど、ふだん深い話をする機会がない人にも、自分のセクシュアリティを知ってもらおうと思ったのだ。

理由は、同性のパートナーとの関係を家族に打ち明けたことで、私のセクシュアリティを隠さなければいけない人がいなくなったこと。

そして、LGBT当事者が身近にいることを少しでも多くの人に知ってもらうことで、アライの人がもっともっと増えていってほしいと思ったことも大きなきっかけだった。

自分がLGBT当事者であるということを初めて他人に話したのは、もう10年以上前のこと。

今さら改めて大勢に伝える必要があるのか? と怯む気持ちもあったけれど、SNSでの反応も、直接聞いた人の反応もおおむね好意的だった。

LGBT、アライ、その他の人々との間に感じる溝

差別的なリアクションをされて落ち込んだ、約10年前の記憶を思い返してみて、少しずつでも時代は変化しているんだと胸をなでおろした。

ただ、そうはいっても、いわゆるシスジェンダー・ヘテロセクシュアルの人と話していて、ちょっとしたすれ違いを感じる瞬間は未だにある。

ふだんは私と同性のパートナーとのエピソードも自然に聞いてくれて、LGBTに理解を示してくれている人でも、ふとした拍子に「ん?」と引っ掛かってしまう言葉を発することがある。

ある程度仲が良い知人だと、かえって上手に指摘することができず、「うーん・・・・・・」と思いながら、一人でモヤモヤを抱えてしまうことも多々あった。

そこで、アライの輪を今後も広げていくためにも、「私をLGBT当事者と知っている人が発した、違和感のある言葉たち」について書き残しておこうと思う。

LGBT当事者として「ん?」と思ってしまった言葉たち

さりげなく紛れ込むLGBTへの差別用語

なにげなく発する言葉の中に、LGBTに対する差別用語が隠れていることがある。

たとえば、レズビアンであれば「レズ」、ゲイであれば「ホモ」「おかま」という表現は、差別的なニュアンスが含まれているとされる言葉だ。

当事者本人が使うならまだしも、LGBTではない人が無意識に使うと「ん?」と引っ掛かってしまうことがある。

私自身、仲の良い知人たちと話していたときに「レズとかおかまの人って〜」という言葉を聞いて、一瞬固まってしまったことがある。

発言したその人が、差別的な意味でその言葉を使ったわけではないことはわかる。

ただ、私がその言葉に引っ掛かってしまったことは事実で、同時に「それは差別的な表現だよって指摘するべき? それとも、そんなことをしたら場が盛り下がる?」と迷って、上手く反応することができなかったのだ。

ごくささいな違和感こそ、反射的に指摘するのは難しい。

また、車関係の俗語である「おかまをほられる」、聞いた瞬間はドキッとしてしまう言葉だ。

車に乗っていて、後ろから追突されることを指す言葉だけれど、明らかに性行為を意味する語源と、「おかま」というワードが含まれていることを考えると、「その言葉を口にする前に躊躇しないのだろうか・・・・・・?」と、つい思ってしまうのだ。

つい最近も、20代くらいの知人からその言葉を聞いて、「LGBTへの理解が薄い世代ならまだしも、同世代でその言葉を使う人がいるとは・・・・・・」とやや怯んでしまった。

アライらしい人であっても温度差を感じる瞬間

一見アライらしいふるまいをしている人でも、ほんの少しの言葉選びで違和感をおぼえてしまうことはある。

たとえば、私が同性のパートナーと暮らしていることをなにげなく話した際に、ものすごく感動の意を示す人がたまにいる。

好意的なリアクションはもちろん嬉しいのだけど、「そういうことを言うのはとても勇気の要ることだと思うし、自分に話してくれて本当に嬉しい」と力説されると、自分の感覚とのずれを感じて「あれれ?」と思うのだ。

私はごく軽い世間話として言ったつもりなのに、重要なカミングアウトとしておおげさに受け取られてしまうと「LGBTであることはそんなにも重大な情報なのか・・・・・・?」と疑問に思ってしまう。

私としては、シスジェンダー・ヘテロセクシュアルの人たちと同じテンションで、自分のパートナーの話や恋愛話ができる社会であってくれたら嬉しい。

そしてもちろん、恋愛の話や性の話が苦手だ、したくないという人の存在も、同じくらい当たり前に受け入れ合いたいのだ。

結婚とパートナーシップ制度の違いがわかる? LGBT関連の知識の差

単純に、LGBTに関する知識が広まりきっていないだけなのかもしれない、と思う場面もある。

たとえば、恋人との関係や結婚について話している場面で、「お相手の方とはパートナーシップ宣誓していないんですか?」と聞かれることがある。

「してないですよ」と答えるものの、その質問のテンションと期待に満ちた表情に、「もしかして、パートナーシップ宣誓制度は結婚と同じくらい重要なことだと思われているのか?」と考えてしまった。

もちろん、パートナーシップ宣誓制度を利用できる関係性はとても素敵だと思うし、世間話としてその話題を振ってくれること自体は嬉しい。

ただ、「パートナーシップ制度は自治体が管理しているから、遠くに引っ越すことになったら解消しなくちゃいけないんですよ」「戸籍抄本の取り寄せが必要で、場合によってはものすごく手間がかかるうえに、メリット自体は少ないからなかなか手をつけられなくて」と話すと、たいていものすごく驚かれる。

結婚とパートナーシップ制度の圧倒的な差に多くの人は気づいていないのではないだろうか。

「同性婚」の重要性をアピールしていくためにも、この認知の溝はできるだけ埋めていけたらと願っている。

アライの輪を広げるために、LGBT当事者として何ができるか

少しでも周囲の人とのコミュニケーションを改善し、アライの人を増やしていくために、LGBT当事者の自分には何ができるかを考えてみた。

LGBT当事者として抱いた違和感を「言語化」していく

違和感のある発言については、すぐに指摘することができなくても、こんなふうに文章にまとめたり、誰かと話し合ったりすることで少しずつ言語化し、自分の気持ちを上手く伝えるための言葉を探していきたいと思う。

もし次に「レズって〜」と知人から言われたら、「その言い方はイエローカードかも!」くらいの言い方であれば、サッと指摘できそうな気がする。

「レズ」「ホモ」「おかま」といった表現をする人に差別の意図がなくても、そこに「無理解」の要素が含まれているなら、それだけでも私は指摘する必要があると考える。

アライへの入り口となる「LGBT関連の作品」をおすすめ

LGBT関連の作品をおすすめするというのも有効な気がして、ふだんから少しずつ実践している。

特に、シスジェンダー・ヘテロセクシュアルの人にもわかりやすいように工夫されている漫画や小説、ドラマなどは、アライへの入り口にもなりやすい。

また、説明が少なく一見とっつきにくいようなLGBT向けの作品であっても、何かしら琴線に触れるものを感じてくれる人がいれば、という思いでおすすめすることは多い。

SNSで作品についての投稿をしたり、情報をシェアしたりしていると、日常生活でも「SNSで紹介していたあの作品って〜」と話しかけてくれる人が増え、LGBT関連の話題が出しやすくなった。

ほんの小さな一歩に過ぎないかもしれないけど、少しずつでもアライの輪を広げていくことにつながれば、と思う。

LGBTとアライの人たちが屈託なく話すことができるように

フェミニストの方と話して感じた「LGBTとしての活動」の難しさ

以前、フェミニストとしてSNS等でプロフィールを公開し、啓発活動に取り組んでいる人と話をしたことがある。その方は、「自己紹介のときにフェミニストっていう言葉を出すだけで、ネガティブな反応をする人がいる」という旨のことを語っていた。

フェミニストという言葉自体に、「議論をふっかけてきたり強い言葉で相手を糾弾したりする人」という誤ったイメージを連想する人がいるから、その言葉を聞くだけで逃げ腰になってしまうことがあるのだという。

その話を聞いたときに、私はLGBT当事者としてどうしていきたいかを考えた。

自分も含め、LGBTの人たちが少しでも生きやすいように、多くの人に情報を共有したり、不適切な言動はきちんと指摘したり、といった行動は確かに大切だ。

強い態度や目立つような行動でしかアピールできないこともあるし、フェミニストやLGBT当事者、その他何かを伝えたいと願って行動に起こす人たちは、本当に素晴らしいと思う。

ただ、自分自身の暮らしやこれからの生き方を考えたとき、私は「誰かにネガティブな感情を抱かれたとしても、LGBTのことを伝えたい」とは思えないかもしれない、と感じたのだ。

私が考える「LGBTとアライの理想の関係」とは

ありがたいことに、私自身は、多少生活上の不便はあっても、現在は特に大きな困難を感じることなく、パートナーとの生活をおだやかに楽しんでいる。

だからこそ、「LGBTへの無知や無理解に対して厳しくふるまうよりも、LGBTであることは決して特別なことではなく当たり前のことで、ただ法律や制度が追いついていないだけだということを伝えたい」と考えるようになった。

それだけでも多くの人に伝えて、「ジェンダー(性自認)やセクシュアリティ(性的指向)に関係なく、おだやかな気持ちで暮らしていける人が増えるように」と、誰もが思うようになってくれれば・・・と願ってやまない。

アライの輪が広がっていけば、きっとLGBTは特別な存在ではなくなって、背が高いか低いか、赤色が好きか青色が好きかといった、人間性にまつわる特徴のひとつとして、誰もが当たり前に受け止める社会に近づいていくのではないかと思う。

そんな未来の実現に向けて、自分が抵抗を感じない範囲でだけでも、一歩一歩、行動を進めていきたい。

 

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