思春期以来、いくつものレズビアン小説を読んできた。肌に合うものも、合わなかったものも、自分の恋愛観や人生観を掘り下げていくための糧となった。その中でも小説『生のみ生のままで』は、私の人生のこれからを支えてくれる要石のような存在だ。
レズビアンの恋愛の希望と絶望を描いた小説『生のみ生のままで』
小説『生のみ生のままで』を何度か読んで訪れた変化
綿矢りさ氏による小説『生(き)のみ生(き)のままで』を読んだときの自分のリアクションは、少々特殊なものだった。
一度目はところどころで引っ掛かりをおぼえつつ、「はじめて読む作家さんの文体だなあ」などと思いながら一気読みして、感想も特に抱かなかった。
しかし、再度読み返してみたところ、一度目には気がつかなかった描写のこまやかさやストーリーの奥深さに涙腺を刺激され、涙なしには読み終えることができなかった。
一度目と二度目で読後の温度感がまったく違い、なによりも自分の変化に驚いた作品だ。
それ以来、小説『生のみ生のままで』は定期的に読み返して、自身の人生を振り返るための大切なランドマークであり、これからの人生を支えてくれる要石のような存在となった。
なぜこのような変化が訪れたのか。
おそらく、私がレズビアンとしてパートナーを得たことが大きな理由のひとつだろう。
ほかのレズビアン小説と『生のみ生のままで』が異なる点
小説『生のみ生のままで』は、レズビアン小説でありながら、たったひとときの想いの交錯や限られた期間の恋愛模様だけではなく、「人生」の重みが詰まっている作品だ。
レズビアンの恋愛と人生を、長編で丁寧に描いた小説はあまり多くはない気がする。
(あるにはあるのだろうけど、異性愛を描いた小説と比べて出会える数は圧倒的に少ない)
小説の中で、主人公の逢衣(あい)と彩夏(さいか)のふたりは二十代で出会い、激しい恋の末に三十代で新たな人生へと踏み出していく様子が描写される。
フィクションでもそうだけれど、現実でも、10年近くお互いを想い続け、人生を共にしようと誓い合えるようなレズビアンカップルの姿を目の当たりにすることは難しい。
ヘテロセクシュアルのカップルと比べて、そもそも関係性を発信する人の数が少ないことや、日本では法的な結婚ができないということもあり、数年で関係を解消してしまうカップルの話を聞くことのほうがずっとずっと多い。
だからこそ、小説『生のみ生のままで』が描き出す歳月の流れとその重みが、今まさにレズビアンカップルとしての恋愛の真っただ中にいた私の心に沁み入ったのだろう。
レズビアンだからこそ引っ掛かってしまう、小説『生のみ生のままで』の描写
今では自分にとって大切な存在である小説『生のみ生のままで』にも、一度目に読んだ際には少々引っ掛かる点があった。そこで、当時気になった点をピックアップし、現在の感じ方との違いについて紐解いていきたい。
「彼氏のいる女性」同士で始まる、小説『生のみ生のままで』の恋愛模様
まず私が引っ掛かったのは、小説『生のみ生のままで』の主人公である逢衣(あい)、彩夏(さいか)のカップルが、ふたりとも「出会ったときには彼氏がいて、浮気をするような形で付き合い始めた」という点だ。
この部分のストーリーは、正直、今でも読むと若干怯んでしまう。
お互いに現在付き合っている彼氏のことはとても好きなはずなのに、それでも惹かれ合ってしまう。そのどうしようもない高揚と、罪悪感。
特に、彩夏のアプローチにショックを受け、彩夏を拒絶する逢衣の心情と、想いが募るあまり強引にモーションをかける彩夏の焦りと葛藤は、想像に難くないだけに心が痛い。
恋愛の始まりとしてはあまりに他人を傷つけ、自分自身も傷ついてしまうようなシチュエーションで、「レズビアンの恋愛が必ずしもこのように(悲劇的かつドラマチックな状況で)始まるわけではない」と、誰にともなく弁明したくなってしまう。
そして、すでに異性の恋人がいる人に片想いするつらさも、本人に想いを伝えて混乱させてしまうことの暴力性も、自分が女性に恋愛感情を抱くことへの戸惑いも、すべて自分の身におぼえがあるからこそ、小説『生のみ生のままで』の生々しい描写が刺さるのだ。
レズビアンではないかもしれない? 主人公たちの人物描写
逢衣も彩夏も元は彼氏がいたということや、「女の人が好きなわけじゃなくて、あなたが好き」といった旨のセリフから考えると、厳密にいえば小説『生のみ生のままで』のふたりはレズビアンではないのかもしれない。
その設定は、読んだ当時の私を落胆させた。
私の場合、「性別関係なくあなたが好き」といった恋愛感情にはおぼえがなく、同性に対しての恋愛は常に「女性としてのあなたが好き」という想いに裏づけられていた。
だからこそ、自分はパンセクシュアルなどではなくレズビアンなのだ、と自認したのだ。
それゆえ、逢衣も彩夏も特に違和感を抱くことなく男性と付き合い、「性別関係なく」お互いを好きになったというストーリーは、“Not For Me(=自分向きではない)”というように感じてしまった。
どちらかといえば、先に逢衣への恋愛感情を抱いて葛藤する彩夏に感情移入してしまい、主人公である逢衣の彩夏に対する嫌悪感、現在の恋人と結婚することへの憧れをつづった心情描写は読むのがつらかった、という経緯もある。
二度目以降はおおまかな物語の流れを把握している分、自分にとってしんどい部分はある程度読み流せたからこそ、ほかの好きな部分に気づくことができたのだろう。
芸能人との恋愛と、レズビアン同士の恋愛の共通点
もうひとつ、初見の私が引っ掛かった点は、彩夏が芸能人であるという設定だ。
自分の恋愛や人生への手がかりを小説の中に見つけたかった当時の私は、キラキラした芸能界のイメージや非日常の事件に、ふたりの恋愛を邪魔されるような感覚が不満だったのかもしれない。
ただ、この点については、小説『生のみ生のままで』の良さにもつながっていると再読してから気がついた。
異性間の恋愛と比べると、レズビアン同士の恋愛は、社会的な営みの面がうすい。
むやみに関係を明かさないという制限や、法や制度による保障がない分、ふたりの想いだけでつながりあえるという恋愛のあり方は、芸能界というある種ファンタジックな世界観と親和性が高い。
豪華なタワーマンションで手を取り合い、踊るふたりのシーンはどこか儚く幻想的で、「レズビアンの恋愛」と「芸能界」という「一見華やかに見えるけれど現実的な困難がつきまとう」世界の共通点を浮き彫りにしている。
レズビアンカップルに起こり得る人生の苦難と葛藤
小説『生のみ生のままで』がほかのレズビアン小説と一線を画しているのは、恋愛をまっとうする上での苦難と葛藤がかなり色濃く描かれているから。そして、私が何度読み返しても涙を誘われてしまうのは、それらの描写が決して他人事ではない真実味をもって迫ってくるからだ。
レズビアンカップルは「カップルだと気づいてもらえない」
小説『生のみ生のままで』の中で、逢衣と彩夏は付き合ってすぐに同棲生活を始める。
芸能人である彩夏は、恋人をつくることも同棲することも本来許されてはいないのだけど、ふたりが同性であるからこそ、「友達同士のルームシェア」という形で一緒に住むことができるのだ。
この「一見、友達同士だと思われる」ということへの葛藤は、小説の中で何度も繰り返し描かれる。
ふたりが安全に、穏やかに過ごすためには「友達」という隠れみのはとても有効である一方、世間に認識されていない、自分たち以外に自分たちの関係性を理解してくれている人がいないという事実は、将来への不安と心許なさに直結する。
私自身、レズビアンとしてパートナーと付き合い始めた当初は、「心無い言葉や視線に傷つけられたくない」という感情と、「自分たちが付き合っているということを世間に知らしめたい」という衝動のはざまで揺れていた。
小説『生のみ生のままで』の逢衣と彩夏は、恋愛関係が明るみに出たら彩夏が立場を追われるという設定も相まって、この葛藤がより強く、切実にふたりを縛っている様子が描かれている。
レズビアンだからこそ浮き彫りになる、加齢や病による変化と不安
レズビアン同士の恋愛やゲイ同士の恋愛は、外見重視になりやすいという話を聞いたことがある。
私はゲイの人のことはよくわからないけれど、レズビアンの恋愛に関しては、そうなるのもなんとなくわかる。
性別の違いがない以上、同性を好きになる際には、より厳密に「自分と相手との違い」を見抜き、その差異を魅力的に感じやすいのではないかと思う。
見た目の美しさも、差異のうちのひとつだ。
小説『生のみ生のままで』では、彩夏が頻繁に逢衣の外見を褒める。そしてまた逢衣も、彩夏の外見を魅力的に感じる様子が綴られる。
だからこそ、彩夏は自分が逢衣に嫌われるのではないかと怯えるのだ。
美を求められる芸能界で生きることを選び、自分の老後の姿を想像できないと語る彩夏は、若さと美しさを失えば逢衣の心は離れていくかもしれないと思い、悩み、その果てに逢衣を拒絶してしまう。
物語の後半でふたりが年齢を重ね、それぞれに変化が訪れた際、逢衣は自分を拒絶する彩夏に献身的に尽くし、身も心も病んだ彩夏に寄り添いつづける。
その様子は、恋愛小説とはとても言えないほどの生々しい重みがともなっており、私は自分とパートナーの未来の姿を重ねて想像せずにはいられなかった。
もしパートナーの心身の調子が大きく崩れても、出会った頃と同じような愛情表現や若々しさを失っていても、そばに寄り添いつづけることができるだろうか。
「絶対にそうしたい」という気持ちがある一方で、もし自分が寄り添ってもらう側だったら・・・と想像すると、パートナーに負担をかけたくないという思いと自信喪失が重なって、苦しくなってしまうかもしれない、とも思う。
ひとたび考え出すと止まらなくなり、物語の後半から終盤にかけて、私はいつも涙ながらにページをめくることになる。
誰しもに訪れる可能性のあることだからこそ、この物語はこんなにも深く心に訴えかけてくるのだろう。
小説『生のみ生のままで』にこの年齢で出会えてよかったと思う理由
私にとって、パートナーと出会えたこのタイミングで小説『生のみ生のままで』を読むことができたのはまたとない巡り合わせだった。
もっと前だったらなにげなく通り過ぎてしまったかもしれないし、もっと後であれば、逢衣と彩夏がくぐり抜ける数々の困難や葛藤を、ここまで実感を伴って読むことはできなかったかもしれない。
パートナーと人生を共にしたいと願い、たった数年でもいくつもの山や谷を越えてきたからこそ、小説『生のみ生のままで』の表現や場面のひとつひとつに自分の体験を重ねて読むことができる。
この小説が、レズビアンカップルをはじめ、世間に祝福されなくても愛を誓い合いたいと願う多くの恋人たちに向けて、応援歌を奏でてくれるような作品であることを身をもって実感できることが、本当にうれしい。
ラストシーンに吹く風はきっと、逢衣と彩夏だけでなく、苦難を乗り越えてふたりの関係を紡いでいこうとするあらゆる恋人たちを見守り、祝福してくれる。
■作品情報
小説『生(き)のみ生(き)のままで』
著:綿谷りさ
出版社:集英社