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Writer/酉野たまご

レズビアンは、恋愛対象と女友達をどう区別しているのか?

私はシスジェンダー女性で、女性の恋人をもつ「レズビアン」だ。恋愛対象も性愛の対象も、同性である女性。それでも、恋愛も性愛も介さない「女友達」が存在する。今回は、その「女友達」という存在について紐解いていきたい。

レズビアンは恋愛と友情をどのように区別しているのか?

「恋人」と「女友達」の違い。私以外のレズビアンはどう考える?

レズビアンやゲイなどの同性愛者に限らず、異性愛者の間でも永遠のテーマとして掲げられる話題がある。

「恋愛関係と友情関係を、どのように区別しているか?」というテーマだ。

そもそも恋愛や性愛の感情を抱かない/抱きにくいという性質や、恋愛感情を自覚しにくい性質の人もいるのだけど、私が今回このテーマについて考えようと思ったのには、また別のきっかけがある。

私自身がレズビアンであることを公言すると、ごくまれに「じゃあ、私たち(=女性)のことを普段からそういう目で(=恋愛対象として)見ているってこと?」などといった質問をされることがある。

正直、この質問をされた瞬間は毎回呆れてしまう。

「じゃあ、異性愛者の人は異性全員を普段からそういう目で見ているんですか?」というふうに、つい意地悪な質問を返したくなってしまうけれど、「同性を恋愛対象として見る」という感覚がピンとこない人にとっては、レズビアンが普段、同性に対してどのような気持ちで接しているかというのは想像しにくいのかもしれない。

ただ、そんな私でも、気になる点はある。
レズビアンの人たちは、恋愛対象や恋人と女友達を、どのように区別しているのか? ということだ。

私は自分自身の感覚しかわからないから、「恋人と女友達は明確に違う存在だ」と思っているけれど、他の人たちはどのように考えているのだろうか。

もしかすると前述の質問のように、「同性のことは普段から恋愛対象として見ている」という人もたくさんいるのかもしれない、と思うと、このテーマを深掘りしてみたくなってしまったのだ。

私が「女友達」について考えるようになったきっかけ

そもそも「恋人」と「友達」、それぞれについての価値観は人によって全然違うものだろうと思う。

恋愛関係よりも友情関係のほうが長く続きやすいものだから、自分にとっては友情関係のほうが大切だと考える人もいる。
あるいは、友情関係よりも一段階ステップアップした関係性が恋愛関係だ、と考える人もいる。

私自身は、学生時代から人付き合い全般が苦手で、「恋人」にも「女友達」にも飢えていた時期があり、これらの関係性について深く考え込んだことも一度や二度ではない。

今では、ありがたいことに同性の恋人にも女友達にも恵まれているけれど、簡単にもつことができる関係性ではないからこそ、どちらも大切にしていきたいという思いが強い。

そして、そんな私が最近、改めて「恋愛関係と友情関係の違い」について考え始めたのは、ある複数の読書体験がきっかけだった。

レズビアン当事者が「女友達」にまつわるエッセイを読んで

私がここ数年、熱中して読んでいるジャンルに、「女友達の関係性を描いたエッセイ」がある。書籍のジャンルとして確立しているわけではないので、基本的には自分であらすじなどをチェックして、コツコツ本を集め、読み進めている。

レズビアンかどうかは関係ない、女友達という替えのきかない存在

最近購入したエッセイに、『胃が合うふたり』という1冊がある。

書店員・新井見枝香さんと、小説家・千早茜さんの女性2人が、食事を通してお互いの関係性について語るという内容の本だ。

はじめは「グルメ関係の本は好きだし、おもしろそう」という軽い気持ちで読み進めていたのだけど、次第に、このエッセイが自分にとって大事な意味をもつ1冊になると確信していった。

小説家の千早さんは、エッセイのなかで、とある「女友達」について語っている。

学生時代、ずっと仲良くしていた女友達は、(異性の)恋人ができたらすぐに恋愛で頭がいっぱいになるような人だったけど、千早さんはそれを特に気に留めず、彼女が誰とも付き合っていない期間だけ、2人でずっと一緒に過ごしていた。

そんな千早さんに、周囲はどうしてあんな子と仲良くするのか、もしかしてレズビアンなのか、などと声をかけてきたという。

あの子の魅力も、私の性的指向も、誰にも説明する義務はないと思った。
大人になった今でも、たまに『〇〇さんと親しいんですね』と妙な確認をしてくる人はいるが
人が人といる理由なんて当人同士ですらわからないし、言葉にできるものじゃない。

千早さんは力強く語り、大人になってから「胃が合う」女友達として仲良くなった新井さんと、学生時代の彼女を重ねている。

確かに、女性同士であまりにも仲が良いと、「もしかしてレズビアンなの?」と勘繰ってくる人はたまにいる。

私はレズビアンではあるけれど、恋愛感情など一切関係なく仲良くしている女友達と一緒にいて、「2人はもしかして付き合っているの?」と聞かれたことも何度かある。

その度に、「付き合ってるレベルで一緒に遊んでるよね~」などと言い合って誤魔化しているけれど、おそらく千早さんが感じていたのと同じような、小さなモヤモヤと拒絶の感情は未だにおぼえている。

私や女友達がレズビアンだとしても、違うとしても、第三者からこの関係性を勝手に名付けられるのは本意じゃない。

そう思ってしまうのは、女友達という関係性が、恋愛関係と比べて「契約」の側面が薄いからではないだろうか、とも思う。

何の約束も束縛もせず、ただ「今、一緒にいたいから」という理由だけでつながっている関係。安易に名前を付けたり、他者からの視点を取り入れてしまったりしたら、絶妙なバランスが崩れてしまうかもしれない。

だからこそ「女友達」という関係性は、周囲に表明してまわるのではなく、自分の中で大事に尊んでいたくなる気がする。

エッセイから読み解く、「女友達」という関係性の価値

『胃が合うふたり』の他にも、私が好きで集めている「女友達を描いたエッセイ」はいくつかある。

コンビで活動しているイラストレーター・うにささんとひよささんの同居を描いたコミックエッセイ『おひとり様のふたり暮らし』。

女性芸人2人の生活をそれぞれの視点から描いたエッセイ、『阿佐ヶ谷姉妹の のほほんふたり暮らし』。

韓国の元雑誌編集者とライターという2人が、一緒に暮らす様子を詳しく描いたエッセイ、『女ふたり、暮らしています。』。

どの本もとても好きだけれど、共通して感じたのは「性的指向や友情の深さなどを考えるまでもなく、この2人は一緒にいることを選んだのだ」ということ。

女友達でルームシェアをすると、「どちらかに恋人ができたり、結婚したりしたらどうするの?」などという声が上がることがある。(実際に、エッセイのなかにはそのような描写が含まれるものもある)

確かに、恋愛関係が介入してくることによって友情にヒビが入るという事例も、あるにはあるのだろう。

特に、未婚の女友達どうしでずっと一緒にいると、関係性を勘繰られたり、「恋愛しにくくなるよ」などの心配をされたりすることも多い。

それでも、これらのエッセイを読んでいると、「恋愛」や「友情」といった枠組みを飛び越えて、ごく自然に一緒にいることを選ぶ女友達、という関係性が存在することを思い知らされる。

「恋愛か/友情か」という二元論的な考え方をしてしまう風潮は、まだまだ強い。
レズビアンである私も、仲の良い女性2人を見ると「お仲間だろうか?」とつい思ってしまう側面が、ないとは言えない。

でも、こういった「女友達」についてのエッセイが広まることで、もっとパーソナルな関係性のあり方を受け入れる人が増えていけばいいな、と思う。

レズビアンである私にとっての「女友達」とは? 「恋人」とは?

「恋人」と「女友達」は、明確に求めるものが違う

レズビアンである私自身は、恋愛対象や恋人と女友達をどのように区別しているのか?

今までの経験上、女友達だった人に恋愛感情を抱くようになったことは、ある。
でも、異性愛者であっても同じような経験をする人はたくさんいるはずだ。

私の場合、普段女性と接するときは、恋愛感情は特に意識しない。

「この人と恋愛をしたい!」と明確に思うときは、むしろ友情はあまり感じていない気がする。

女友達に恋愛感情を抱くようになったときも、「友達として長く一緒にいたい」という気持ちよりは、「恋人としてお付き合いできないのであれば、一緒にいても苦しいだけだ」という気持ちのほうが強かった。

つまり私自身は、「恋人」に求めるものと「女友達」に求めるものがはっきり異なるタイプだ、ということになるのだろう。

私にとっての「恋人」ならではの役割

現在私がお付き合いしているパートナーは、私の「女友達」にはいないタイプの人だ。

たとえば、学校の同じクラスや、職場の同じ部署にいたとしても、顔見知り程度の関係性から発展して仲の良い友達になる、ということは想像しにくい。

ではなぜ恋愛関係だと一緒にいることができるのか?

うまく言葉にはできないけど、私の場合、恋人には「家族のような安心感」と「他の人とは異なる接し方」を求めているからではないか、と思う。

恋人と一緒にいるときは、お互いにできるだけリラックスしていたいし、取り繕わない関係でいたい。

女友達といるときは、もちろんある程度リラックスはするけれど、お互いに踏み込み過ぎない距離感を保ちたいし、取り繕うのがしんどく思えるときは会わないことを選ぶ。

また、恋人には「私だけに見せる顔」を見せてほしいし、自分も恋人にしか見せない一面があるけれど、女友達は必ずしもそうではない。

もちろん、人によっては全く逆の感覚だったり、恋人でも女友達でもほとんど同じ感覚をもつという場合もあったりするだろう。

私にとっての「女友達」ならではの役割

恋愛と友情の区別に「性行為(性愛感情)の有無」を挙げる人もいるのだろうけど、私の場合その点はあまり重要ではない。

恋人と女友達は、一緒にいるときの感覚からして明確に異なるからだ。
たとえ恋人との間に性愛感情がなくなっても、「女友達のような関係性」になることはまずないだろう、と思っている。(あくまで私の場合、ではあるけれど)

恋人とは泣きながら喧嘩もするし、許せないことについては何時間でも話し合うけど、女友達とはあまり喧嘩をしたくない。

女友達とは毎日会う関係ではないからこそ、お互いの気になる点はある程度許容し合って、一定の距離を保つのが心地良い。

逆に、女友達には深刻な話題もカジュアルに話してしまえるけれど、同じ話題を恋人と話すと真剣なトーンになりすぎてしまうことが多い。
だから、女友達と恋人とでは話す話題も、言葉選びもずいぶん変わってくる。

人生を共にする相手と、お互いの人生が一時的に交差しているだけの相手、という違いもあるのかもしれない。

「レズビアン」や「女友達」という枠組みを飛び越えて

レズビアンにとっての恋愛対象/恋人と、女友達の違いについて、自分の実体験と「女友達」関連のエッセイを元に考えてみた。

恋愛や友情についての感覚はとても個人的なものだから、この点を深掘りして他の人に聞いていくことは難しいかもしれない。

それでも、一例として私の感覚について書いてみることで、他の人たちが自分の考えを深めるきっかけになればいいな、と思う。

エッセイ『胃が合うふたり』のなかで千早茜さんは

友情だって、愛情だって変わるし、相手の気持ちはわからない。
人は誰もが自分以外のリアルを知らないのだ。

と述べている。

人と人の関係については、自分自身もよくわからない部分が多い。

だけど、私は恋人にも女友達にも、「お互いおばあさんになってもこうしていたいね」と思える瞬間をたくさん一緒に過ごしたいし、どちらも役割は違えど、なくてはならない存在だと思っている。

一般常識に基づいた枠組みや区別の基準を飛び越えて、自分と相手という唯一無二の関係性をこれからも大切にしていきたい。

 

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