私はタカラヅカが好きだ。学生時代に友人から借りた舞台の映像を観てからというもの、豪華絢爛な舞台と他に類を見ない芸術の形に魅せられてきた。しかし、この頃疑問に思うことがある。タカラヅカの男役とLGBTのイメージを重ねるようなフィクションの表現について、モヤモヤとした思いが残るようになってきたのだ。
タカラヅカの男役と「LGBT」のイメージ
唯一無二の存在である、タカラヅカの「男役」とは
タカラヅカ、もとい宝塚歌劇団の魅力のひとつとして、「男役/娘役」という文化の存在が挙げられる。
所属しているスターは全員女優であり、身長などの条件や本人の意思によって「男役」か「娘役」を選び、舞台の上で演じる。そして、舞台を降りてもそのイメージを崩さないよう、「男役」スターは「男役」らしく、「娘役」スターは「娘役」らしく、ふるまいやファッションに気を使う場合も多い。
私はかれこれ10年以上タカラヅカの舞台を観劇し続け、その文化の不思議さと唯一無二な魅力に圧倒されてきた。
しかしながら、LGBT当事者として、最近少し引っ掛かりをおぼえるようになった。
きっかけは、タカラヅカの男役とLGBTのイメージを重ねる描写を、フィクションの中でいくつか目にしたことだ。
LGBTのイメージを重ねられがちなタカラヅカの男役
気になる読者がいるのでは? と思ったのは、たとえば中山可穂氏の小説『男役』。タカラヅカの男役の間で同性愛のような関係が描かれている。また、斉木久美子氏による漫画『かげきしょうじょ!!』にも、同性へほのかな想いを寄せる少女の描写がある。
タカラヅカという女性が圧倒的多数を占める集団、そして男役スターという存在の特殊さは、LGBTのイメージを重ねるには絶好のモチーフなのかもしれない。
人によってはその設定にモヤモヤした感情を抱くこともあるかもしれない。
私の場合は、「フィクション上のタカラヅカ」の話なのだとある程度割り切って読むことで、どちらの作品も楽しむことができた。
ただし、そのイメージはフィクション上の男役だけではなく、現実の男役スターにも反映されることがある。
タカラヅカを退団した元男役スターは、一般的な「女性役」を演じることも多いが、ジェンダーレスな役や「男装する女性」の役、時にはトランスジェンダーの役を演じる場合もある。
そういった役を元男役スターの女優にキャスティングする人の「視線」が、私はどうしても気になってしまうのだ。
彼らは何を思って、LGBTのイメージを元男役スターに重ねようとしているのだろうか? と。
なぜタカラヅカの元男役がトランスジェンダーを演じるのか?
退団しても変わらない、「タカラヅカの男役」の特殊性
タカラヅカの男役スターは、女優でありながら「フィクションの男性」を演じることが求められる。
身近に存在するシスジェンダー男性を再現するのではなく、映画や小説、アニメーションなどの世界に登場するような「魅力的な、架空の存在の男性」を表現するため、仕草や歩き方、低い声の出し方などを研究する。
タカラヅカを退団してからは、男役スターだった頃のジェンダーレスな雰囲気をそのまま残す人と、いわゆる「女性らしい」ふるまいやファッションにきっぱり切り替える人に、大きく分かれる。
そして特に、ジェンダーレスタイプの元男役スターや、卒業して間もないため、まだ男役らしさの残る人たちは、退団後であっても中性的な役や、男女両方の要素をもった役を演じるケースが多い。
タカラヅカ出身の女優が自身の持ち味を活かして芝居をしている姿を観られるのはファン冥利に尽きるし、男性/女性という性別二元論にとらわれない舞台の作り方は、LGBT当事者としても嬉しいものがある。
安易に「LGBT」のイメージを背負わせてはいけない
女優でありながら、「男役」の技術と個性をもっている元男役スターに、中性的、あるいは両性的なキャラクターを配役するのは、ある意味、自然な成り行きなのかもしれない。
ただ、安易にトランスジェンダーの役を元男役スターに演じさせるのは、あまり歓迎できることではないな、と思うのだ。
トランスジェンダーの人の心情については、私自身も、完全に理解していると言うつもりはない。
それでも想像するかぎりでは、トランスジェンダーの人たちの意識とタカラヅカの男役スターの意識は、根本的に異なるものなのでは? と思う。
特に、元男役スターにトランスジェンダー女性の役を当てるパターンでは、「(フィクションの)男性らしいふるまい」の上に「女性らしいふるまい」を重ねた演技になるため、どうても過剰な演技になりやすい。
私は実際にその舞台作品を観たことがあるのだけど、どうしてこの役を元男役スターに演じさせたのか、つい疑問に思ってしまった。
舞台はゴシックな世界観をベースにしていて、登場人物たちの衣装も非常に凝っており、一人一人のキャラクターが際立っていた。
中には、セリフに同性愛的なニュアンスを含ませた人物や、中性的なファッションが印象的な人物もいたので、トランスジェンダー女性の役も、キャラクターの個性を演出するために作られたのかもしれない。
ただ、舞台上でその役を演じる元男役スターの彼女は、「ステレオタイプなトランスジェンダー女性を演じようとしている俳優」にしか見えなかった。
しなを作るような動きも、セクシーな話し方も、高さと低さが入り混じる声も、お笑いやコメディの文脈で表現されがちな「男性が演じる女性役」にかぎりなく近く、観ていて少し悲しい気持ちになってしまった。
そして、それは元男役スターである彼女の責任ではない、とも感じた。
「LGBT」というややセンシティブな題材を、出演者がかつて男役を演じていたというだけの理由で安易に取り入れるべきではないのだ。
少なくとも、私はそう思う。
タカラヅカとLGBTの理想的な距離感
もともとタカラヅカの舞台でも、男役スターがあえて女性を演じることの違和感を活かした演出はあった。
令和の時代となった今、過去の作品でそういった表現を観るとモヤッとすることもあるけれど、近頃は類似の演出も減ってきた。男役スターが女性役を演じることはあっても、それを「違和感」として際立たせることは少なくなってきている。
タカラヅカの「男役」「娘役」という特殊なシステムは、他になかなか類を見ない、特別なものだ。その文化を継承していくスターの人たちも、時代に合わせて意識のアップデートを重ね、伝統の「型」に新しい表現方法を取り入れていこうとしている。
だからこそ、安易に「男役」にLGBTのイメージを重ねるようなことは、するべきではないと思う。
元男役スターのなかには、ジェンダーレスな表現を探求し続けることを表明している人もいるし、「男役」と「女優として演じる女性役」の狭間で揺れ動く人もいるだろう。
それは尊重されるべき個人の感覚であって、「タカラヅカの元男役」というおおざっぱな括りでLGBTのイメージを背負わされるようなことは、あってはならないと思う。
あらゆる創作の現場で、彼女たちの努力と葛藤に、また「LGBT」という慎重に扱うべきテーマに、敬意を表して接する人がもっともっと増えてくれることを願っている。