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Writer/酉野たまご

クエスチョニングでいることの自由さと身軽さ― 漫画『ちひろさん』を読んで

安田弘之氏が描いた漫画『ちひろさん』。2023年にはNETFLIXにて映画化もされたこの作品に、私はずっと心惹かれるものを感じていた。その理由が長らくわからなかったのだけど、「クエスチョニング」というセクシュアリティについて考えたとき、真っ先にこの作品を連想した。

漫画『ちひろさん』に私が心惹かれる理由

魅力的なキャラクターの生き様を描くだけの、シンプルな漫画『ちひろさん』

漫画『ちひろさん』は、海辺の町のお弁当屋さんで「ちひろさん」という元風俗嬢の女性が働き始めるという、あらすじだけ見ると非常にシンプルな作品だ。

全9巻のシリーズのなかで、特にこれといったドラマティックな展開は起こらない。
ただ、「ちひろさん」の生き様や言動に、町の人たちが魅了されていく様子が淡々と、ユーモラスに描かれる。

ともすれば「地味だ」と受け取られそうな内容なので、他人におすすめする機会もあまり多くはない。

それでも、私は漫画『ちひろさん』がとても好きだ。
これまで数えきれないほど読み返したし、心の支えにしていた時期もあった。

なぜそれほどまでに、この作品に心惹かれたのだろうか?

一番大きな理由は、やはり「ちひろさん」というキャラクターの魅力にある気がする。

漫画のなかで、ちひろさんに出会った学生が、理由もわからず号泣するシーンがある。

「ただなんか うれしくてほっとして――」
「生まれてから ずっと 会いたかった人に会えた気がする――」

ちひろさんと直接会ったわけではない、読者である私にすら、その感覚がうっすらとわかるように思えた。

彼女の自由奔放さ、他人の視線を気にしない自信にあふれた振る舞い、唯一無二の存在感・・・。

ちひろさんのそういった人間性に、(私もふくめて)みんな「自分にはない部分」を見出して憧れてしまうんだろうな、と思う。

「クエスチョニング」というセクシュアリティと、漫画『ちひろさん』がつながった瞬間

あるとき、「クエスチョニング」というセクシュアリティについて考える機会があった。

自分自身の性自認や性的指向、恋愛的指向を「定めていない」というセクシュアリティ。

これまでもその存在は知っていたけれど、実際にクエスチョニングであることを表明している人と話す機会もあまりなく、自分自身との関連性もあまり考えてこなかった。

ただ、クエスチョニングであると公表している人の文章を読み、他のセクシュアリティとの違いなどについて考えていたところ、真っ先に連想した作品が漫画『ちひろさん』だった。

もしかして、自分が漫画『ちひろさん』に惹かれていたのは、「クエスチョニング」的な要素を作品から感じ取っていたからなのかもしれない。

そう思ってから再度、作品を読み返し、考えたことをここに記そうと思う。

漫画『ちひろさん』に登場する、「クエスチョニング」的なエピソード

漫画『ちひろさん』には、主人公の「ちひろさん」以外にも、魅力的なキャラクターが多数登場する。そのなかでも今回は、2人の人物についての描写を掘り下げていきたい。

自分のセクシュアリティを決めつけない、漫画『ちひろさん』の主人公

まずは、漫画『ちひろさん』のタイトルロールである「ちひろさん」。

ちひろさんには、シリーズ全編を通して、どことなく「アロマンティック」らしさを連想させる描写がある。

「結婚しないんですか」「彼氏作らないんですか」という質問を他人から何度も受けて、うんざりしたような表情を見せたり。

とても好きで、居心地がいいと感じていた相手から、異性として見られているとわかった瞬間、「ブレーカーが落ちて 何かが突然終わった」り。
元風俗嬢ということもあり、気まぐれに性行為を異性に求めることもあるけれど、基本的には体の関係がない、家族のような絆を求めていたり・・・。

そういったちひろさんの特性を、「アロマンティック」あるいは「カエル化現象」などと決めつけてしまうのは、安直すぎる気がする。

なぜなら、ちひろさんには「きっと、自分のセクシュアリティやアイデンティティを定めていないのだろう」と思わせる部分があって、そこが魅力でもあるからだ。

ちひろさんは突然自分の呼び名を変えたり、偽りのプロフィールをかたって意味もなく相手を戸惑わせたり、他人から「ちひろさんはこういう人ですよね」と決めつけられることを極端に嫌ったりする。

私が漫画『ちひろさん』に、「クエスチョニング」的な要素を感じるのはこういった部分だ。

意図的に、自分のアイデンティティを決めてしまわない。
世間一般で広く使われているカテゴライズに、自分を当てはめない。

「ちひろさん」の自由さや身軽さは、「自分を枠にはめない」というちひろさん自身の性質から生まれているのではないだろうか。

クエスチョニングでいることの、自由さと可能性を教えてくれたエピソード

主人公のちひろさん以外で、私が特に好きなエピソードをもつキャラクターがいる。
シリーズの5巻ではじめて登場する、「ユキナ」という女子高校生だ。

ユキナは、彼氏と共に訪れたお好み焼き屋さんで、「ちひろさん」の友人でもある、ニューハーフの歌い手「バジルさん」と出会う。

浮気性の彼氏と大喧嘩し、店内にいたバジルさんに半ば八つ当たりのように絡みにいったユキナに対して、バジルさんは「あんな安い男捨てちゃいなさいよ あなたカワイイんだからさ」と笑顔でささやく。

そこでユキナは、バジルさんに一目惚れするのだ。

再び会えるかどうかもわからないバジルさんを追いかけ、「イイ男見つけた?」と聞いてきた友人に「(男か女かは)どっちでもイイの!! すごくカッコイイ人」と返す。

このエピソードを最初に読んだとき、私は痺れた。
なんて自由で、瑞々しくて、素敵な話だろう・・・・・・と思ったのだ。

その後、彼氏と別れてバジルさんを追い続けるユキナの様子が、とても生き生きと、幸せそうに描かれているのも嬉しかった。

きっとユキナは、バジルさんに出会うまでは、自分をヘテロセクシュアルだと信じて疑わなかったのだろうと思う。でも、バジルさんと出会った途端、直感で「この人が好きだ」と気づいた。

セクシュアリティや性別の縛りから自由になり、自分の素直な感情と向き合えるようになったのだ。

ユキナ自身は、これからこの恋を通して自分のセクシュアリティを模索していくのかもしれない。
バジルさんの性別について、「どっちでもイイの!!」と言っていたから、ユキナはパンセクシュアルなのだろうかと考える人もいるだろう。

でも、ただシンプルに「バジルさんが好き!」という想いだけを抱えて幸せそうにしているユキナの姿を見ていると、「決めなくてもいいよね」とごく自然に思う。

無理に自分を既存のセクシュアリティに当てはまる必要はない。
わからないまま、決めないまま、クエスチョニングでいていいじゃないか、と思えるのだ。

ちひろさんは、ユキナに対して「バジルさんは男の人しか恋愛の対象じゃないからね」と釘を刺しつつも、「ただし それならではの関係もある」「どうなるか全然予想がつかないけど 始めてみよっか」と言って、彼女の背中を押す。

セクシュアリティも、恋愛の行く末も、本来誰にも「予想がつかない」ものだ。

そのふり幅と可能性を認めて、自由に人間関係を紡いでいくユキナ、そしてちひろさんの描写は、読んでいる私にきらきらとした希望にも似た感覚を与えてくれた。

「クエスチョニング」のもつ可能性とゆとり

自分を「クエスチョニング」であると考えたことがなかった

漫画『ちひろさん』とクエスチョニングの関連性を考えていくなかで、身につまされたことがある。

私自身は、「クエスチョニング」という形で自分を表現する可能性について考えたことがなかった。「自分のアイデンティティを枠にはめない」ことへの、強い不安感があったのだ。

異性が好きなのか同性が好きなのか、自分のセクシュアリティがよくわからないと感じていたときも、半ば無理やり「たぶん、バイセクシュアルなのだろう」と決めつけていた。

何らかのセクシュアリティに自分を当てはめないと、不安で仕方なかった。

今では、自分のセクシュアリティを「レズビアン」だと考えているし、他人にはそのように説明することが多い。でも、セクシュアリティは時と共に変化することも多い。

知人にも、自分はシスジェンダーだと思っていたけれど、後にノンバイナリーだと表明するようになった人や、レズビアンだと言っていたけれど異性と結婚した人などがいて、セクシュアリティの(あるいは自己認識の)変化は十分にあり得ることだと教わった。

将来的に、自分のセクシュアリティがどう変化するかわからない。
どのようにもなる可能性があるし、どのようにもなれるという自由さもある。

そんなふうに、変化を当たり前のように受け止め、自分のふれ幅を許容するゆとりが、クエスチョニングというセクシュアリティからは感じられる。

私が、自分にはない魅力を「ちひろさん」に感じていたのは、その「ゆとり」の部分のことなのだろうな、と気がついた。

クエスチョニングでいることの心許なさをも受け止めてくれる、漫画『ちひろさん』の懐の深さ

漫画『ちひろさん』には、自分の性やセクシュアリティにがんじがらめになっている人物も描かれている。

たとえば、ちひろさんの元風俗嬢仲間である「すずちゃん」。

かつて風俗嬢として活躍していたちひろさんが、結婚もせずにひっそりとお弁当屋さんで働いていることに同情したり、一緒に過ごす異性のいないクリスマスイブが怖いとわめいたりする、非常に人間臭いキャラクターだ。

彼女の言動からは、「美しくて若い女性にこそ価値がある」「異性と一緒に過ごすことができる女性は勝ち組」「それができないのであれば、せめてビジネスやスポーツで抜きん出る努力をしないといけない」といった、頑なな思い込みが読み取れる。

「すずちゃん」ほど極端ではないにしても、私自身にもそのような認識があった時期がある。

誰とも付き合ったことがないなんて格好悪い、恋愛でも仕事でもいいから誰かに認められたい・・・・・・。そういう思い込みを抱えて、苦しくなってしまっていた。

かつての私自身を思わせる「すずちゃん」の焦りや不安を、ちひろさんは作中で一喝する。

「他人の背中ばっか追いかけてたら 一生自信なんか手に入らないわよ」
「そのくだらないマラソンに勝つ唯一の方法はね 走るのやめちゃうことなのよ」

ちひろさんの言葉に、すずちゃんはただ呆気にとられるだけで、ピンときた様子はない。

でも、そのセリフには「マジョリティ向けに枠にはめられた道を歩まない」「何かに属することの安心感を手放す」という、クエスチョニングを連想させる自由さが込められている。

かつての私が同じ言葉をもらっても、すずちゃんと同じく、やはりピンとこなかっただろう。

それでも、ちひろさんから感じられる圧倒的な「自信」の源にふれることで、少しずつ自分の弱さに気づいていくことができたかもしれない。

漫画『ちひろさん』は、「自分を枠にはめない」ことの自由さを説くだけでなく、そのことに不安や心許なさを感じる人の心情までもやさしく抱きとめてくれる作品だと思う。

クエスチョニングでいることの魅力を教えてくれた漫画『ちひろさん』

漫画『ちひろさん』では、ニューハーフの「バジルさん」が登場する以外に、特定のセクシュアリティがピックアップされることがない。

それでも、あえて私が「クエスチョニング」というセクシュアリティと漫画『ちひろさん』を関連づけて考えようと思ったのは、自分でも気づかなかった「無意識の恐れ」を発見したからだ。

「クエスチョニング」という言葉には、「セクシュアリティは変化するもの」であり、「すでにあるセクシュアリティに自分を当てはめなくてもいい」という考え方が込められていると思う。

私が無意識に恐れていたのは、「クエスチョニング」というセクシュアリティと向き合うことで、自分のなかの不安や心許なさを見つめ直さなければいけないことだった。

漫画『ちひろさん』は、そんな私に「自分で自分に制限をかける必要はないよ」「他人と比べず、もっと自由に、自分の感情を出していいんだよ」と語りかけてくれている気がしたのだ。

私と同じように、自分のセクシュアリティを決めなければと焦りを感じていた人や、「クエスチョニング」に興味を引かれるという人は、ぜひとも漫画『ちひろさん』を読んでみてほしい。

きっと、肩の力が抜けるような安心感に出会えると思うから。

 

■作品情報
漫画『ちひろさん』
著:安田弘之
出版社:秋田書店

 

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