SNSで目にした、『クィアフェムによる恋愛ZINE(ジン)』というタイトル。その言葉の並びと、個人でその冊子を制作したという人たちの切実な紹介文が心に引っ掛かっていた。そして先日、電子書籍でその本を読む機会に恵まれた。
「クィアフェム」という言葉との距離感
これまでよく知らなかった「クィアフェム」という存在
『クィアフェムによる恋愛ZINE』という個人冊子と出会って、まず私が感じたのは、「クィアフェムという言葉の意味を、私はよく知らない」ということ。
レズビアンを自認している私にとって、「クィア」も「フェム」も聞いたことのある言葉ではあったのだけど、「クィアフェム」というひとつながりの単語を、自分の言葉として口にしたことは一度もない。
調べたところ、ここでいう「フェム」は「フェミニン(女性的な)」とはまったく異なる意味であることがわかった。
「フェム」とは、社会や他者から強要されるような「女性らしさ」に対抗するような言葉であるらしい。
社会規範や異性からの評価を意識するのではなく、「自分自身のために」あるいは「自分が大切にしたい人間関係のために」服装やふるまい、生き方を選択していく考え方を指して「フェム」と呼ぶのだそうだ。(※ただし、個人や文献によって、定義には諸説あるとのこと)
つまり、私なりに解釈したところ、「クィアフェム」は「社会規範や多数派の考え方にとらわれず、自分らしい生き方を志向するマイノリティ」といった意味の言葉になる。
たとえば、私がただレズビアンを自認しているだけでは、クィアフェムには含まれない。
自分のアイデンティティについて、世間一般のルールに則るのではなく、自分なりの視点でとらえなおそうという意志をもってはじめて「クィア」であり「フェム」であると名乗ることができるのだ。
レズビアンである私と「クィアフェム」との距離感
『クィアフェムによる恋愛ZINE』では、クィアでありフェムであるという4人の人物が、自分のアイデンティティと恋愛観について語り合い、考えたことが記録されている。
読み始めた当初は「なじみのない単語がたくさん出てくる!」「こんなにも切実に真剣に、恋愛について考えたことって今までなかった気がする・・・・・・」という感想が先行し、少しとっつきにくい印象を受けた。
それでも私がこの本を最後まで読みたかったのは、冒頭に書かれていたある一文がどうしても気になったからだ。
私たちは、シスヘテロではない『恋愛』の話を求めていた。
社会的にマイノリティで、いわゆる「セクシュアルマイノリティ」のコミュニティでも自分の居場所を確信しきれず、自分に似た境遇・性質の人物が登場する物語にもなかなか出会えない。
そんな状況で、「自分たちのための恋愛の本がないのなら、作ってしまおう!」と4人が一念発起したというエピソードは、私の心に響いた。
難しくても、とっつきにくいと感じても、彼らの声に耳を傾けたい。
そこにはきっと、レズビアンである私自身に関連する物語も含まれているはずだ、と思ったのだ。
「レズビアン」だけじゃない、クィアフェムの性的指向
自分にとってなじみがうすかった「レズビアン」以外のセクシュアリティ
『クィアフェムによる恋愛ZINE』では、レズビアンとしての性的指向以外にも、さまざまな恋愛指向について語られている。
「デミロマンティック・デミセクシュアル」「クワロマンティック」「アロロマンティック」「グレーロマンティック・グレーセクシュアル」など。
これらの耳なじみのうすい単語に出会うたび、私は自分の恋愛観がとても狭く、偏っていることを思い知らされた。
「デミロマンティック・デミセクシュアル」とは、強い絆のある関係性においてのみ、恋愛および性愛感情を抱く性質のこと。
「クワロマンティック」とは、自分が抱く他者への好意について、友情か恋愛感情かを区別しない(できない)性質のこと。
「アロロマンティック(ロマンティック)」とは、他者に恋愛感情を抱かない「アロマンティック」の逆で、他者に恋愛感情を抱く性質のこと。
「グレーロマンティック・グレーセクシュアル」とは、恋愛・性愛感情をほとんど抱かない(ごくまれに抱く)性質のこと。
性的指向である「レズビアン」「バイセクシュアル」「パンセクシュアル」といった単語にはなじみがあっても、これら恋愛指向に関する言葉の意味を正確には把握できていなかった。
その原因は、私が「他者に恋愛感情・性愛感情を抱くのが当たり前」だとされるコミュニティに長く属していたことにある気がする。
『クィアフェムによる恋愛ZINE』を読んで思い出した、アイデンティティへの葛藤
私自身は、幼い頃から「恋愛感情」や「恋人という関係」への憧れが強く、「同じクラスの◯◯くんのことが好きかもしれない!」と勝手に盛り上がることに楽しさを感じていた。
ヘテロセクシュアル的な考え方も根強く、「自分は女の子だから、男の子を好きになる」と当たり前のように信じ込んでいた。
中学生くらいから、自分の恋愛感情が同性にも向けられることに気がつき始め、10代後半でそのことを確信してからは、「自分はレズビアンなのか、バイセクシュアルなのか?」と悩んだ。
異性にも恋愛感情を抱いたことはあったけれど、もしかしてそれは「異性を好きになって当たり前」という自分の思い込みからくる感情だったのか?
一方、「性愛感情は同性にしか抱かない気がする」と思っているけれど、そもそも私は自分の性愛感情についてきちんと把握できているのか?
この葛藤は、はじめて同性のパートナーと交際するときまで続いた。
ただ、「私は現在、同性のパートナーと付き合っていて、彼女に恋愛・性愛感情を抱いている」という事実を手に入れたことで安心して、自分のアイデンティティについて深く掘り下げようとする意志がうすれていたかもしれない。
たとえば、私は自分を「デミロマンティック・デミセクシュアル」や「グレーロマンティック」ではないと思っているけれど、「クワロマンティック」や「グレーセクシュアル」である可能性はある。
しかも、これまで私が恋愛感情だと思い込んでいたものが、「恋愛そのものへの憧れ」や「自分を愛してくれる人がほしいという承認欲求」だったとしたら、今後、私の恋愛指向は「デミロマンティック」や「グレーロマンティック」に大きく近づいていく可能性もある。
恋愛指向の概念がよくわかっていなかったために、「同性とお付き合いしているから、私はレズビアンだ」と決めつけ、思考停止してしまっていた自分に気がついて、恥ずかしいような、情けないような気持ちになった。
クィアフェムから見た「レズビアン」の世界
『クィアフェムによる恋愛ZINE』で記されている4人の座談会では、異性愛がマジョリティとなっている世界だけでなく、「レズビアン」の世界での生きづらさ、ふるまいづらさについても語っている。
クィアフェムの視点から指摘する、レズビアンの「マッチョな価値観」
私が特に衝撃を受けたのは、「レズビアンだからこそのマッチョさ」がある、という発言だった。
・レズビアン同士の恋愛において、「経済的自立」や「精神的自立」を相手から求められやすいということ。
・女性同士ならではの、「お互いに平等でなければならない」という強い圧を感じやすいということ。
そういったプレッシャーについてはっきり言及している文章に、それも「マッチョさ」というミスマッチな言葉で表現するような文章に今まで出会ったことがなかったので、まさに目から鱗が落ちるような感覚だった。
確かに、私自身もパートナーとそれらの話題で話し合ったり、時には口論のようになってしまったりすることがあった。
お互いを対等だと思っているからこそ、相手や自分の「甘え」や「寄りかかり」を察知したときに、「不平等だ」と感じてしまうことは、異性愛よりも起こりやすいのかもしれない。
社会的にきちんと保障されていない関係であり、誰しもに祝福してもらえる関係でもないからこそ、そういう些細な違和感が積もり積もってストレスになってしまう可能性はある。
レズビアンの世界で求められる「役割分担」
かつて、マッチングアプリで恋活をしていた頃、どこかで居心地の悪さを感じたことが何度もあった。
それこそ、相手に「経済的自立」や「精神的自立」を求めるようなプロフィール文に出会ったときなど、当時アルバイト暮らしで貯金もほとんどなく、恋愛経験が少ないため他者への甘え方の加減もよくわかっていなかった私は、正直かなり怯んだ。
そして、アプリでマッチングした人と直接会って話したときには、また別の違和感に遭遇した。
女性同士で会っているはずなのに、どことなく異性愛の関係でよくいわれるような「役割分担」を求められているように感じたのだ。
どちらがデートをリードして、相手をどのように扱うか。
自然と「リードする側」「される側」のような役割分担をする雰囲気が生まれ、その場でどちらかの役割を「うまく演じる」必要性を感じてしまった。
あるときは、お相手に完全にエスコートしてもらい、あるときは、自分がデートのすべてを取り仕切ったので、私は「リードする側」と「される側」の両方を体験した。
どちらの役割も、とんでもなく居心地が悪い、と思った。
同性の友人や知人と出かけるときは、もっとお互いが気遣いあい、特定の役割や責任をどちらか一方に求めるということは起こりにくいと思っていたのだけど、「レズビアン同士の恋愛」の場だとそうでもないらしい。
もちろん、それにあてはまらない人もたくさんいるのだろうけど、「レズビアンの世界でも、異性愛のような規範化した役割分担が発生する(ことがある)」というのが私には衝撃的だった。
『クィアフェムによる恋愛ZINE』の中では、「ベッド上のタチネコ(攻め/受け)が普段の生活のエスコート的なものに関わって」くることが「苦手」だという話が挙がっていて、私は前述したデートでの違和感をすぐに連想した。
私はきっと、同性との恋愛において「仲の良い友人同士の関係が発展したような形」を求めているのであって、「異性愛規範」的な関係性は求めていないのだ。
今、このタイミングで『クィアフェムによる恋愛ZINE』に出会わなければ気づかなかったかもしれない。
でも、この考え方は、私のアイデンティティや恋愛観において、非常に重要なものであるはずだ。
クィアフェムのレズビアンとして生きていくこと
『クィアフェムによる恋愛ZINE』は、非常に個人的な恋愛の話を、4人の人物が自分たちのために語りあい、模索しつづけるという内容の本だった。
最初は「自分にとって遠い存在に思えるけど、ちょっとは関係あるはずだ」という距離感で接していた「クィアフェム」という言葉が、読み終えた後にはぐっと身近になっていることを感じた。
本の中で、著者のうちの1人が「相手とコミュニケーションをとり、ひとつひとつ確認しあいながら関係を作っていく」ことについて語っていて、今の私にとってはこれが最も重要な結論だと思えた。
セクシュアリティや恋愛観、恋愛にまつわるアイデンティティは、本当に、人それぞれ違う。
だからこそ、「レズビアンとはこういうものだ」「恋愛とはこういうものだ」と思い込まず、目の前の相手と対話しながら関係を作っていくというプロセスを踏むことができたら、あらゆる関係性は幸せな形に収束していくのではないか、と思うのだ。
先入観や社会規範にとらわれすぎていた過去の自分と区切りをつけるためにも、私自身、クィアフェムとしての自覚を胸に抱きながら、これからも自問自答をつづけていきたい。
そんなふうに思えた。