連日アスリートの活躍やドラマが報道されてきたパリオリンピック。その明るいニュースの一方で、スポーツと性別について世界中で論争が巻き起こりました。前編では、女子ボクシングを巡る現状について整理し、これまでのマイノリティとスポーツの歴史を振り返りました。後編となる今回は、多様な性とスポーツの公平性をどう両立させるかについて考えます。
オリンピック・パラリンピックの人権意識
パリオリンピックの女子ボクシングに出場した、アルジェリアのイマネ・ヘリフ選手と、台湾のリン・ユーチン選手は、IOCにきちんと出場資格を認められていることを忘れてはなりません。
オリンピックは、人権尊重の祭典
IOCが採択している、オリンピズムの根本原則、規則、付属細則を成文化したものである「オリンピック憲章」。この「オリンピズムの根本原則」には、次のように書かれています。
このオリンピック憲章の定める権利および自由は・・・・・・性別・・・・・・やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。
両選手は、この原則にしがたってパリオリンピックへの出場が認められたのです。
また、前編の記事でも触れましたが、IOCは2024年8月2日に「パリ五輪のボクシング競技に参加しているすべての選手は、参加資格を遵守し、性別はパスポートに基づいている」との声明を発表しました。その一方で、IOCは両選手の性別や検査の詳細について公表しているわけではありません。
「IOCは事実をちゃんと明らかにしてほしい」とモヤモヤを抱いている人もいると思います。しかし、個人の「性のありよう」については当人が公表する決定権を有している、プライベートな事柄です。
いくらオリンピックという、世界で最も知名度も名誉もあるといっても過言ではないスポーツの祭典であっても、そのような情報を第三者として勝手に明らかにすることはNGなのです。
この点については、前編の記事でも紹介した、スポーツ史を専門とする中京大学の來田享子教授も、次のように説明しています。
(IOCは、両選手の「性のありよう」について)「プライバシーの権利の尊重」に即して、それ以上は言わないということです。
IOCとして、ボクシング女子のカテゴリーで出場できると判断した。検査をしたとしても、その詳細は公表しない。こうした姿勢は、国際的な人権基準にのっとっています。
パラリンピックの細やかなクラス分けは、今後の鍵?
スポーツと「性のありよう」について考えるとき、私はパラリンピックがヒントになるのではないかと考えています。
パラリンピックでは、どのような障害を抱えている人でも公平にスポーツで競争できるように、障害によって細かくクラス分けがされていますよね。このことは多くの人が知っていることと思いますが、そのクラス分けは各競技一律ではありません。ここが大きなポイントです。
たとえば、運動機能障害のある人が出場できるアーチェリーは、2クラス。陸上や水泳は、運動機能、視覚、知的障害など、多くのクラスが設けられています。
それに加えて、クラス分けとは視点が異なりますが、脳性まひや四肢に障害を持つ人が出場する、パラリンピック独自の種目「ボッチャ」もありますよね。
各スポーツのゲーム性や競う内容によって、出場できる選手やクラスを分けているパラリンピック。
もしかしたら今回のスポーツと「性のありよう」に関する論争を乗り越えるヒントの一つは、パラリンピックにあるのでは? と個人的には感じています。
近年の、多様な性とスポーツの関係
多様な性とスポーツを巡る議論は、今回初めて “噴出” したわけではありません。
テストステロンの値で決めることは有用なのか
東京オリンピック2020で、ニュージーランドのウエイトリフティング選手、ローレル・ハバードさんが、トランスジェンダー女性として初めてオリンピックの女子87キロ超級で出場しました。それ以降、多様な性に対してスポーツ業界ではどのような対応がなされているのでしょうか。
よく聞かれる基準は、男性ホルモンのテストステロンの値です。女子枠で出場する場合には、値を基準値より下げるよう求められます。テストステロンの値が高いと、筋肉量が増えると言われているためです。
しかし、前出の來田教授は、性分化疾患の場合はテストステロンにほとんど反応しないケースもあり、筋肉量に直結するとは限らない、と慎重な見方を示しています。
出場者の厳格化と開かれた枠の設置・・・模索中の運営組織
テストステロンの値よりも、より厳格なルールを設ける組織も出てきました。
たとえば、国際水泳連盟は2022年、トランスジェンダー女性の選手が男性の思春期の一部を経験していた場合、女子のエリートレベルの競技会への出場を認めないと決定しました。また、同様に世界陸上連盟も翌年、男性として思春期を過ごしたトランスジェンダーの選手が、女子の世界ランキング大会への出場を認めないとしました。
個人的には、これらのルールは、トランスジェンダー当事者の選手が自分のセクシュアリティに沿った生き方をすることを妨げる、厄介なものだと思います。思春期こそ、自分のセクシュアリティをオープンにすることが難しい、センシティブな時期です。
まして、スポーツでの自己実現を目指しているトランスジェンダー当事者からすれば、出場権を得るためにホルモン療法の開始を断念し、自分のセクシュアリティに蓋をする人のほうが、むしろ多いのではないかと思います。
一方、国際水泳連盟は、2023年のワールドカップでトランスジェンダーの選手も出場可能な「オープン」というカテゴリーも用意しました。ただ、このときにはエントリーした選手はいなかったそうです。
シスジェンダーであり、かつ性分化も定型発達である選手と、そうではない選手。双方に配慮した上での対応であることは分かります。ですが、現状「オープン」カテゴリーにエントリーしただけで「トランスジェンダーの選手なのではないか?」と見られる可能性のある以上、セクシュアリティを全世界にオープンにする覚悟ができていなければ、「オープン」カテゴリーにエントリーするハードルはとても高いでしょう。
「男性として思春期を過ごす」とは?
国際水泳連盟や世界陸上連盟の言う「男性として思春期を過ごす」とは、具体的にどのようなことを想定しているのでしょうか。性分化疾患を抱える選手の場合、性自認が男女のどちらかではっきりしていれば、特に問題なく証明できるかもしれません。ですが、トランスジェンダー当事者にとっては難しいはずです。
もちろん、あるトランスジェンダー女性の選手が水泳や陸上の世界大会に出場を希望した際に、個別に吟味・判断されるものとは思います。当人への確認のほか、家族や、思春期を過ごした学校などのコミュニティに聞き取り調査を行うのかもしれません。ジェンダークリニックに通っていたかどうかも、判断の目安になるでしょう。
ただ昨今は、アビゲイル・シュライアー著、岩波明監訳、村山美雪ほか訳『トランスジェンダーになりたい少女たち』(産経新聞出版、2024年)が話題になるなど、10代からトランスジェンダーとして性別移行治療を受けることに対して懐疑的な視線が強まっています。
トランスジェンダー当事者だと自認するティーンエージャーが声を上げて、自分のセクシュアリティに沿った生き方を送ることは、かなり難しいのではないでしょうか。
多様な性とスポーツの関係を見直す
多様な性を認めることと、スポーツで男女二元論を推し進めることは、たしかに矛盾しているかもしれません。
多様な性が認められている世界で、スポーツの男/女の区分は雑?
ここまで、多様な性とスポーツの関係を見てきました。私はこれらをふまえると、多様な性への理解が広まりつつある現代社会で「男/女」でスポーツを分けることが限界なのかな、と感じています。
來田教授も「競技の面白さを裏打ちする公平なカテゴリーとは、「男/女」で分けることなのか。見つめ直す時期にきているのではないでしょうか」と疑問を呈しています。
また、スポーツ社会学を研究している立命館大学の岡田桂教授は、次のように語っています。
先進国の多くが、性別はアイデンティティーに基づいて変更できるという社会にかじを切ったわけです。社会の価値観がそうであるのに、スポーツだけ違うことを続けるというのは難しいと思います。
「スポーツだけは違う」としたいなら、スポーツは「大昔にできた伝統芸能のようなもの」という扱いで社会の常識から切り離し、価値を切り下げていくべきだと思います。
たとえば、大相撲は日本で行われている男性のスポーツ競技で、女性の参加は認められていません。
力士がオリンピックなどの国際大会に出場することはありませんが「そういうもの」として皆受け入れていますよね。
岡田教授の「スポーツは伝統芸能のようなもの」という扱いにして社会の常識から切り離す、という発言は、ほかのスポーツも大相撲に近いような存在にするということかな、と私は解釈しました。
スポーツの「価値」を下げる
岡田教授は次のように発言し、スポーツ業界でトランスジェンダー女性に向けられる厳しい視線の原因について、スポーツの価値が大きすぎるからだとしました。
いまは社会におけるスポーツの価値が大きくなりすぎています。(中略)スポーツに秀でていれば有名大学に推薦で入れるし、大企業にも就職できる。スポーツで勝つことの意味が肥大化しているからこそ、「トランス女性は有利になるからずるい」という発想につながるわけです。
オリンピックアスリートではないですが、ロサンゼルス・ドジャースと破格な年棒で契約した野球の大谷翔平選手のことを考えると、たしかにスポーツの価値は大きくなりすぎているのかも、と考えざるを得ません。
一方で、それだけスポーツに価値があると皆が思っているからこそ、連日のようにオリンピックの結果が報道されて、サポーターや視聴者は手に汗を握って応援したわけです。それを考えると、岡田教授のスポーツの価値を切り下げるという考えは、なかなか世間には受け入れてもらえないのでは? とも思います。
多様な性を認めつつ、スポーツの公平性を担保するには
多様な人たちの公平なスポーツ参画を実現させるためには、クラス分けもやはり多様であるべきではないでしょうか。
「男/女」だけで分けない考え方を各競技で模索
日本でも「LGBTQ」の理解度が広まって久しくなった、と言えるくらい、多くの人が多様な性に関心を寄せるようになった現代社会。「トランスジェンダー」と一言で表しても、各々の性自認や治療の進行度はさまざまです。
また、前編でも取り上げたように、多様な性のなかに含まれる「性分化疾患」の状態も、その人によって異なります。
生活上では多様な性の存在が認められているのに、スポーツでは「男/女」しか存在しない・・・・・・。この矛盾を解決すべき段階に、まさに今差し掛かっているのだと思います。
ですが、どの競技も「男/女/オープン」で分ければよい、という単純な話でもないのでは? というのが、この問題の難しいところです。
そこでお手本にすべきなのがパラリンピックだと、私は考えています。パラリンピックでは各競技に出場できる障害者も異なりますし、その区分も細かく分けられています。それと同じように、各競技でどのような区分けが適切か、検討とブラッシュアップが重ねられる必要があると思うのです。
ただ、この方法だと、各クラスの競技人口は減少するので、ひいてはスポーツの価値を切り下げることにもつながるかもしれません。
スポーツの価値が下がったとしても、多様な人々の参加を受け入れて公平性を担保するのか。一部の人々を排除して「伝統芸能」化させるのか。今、私たちはそのような選択を迫られた、シビアな状況に立たされているのだと思います。
多様な性とスポーツの両立のヒントは、混合種目にも
スポーツと「性のありよう」に関する論争を乗り越えるヒントとして、パラリンピックのような「細かいクラス分け」のほかに、私はもう一つの方式に注目しました。
パリオリンピックで増えた、男女がチームやペアを組んで争う「混合種目」です。
これを「男女同数」などと性別二元論的に考えるのではなく、性別を超えた種目として増やしていけば、マイノリティでもスポーツに参加しやすくなるのではないでしょうか。
「男女同数に限定しないなら、どうせ男性だけのチームになるだろう」と考える人もいると思います。しかし、改めてさまざまなスポーツの種目に目を向けると、逆に「女性のスポーツ」とされているものもあるのです。
たとえば、アーティスティックスイミング(シンクロナイズドスイミング)。今までは女性選手しか出場資格のない種目でしたが、パリオリンピックからは男子選手が2人までエントリーできることとなりました。
ただ、男子のアーティスティックスイミング選手はやはり数が少ないようで、パリオリンピックでは男子選手の出場はなかったそうです。一方で、すでに世界選手権では、男女でペアを組む混合デュエットなどが行われているとのこと。
アーティスティックスイミングのように、性別二元論という垣根を超えたスポーツ種目が、多様な性のマイノリティにも開かれるようになれば、トランスジェンダーや性分化疾患のアスリートに対する見方も、また変わってくるのではないでしょうか。
■参考情報
・最新のオリンピック憲章(公益財団法人日本オリンピック委員会)
・【東京パラ】 選手たちのクラス分け 競技ごとに説明(BBC NEWS JAPAN)
・【東京五輪】 初のトランスジェンダー選手、重量挙げで記録なし 英選手が銀
・ボクシング女子、性と出場資格めぐる議論 「公平性」模索の歴史(朝日新聞)
・水泳=W杯にオープンカテゴリー新設、トランスジェンダー選手参加可(ロイター)
・世界陸連、トランスジェンダー女性の女子種目出場を禁止(BBC NEWS JAPAN)
・激化するトランス女性へのバッシング スポーツ参加は「ずるい」のか(朝日新聞)
・男女混合が20種目に ジェンダー平等へと向かうパリ五輪(NHK)