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Writer/きのコ

ポリアモリーは ”誠実” で、浮気は “不誠実” なのか?

複数の人と同時にそれぞれが合意の上で性愛関係を築くライフスタイル「ポリアモリー」。不誠実な浮気とはちがって、ポリアモリーは誠実だと考える人もいる。しかし、ポリアモリー当事者の1人である私は、この「誠実」という定義にモヤモヤを感じることもある。その理由について考えていきたい。

ポリアモリーは「誠実」な恋愛?

誠実ってどういうこと?

ネット記事などで「誠実な複数恋愛」と表現されることもある、ポリアモリー。そのこころは “不誠実” な複数恋愛である浮気とは違う、ということらしい。だけど私はこの「誠実」という定義に、なんとなくモヤモヤを感じていた。

誠実って、とっても主観的で抽象的な概念のように思える。お付き合いにおいてどう振る舞うことが誠実なのかは、人によって解釈が異なるもの。そのような曖昧な言葉でポリアモリーを定義すると、いろいろな誤解を生んでしまうのではないだろうか。結局「誠実」ってどういうことなのだろう?
今回は、誠実ということについて、そしてポリアモリーを定義することの難しさについて、考えてみたいと思う。

誠実な人はもはや人間離れしているのでは

ネット上では、いわゆる「誠実さ」として以下のような特徴がよく挙げられているようだ。

●嘘をつかない
●公平さを大切にする
●仕事に対して真面目に取り組む

余談だが、ネットで見つけた「誠実な人の特徴・行動27選」という記事には、タイトルの通りなんと27個もの “誠実さ” が示されていて、思わずのけぞってしまった(「モノを大切にする」とか「品がある」って誠実さなんだろうか・・・・・・)。

ここまで来ると、誠実な人ってもう人間離れした聖人君子というか、なんか誠実な人って大変そう、などと頭を抱えてしまう。

精選版 日本国語大辞典によると「せいじつ【誠実】」とは「① まごころがあっていつわりがなくまじめなこと。 また、そのさま。 ② ほんとうであること」だそうだ。

噛み砕いていうならば、ポリアモリーとは「真心があって偽りがなく真面目な複数恋愛」ということになるのだろうか。「偽りがない」はともかく「真心がある」や「真面目」というのも、やっぱり割と主観的な表現だなぁとは思うのだけれど・・・・・・。

海外における「ポリアモリー(Polyamory)」と「誠実」

海外における「Polyamory」という単語の意味にも目を向けてみたい。

Oxford Languagesによれば「Polyamory」は ”the practice of engaging in multiple romantic (and typically sexual) relationships, with the consent of all the people involved.” と説明されている。「関わる人々全員の合意を得て、複数の恋愛的な(とりわけ性的な)関係を結ぶという実践」といったところか。ここにはいわゆる「誠実」に相当する言葉は見つからない。

WikipediaにおけるPolyamoryの解説に使われている「honesty」とか「integrity」という単語は「誠実」と翻訳されることもあるけれど、少なくとも英語で説明されるPolyamoryにおいては「誠実」が第一義的な要素ではないように見える。

ポリアモリーが誠実か否かより重要なこと

「誠実だからポリアモリーを選んだ」わけではない

私が言いたいのは、ポリアモリーが誠実か否かということではなく、そういった何か美しい概念でもってポリアモリーを “神格化” してしまうのってしんどくない? ということ。

ポリアモリーは誠実で美しい生き方だ、という言い方をあまりにも推し進めてしまうと、「ポリアモリーはモノガミーより優れている、モノガミーはポリアモリーより劣っている」という表現に繋がりかねない。

それはポリアモリーとモノガミーとの間に無用な対立を生むのではないか、と私は考えている。ポリアモリーに生きるかモノガミーに生きるかは、対等な選択肢として、誰もが自分にとって心地よい方を好きに選べばよいと思う。

ポリアモリーの私は誠実なのか?

それに、ポリアモリーな生き方をしている人は誠実だ! 素晴らしい立派な人間だ! と思われることにも、私個人はちょっと違和感がある。私自身は、何も “誠実だから” ポリアモリーな生き方をしよう、と思っているわけではない。

私は「複数の人を好きになる」人間だし、同時に「嘘をつくことが下手で、不器用で、苦痛に感じる」人間でもある。その二つの性質を押し殺さずに生きようと思うと、複数の人を愛することができて嘘をつかずに済むポリアモリーという生き方のほうが「楽」だと感じるのだ。

ここまで書いてきて、つくづく、ポリアモリーを定義することって難しいな・・・・・・と感じる。「ポリアモリーの定義って何ですか?(特に「浮気とどう違うの?」という意味で)」という質問はよくいただくけれど、そのたびに、どう答えたものか悩む。

ポリアモリーかどうかは重要ではない

定義を細かくしすぎると、その定義からこぼれ落ちて苦しむ人が増えるかもしれないし、かといって定義を曖昧にしすぎると、自分に都合よく解釈して他人を傷付けてしまう人がいるかもしれない。もちろん定義も大切だけれど、その議論にばかり気をとられて、ポリアモリーというあり方が何を目指しているのかという本質を忘れてはならない、と思う。

私が思うに その本質とは、パートナーシップに関わる人たちが傷付かずハッピーな状態 を目指すということ、そのためにはコミュニケーションが必要だということ、そしてコミュニケーションのあり方に唯一の正解なんてないということ。

よりよいパートナーシップを求めてよりよいコミュニケーションのあり方を模索していくということさえ忘れなければ、それが第三者から見て「ポリアモリー」と呼べるかどうかは重要ではなくなってゆくのではないか。

ポリアモリーという概念を定義することは、第三者にポリアモリーを伝えるうえで、もちろん必要なことだ。しかしパートナーシップそのものにおいては「私たちの関係性がポリアモリーなのか否か」は、それが誠実かどうかも含めて、必ずしもYesかNoかを決めなければならない問題ではないと思っている。

 

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