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Writer/雁屋優

多様なマイノリティ性からカミングアウトを考える

私は、いくつものマイノリティ性がある。アルビノ、発達障害、うつ病、Xジェンダー(ノンバイナリー)、そして、アロマンティック/アセクシュアル。そのなかには、言わなければわからないものも、言わなくても自然と相手に知れてしまうものもある。「隠せる」マイノリティ性、「隠せない」マイノリティ性のはざまで生きてきた自身の過去を振り返りながら、マイノリティ性を「隠す」こと、カミングアウトについてを考える。

私のマイノリティ性について

私には、いくつものマイノリティ性がある。そして、それらはそれぞれ隠しやすさ、カミングアウトのしやすさにおいて、差が存在している。

見てすぐにわかるアルビノ

私に初めて会った人がすぐに気づくことがある。それは、私が「ふつう」の人々より髪や目の色素が薄いことだ。これは、アルビノ(眼皮膚白皮症)と呼ばれる遺伝疾患によるものだ。

アルビノは国の指定難病であり、近年は「ふつう」と違う見た目の人々が直面する「見た目問題」の原因疾患の一つとしても注目されている。東京パラリンピックで、トライアスロン女子の視覚障害の部でスペインのスサナ・ロドリゲス選手が金メダルを獲得したことをきっかけに、アルビノは弱視を伴うことがあると知られ始めている。

アルビノの私は、難病患者、視覚障害者、遺伝疾患の患者、「見た目問題」当事者と多くのカテゴリに属することになる。アルビノは難病に指定されて日が浅いため、難病患者の自覚はあまり芽生えていないが、事実として、私は難病患者だ。

アルビノであることを「隠す」のは、かなりの困難を伴う。髪を染めるだけでなく、眉や睫毛までも染め、カラーコンタクトレンズで瞳の色を隠さなくてはならない。そうしても、肌は明らかに他の人より白い。

弱視を伴う人の場合は、見えにくさを隠し、見える振りをしなければならない。とはいえ、見える振りはあまり有効でない。よく観察すればそれとわかってしまうからだ。

髪を黒染めすることを自ら選択する当事者もいるが、私自身は、自分の髪の色が気に入っているので、進学や就職で不利にならないために黒染めしようと考えたことはない。私は、常に「アルビノです」と看板を掲げて歩いているに等しい。

隠そうと思えば隠せる、私のありよう

そんなアルビノとは正反対に、隠すのが比較的容易なマイノリティ性も持ち合わせている。発達障害、うつ病、Xジェンダー(ノンバイナリー)、アロマンティック/アセクシュアルは、隠そうと思えば、隠せるマイノリティ性だ。

発達障害に関しては、振る舞いや考え方から、「もしかして」と思われることもままあるが、それでも、言わなければ相手には知られずにすむ。Xジェンダーやアロマンティック/アセクシュアルについては、私の場合、言わなければ隠し通せる。

女性用トイレや女性更衣室を使うことに大きな抵抗もないし、シス女性を演じることには慣れている。恋愛をしたり、他者に性的な魅力を感じたりするセクシュアルマイノリティであれば違うかもしれないが、だからといってアロマンティック/アセクシュアルであるとカミングアウトしなければ困る、行動からそうと知れる、といった状況には私はさほど遭遇していない。

「面倒だから隠さない」と「面倒だから黙っておこう」

アルビノのことを隠すのは、前述の通り非常に面倒だし、障害への理解が得られない、サポートを依頼できなくなるなど、具体的な不利益が発生する。発達障害やうつ病については、仕事において隠すことの不利益と隠さないことの不利益を考え、隠さずにカミングアウトすることが多い。

そして、セクシュアリティについては、こういった内容の記事を執筆するのでない限り、隠している。まあ、勘づかれないように気を張るほどではなく、聞かれるまで言わないという程度の隠し方なのだけど、隠してはいる。科学系の記事を執筆するのに、私がXジェンダーとか、恋愛をするとかしないとか、そんなことは関係ないから。

本音は、言わなくても話が進むときにカミングアウトする方が面倒だからに尽きるのだ。あれこれ聞かれて答えるのは、とても面倒くさい。だから、私はセクシュアリティについて基本的に人に明かさない。

サポートを得るための、カミングアウト

数多くのマイノリティ性を場面に応じて、使い分けて生きてきた。そうでないと、理解が得られないから。

楽することを第一にするスタンス

この辺りで、私の基本的なスタンスを明確にしよう。私は、自分が楽をできる方法を取っている。カミングアウトの話をマイノリティ性のある人とすると、妙に噛み合わなくなってしまう。

きっと他のマイノリティの人達も、楽に生きたいと思い、カミングアウトについて考え、話しているだろう。それなら、共有できるものがありそうなのだが、私の考えとは微妙に異なっている。

私が考えている「楽に生きる」は、職務の遂行をはじめとした収入を得るための過程で、不利益がないこと。しかし、他の人は良好な関係を築いている人々との関係性も含むらしい。それゆえに、私のカミングアウトの話は、他のマイノリティの人達に首を傾げられることがよくある。

カミングアウトは、手段だ

私にとって、自分のマイノリティ性のカミングアウトは、サポートを受けるための手段だ。弱視があり、配布資料を拡大してもらったり、スライドや黒板を見やすい位置にいさせてもらったりする必要がある。だから、「視覚障害があります」と言い、見え方やその対処法を話す。私のありようを理解されたいからカミングアウトするのではなく、不利益を解消するためにカミングアウトするのだ。

この考え方でいくと、私は、Xジェンダーやアロマンティック/アセクシュアルについて、カミングアウトする必要がほとんどないことになる。ごくまれに、カミングアウトしないことで、誤解を与えてしまう場面が発生し、その際にはカミングアウトしたが、基本的に明かす必要には迫られないで生きてきた。

今の環境において、私はセクシュアリティを明かさない

誤解しないでほしいのだが、Xジェンダーやアロマンティック/アセクシュアルにサポートがいらないと言っているのではない。Xジェンダーやアロマンティック/アセクシュアルの観点で、単に私が他人にサポートを依頼する必要に迫られていないだけだ。

環境が変われば、私だってサポートを必要とするかもしれないし、私と同じ環境でも、カミングアウトしてサポートを受けることを望む人はいるかもしれない。

現在身を置く場所で、セクシュアリティを明かさないと私個人が判断したに過ぎない。

LGBTをはじめとしたマイノリティ性は隠した方が何かと楽

サポートが必要だからカミングアウトしてきた私には、納得のいかないことがある。それは、LGBTなどのマイノリティ性を隠すことへの罪悪感の話だ。

「LGBTである自分を偽って生きるのがつらい」のは理解できる

カミングアウトについて考えていた頃、私はLGBTに関するサイトで、LGBT当事者の書いた文章を多く読んだ。自分の知らないセクシュアリティもあり、性自認や性的指向、つまりセクシュアリティの多様性に驚いたものだ。

そのなかに、「自分を偽って生きるのに耐えられなくなり、カミングアウトを決意した」というものがあり、これについては理解できた。そして、シス女性の振りをするのに慣れてはいるけど、シス女性そのものの振る舞いを要求されることには疲れるし、恋愛をしないのに恋愛対象としてカウントされることは正直不快だ。

カミングアウトしない場合、それはそれで窮屈な生活が待っているのだ。だからカミングアウトする。それは、理解できた。

「隠していることに罪悪感」は未知の感覚だった

LGBT当事者の書いていた、「自分のセクシュアリティを親しい人達に隠していることに罪悪感がある」は、私にはない感覚だった。今もない。私は、自分のマイノリティ性を隠すことに罪悪感を覚えたことはない。どこでどれくらいカミングアウトすべきか、しないべきか、常に利益と不利益を天秤にかけている。それだけのことだ。

未知の感覚なので、それらの文章を読みこんだ。「相手は自分を信頼してくれているのに、自分は信頼していないみたいだ」「親しい人達に本当の自分を知ってほしい」といったことが書いてあった。後者の感覚は多少想像がつくし納得もできたが、前者については、「それは違う」と思った。

LGBT当事者のカミングアウトのリスクは、どこから生じているのか。それは、この社会そのものだ。セクシュアリティを明かすのに勇気がいるのは、LGBTであると他者に知れると差別的取り扱いを受けるリスクが高いこの社会のせいだ。

親しい人達にも嘘をつかないと安心できない状況が、この社会にはある。それなのに、LGBT当事者自身が、親しい人達に打ち明けないことに罪悪感を抱く必要なんか、ない。

信頼できないのは社会そのもの

親しい人達を信頼しているか否かではなく、この社会を私は信頼できない。LGBT当事者であると明かしたときに、刃を向けてこない保証なんかないと思っている。刃を向けられるは言い過ぎと思うだろうか。“ゲイと言ってはいけない法案” は実在するし、日本では同性婚はいまだ法制化されていない。

そんな社会を恐れるなというのは、無理筋だ。

カミングアウトも隠すのも両方疲れる

ではカミングアウトするべきなのか、しないべきなのか。答えは人の数だけあると思う。

カミングアウトも隠すのも、疲れる

私は、「カミングアウトしていくべき」とも、「カミングアウトなんかしない方がいい」とも言わない。状況に応じて、利益と不利益を見極めることが大事だとしか言えない。

アルビノを隠すのは、私にとって不利益の方が大きかった。セクシュアリティを隠すのは、私にとって利益の方が大きかった。

でも、そんなこと考えて行動するのは、とても疲れた。だからって、考えなしに他人とやっていけるほど、この社会は安全じゃない。

「否定するなら、いらない」

カミングアウトするにせよ、しないにせよ、一つたしかなことがある。私のありようを否定し、自分の望むように私を変えようとする人は、いらない。そもそも私はそんな人との関係性を築きたいと思わない。

カミングアウトはゴールではなく、生きやすくなるための選択肢なので、自分に合った使い方をしていければいいのではないだろうか。私はこれからも、自分を大切に、生きていく。

 

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