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Writer/チカゼ

ノンバイナリーをカミングアウトして数年経った今、ぼくが望む世界とは

「出会いと別れの季節」と呼ばれる、春。毎年この時期になると、ぼくはかつての友人たち──今はもう疎遠になってしまった彼らに想いをはせる。彼らと関係を継続できなかった理由の大半は、「カミングアウトに失敗したから」だった。

「普通」になりたかった学生時代

ノンバイナリー・パンセクシュアルのセクマイ当事者であり、日本と韓国とロシアのミックスで人種マイノリティ当事者でもあるぼくは、常に秘密を抱えたまま学生生活を送っていた。

人種とセクシュアリティが原因でいじめに遭ったこと

親の意向でお嬢様女子校に入学したものの、いじめに遭って中学2年生のときに転校した。いじめの主な原因は、人種によるものだった。当時ぼくの国籍は韓国で、書類上では在日コリアン3世だか4世であり、父親の命令で日本風の通称名ではなく本名の韓国名を名乗っていた。

一目でそれとわかる名前が、ぼくはとても嫌いだった。その卑屈さも、同級生や教員たちの根本的な差別感情をあおったのだろう。いつしか人種にまつわるものだけでなく、ぼくの他の要素にまで攻撃が及ぶようになった。

「なんでちゃんと足を閉じて座れないの?」
「なんでそんなに髪を短くするの?」
「言葉遣いが男みたい」

ノンバイナリーという単語こそ知らなかったものの、自らの性別違和は物心つく前からうっすらと自覚していた。うまく説明できないけれど、どうにも自分を「女の子」とは思えない。その感覚は、思春期に入って初潮が来たころにはもう確かなものになっていた。

“女性らしい所作” を極端に嫌悪し回避し続けた結果、それも周囲の癇にさわったらしい。ぼくの一挙手一投足を執拗になじった奴らの醜悪さは、おそらく生涯忘れることはないだろう。

そのため中2の秋に指定制服のない中高一貫校に転校が決まったときは、心底安堵した。転校先ではスカートを履かなくていいから、「ボーイッシュな女の子」の隠れみのを持つことができる。そして父親がしぶしぶ「日本名」使用の許可を出したから、人種で悪目立ちすることもない。

これからはもう、「普通」に生きていける。そのときはそう確信していた。

「普通」じゃないことを、ひた隠しにしていた

元来明るく元気で社交的なタイプだったし、新しい学校ではそこそこうまく立ち回ることができた。「ボーイッシュな女の子」と「日本名」、このふたつの盾を手に入れたぼくは、生まれ変わったように無敵だった。

親しい友だちもできたし、尊敬する恩師にも出会えたし、恋もした。しかしながら人生で初めて出会った大切に想える人たちのほとんどだれにも、本当のことは打ち明けられなかった。そのころ、ぼくは自分が「普通」ではないことを悟られまいと必死だった。バレたらみんな離れていくはずだと、思い込んでいたから。

最初はそれでいいと思っていたのだ。隠した上でうまくやっていけるのなら、安寧な世界で生きていけるのなら、それに越したことはない。けれどもひた隠しにする一方で、寂しさは募った。

「ノンバイナリー・日韓露ミックス」という最大の秘密

だれにも秘密を打ち明けられなかったあのころ、ぼくは常に世界の隅っこでひとりぼっちのような気がしていた。

「普通の女子」が望むものを、理解できない

人種や国籍だけでなく、性の在り方も「普通」でないなんて。なぜ自分には、隠すべきことがこんなにもたくさんあるんだろう。なぜ自分はここまで徹底的に、みんなと同じになれないんだろう。

親しくなればなるほど、好きになればなるほど、ますます相手に本当のことを言い出せなくなっていく。秘密を抱えるということは、些細な会話でも嘘をつき続けるということだ。

中学生のとき、「胸を大きくするストレッチ」が女子の間で流行っていた。胸の前で両手を合わせるポーズをすると、バストアップするというもの。その効果はさておき、だいすきな友だちに「チカゼも一緒にやろうよ!」と笑顔で誘われるのが苦痛だった。

いや、だってぼく、胸をおっきくしたいだなんて1ミリも思ってないし。むしろ膨らみを増していくこのふたつの異物が、気持ち悪くて仕方ないんだけど。

でもそんなこと、とうてい口には出せなかった。口に出すことさえいけないと思っていた。もちろんその当時のみんなの本音などわからないが、少なくともぼくの見る限り、ぼく以外の「普通の女子」はみんな大きい胸を欲しがっていた。それを「いらない」と突っぱねることはすなわち、“自分は「普通」ではない” と明言することと同義なのではないか。そんな不安が、胸の内をぐるぐると渦巻いていた。

「ノンバイナリー・日韓露ミックス」という最大の秘密

その子にとっては単なる自虐的なおふざけで、強要してきたわけでもぼくをからかう意図があったわけでもない。しかしぼくはいつも、あいまいに笑ってその場をごまかし逃げ続けた。

仲良しの友だちの間のみ交わされる、ちょっとした冗談。それに参加できないことが、とてつもなく寂しかった。それでも「大きな胸を望んでいる」と見なされることに堪えてまで、そのノリに乗っかることもできない。

本当はいつだって、吐き出してしまいたかった。

ぼくは胸が膨らむことがきつくて辛くて泣きたいほど嫌で、生理のあるこの身体が窮屈なんだよ。3カ国の血が混じっていて、国籍は韓国なんだよ。しかし、「ノンバイナリー・日韓露ミックス」という最大の秘密を打ち明けてもなお、その子が友だちのままでい続けてくれる保証などない。

こんなに心を通わせられる友だちなのに、彼女とは常に薄膜一枚で隔てられているように感じていた。

「ノンバイナリー・日韓露ミックス」をカミングアウトした結果

卒業後も思春期を共に過ごした彼らとは、変わらず頻繁に連絡を取っていた。そして付き合いが長くなるにつれ、秘密を抱えたままでいる罪悪感は増していった。

カミングアウトの準備と、その結果

今後もずっと彼らと付き合い続けるのであれば、どこかのタイミングで本当のことを言いたい。そう決心してからは、いっそう彼らの本質を探るようになっていった。この子はK-POPが好きだと言っていたな、じゃあ大丈夫かもしれない。あの子はBLや百合をよく読んでいたな、じゃあ大丈夫かもしれない。

何気ない会話やこれまでの付き合いで把握していた趣味嗜好から「カミングアウトできるかどうか」を入念に調査し、小出しにその手の話題を振って反応を確かめ、確信を得てからようやっと打ち明けた。

カミングアウトした反応はさまざまで、「へえ、あっそう」で終了する子もいれば、「言ってくれてありがとう、でもこれまでとは何も変わらないよ!」などという、手垢まみれの台詞で大仰に慰めてくれる子もいたのだけど。30歳を迎えた今、ぼくの周りに残っていてくれるのは、前者の子たちだけだ。

ノンバイナリーも日韓露ミックスも、「だから何?」がちょうどいい

意を決して打ち明けたにもかかわらず「へえ、あっそう」で終了されたときは、正直めちゃくちゃ拍子抜けした。「一世一代のカミングアウトなのに、それでおしまいなの?!」とだいぶ驚いたし、あまりの素っ気なさにぶっちゃけ不満すら覚えた。

でも後になって当時の彼らの心境を聞いたとき、不覚にも目頭が熱くなってしまった。翻ってそれらの反応は、彼らが真剣にぼくを想ってくれていたゆえの、そして真にフラットでニュートラルな思想を持っているがゆえのものだったのだ。

彼らとぼくが、友だちでいること。お互いに大切に想っていること。彼らにとっては、単純にそれがすべてだったのだ。「驚かなかったといえば嘘かもしれないけど、これからも一緒に遊んだりする上でそんなに重要な情報だとも思えなかったんだよね」と決まり悪そうに肩をすくめるあの子の顔を、今でもありありと思い出すことができる。秘密を抱えていた後ろめたさが、そのときすうっと溶けていったことも。

ノンバイナリー・日韓露ミックスであることを特別視した彼らとは

「ノンバイナリーでも日韓露ミックスでも、これまでとは何も変わらないよ! 打ち明けてくれてありがとう」と、使い古された言葉をかけてくれた彼らとのその後にも、言及しておきたい。結論から言うと、その全員と今は疎遠になっている。べつに激しい喧嘩をしたわけでも、決定的な決裂があったわけでもない。ただ長い年月をかけて、自然と縁が腐り果ててしまっただけ。そういうのって特段めずらしくはないし、大人になると往々にして起こりうることだ。

「俺は偏見とか一切ないから!」と声高に主張した彼にも、「あなたはすでに帰化してるし、ほとんど日本人だから大丈夫だよ!」と慰めた彼女にも、悪気なんて一切ない。でも、かつての友のその台詞に潜む無意識下の差別感情は、ぼくには容易に嗅ぎ取れた。

「偏見がない」とあっさり言い切ってしまうその軽薄さも、複雑に絡み合ったルーツを伝えた上でなお「日本人だから大丈夫」だと言ってのける思考回路も、たぶんずっと呑み込みきれずにいたのだ。だからこそ長い年月をかけて、彼らを愛する気持ちが壊死していったんだと思う。(ところで「日本人」だったらいったい何が「大丈夫」なんだろう? ぼくは自分のことを「日本人」だとは一言も言ってないし、そもそも「外国人」は「大丈夫じゃない」んだろうか)。

カミングアウトの要らぬ世界がほしい

社交的だが社会性の皆無なぼくは、そもそも人付き合い自体があまり得意じゃないし、現在も関係の続いている友だちは片手で足りるほどしかいない。それに不満などないし、彼らのことは心から愛している。それでもときどき、頭をかすめるifがある。

カミングアウトできずにいたことで、失ったもの

もしぼくがノンバイナリーでも日韓露ミックスでもなく、カミングアウトする属性をひとつも持たずに生まれてきていたら。果たしてかつての友とは、今どうなっていたんだろう。そんなこと考えても仕方ないし、人生に「もしも」はない。わかっているけど、たまにどうしようもなくやるせなくなってしまう。

「カミングアウト」という儀式がもたらす弊害は、友との決別だけではない。パンセクシュアルであるぼくは、26歳のときにシス男性と法律婚をした。東京都の初婚平均年齢は2020年の厚生労働省のデータによるとだいたい30〜32歳くらいだから、現代ではそこそこ早いほうだったと思う。

当時仲良しの友だちの中には、機会を逃し続けてセクシュアリティも人種もカミングアウトできていない子たちが数人いた。そのため結婚式の際、悩んだ末にその子たちの招待を諦めてしまった。親族の中には日本名以外の名前──韓国名やロシア名を名乗っている人もいるので、説明なしで混乱を招くことが不安だったからだ。そのことを、今でもぼくは引きずっている。

結局二次会から参加してくれた彼ら(式後にようやくカミングアウトできた)は「タイミングってものがあるんだからしょうがないよ」と笑って許してくれてるし、「自分のときはあなたを式から呼ぶし、ちゃんとご祝儀ちょうだい」と冗談を飛ばしてくれているけれど。振り返るたびに、苦い思いが込み上げる。

カミングアウトのない世界にしていきたい

30歳という人生のひとつの節目を迎えた今、次の世代に想いを馳せる。ぼくが願うのは、マイノリティが「カミングアウト」する必要のない世界だ。そんなの理想論だし、机上の空論かもしれない。だけどぼくは、こっちのほうがLGBTQ+のカテゴリを無くすよりもはるかに重要な気がするのだ。

セクシュアリティのカテゴリ自体は、必ずしも無くしていく必要はないと個人的には考えてる。だって自分を説明する言葉って、あったら単純に便利だし。邪魔なのはそこにまつわる偏見で、カテゴリ自体が差別を産んでるわけじゃないだろう。そして何度だって言うが、セクシュアリティのカテゴリは人を分類するものではなく、人に居場所を示すためのものだ。

ノンバイナリーも、パンセクシュアルも、男や女や異性愛と同列だってことが、早く世に広まってほしい。これらはただのセクシュアリティを示す概念で、それ以上でもそれ以下でもないよね、って感覚を全人類が持つ世界が訪れてほしい。

ぼくたちが男性や女性と同じく、当たり前に存在することが前提の社会になればいい。そうすれば、自分の性の在り方を他人に説明するときに「実はね……」なんて意を決さなくともよくなる。

いつか遠い未来──いや、できるだけ近い未来、マイノリティが「カミングアウト」しなくてもよくなる日が来てくれたらいいな。

 

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