「LGBT研修」をはじめとした、LGBTQの人々にどう対応すべきかを示したマニュアルのようなものが、広まりつつある。今までの啓発活動の結果であり、無視することなく対応すべきである、と認識されたことは喜ばしい。しかし、性的指向や性自認などの属性は、その人そのものではない。そのことを忘れていないか、もう一度問い直したい。
LGBTQの中にも多様性がある
多様性を理解する、との文脈で語られるLGBTQだが、新たなステレオタイプを作り出してしまう可能性に注意していく必要がある。
LGBT研修に釈然としない
企業の採用サイトを見て回っていたときのこと。「ダイバーシティ」や「多様性」の言葉とともに、LGBT研修の文字を目にした。LGBTQに関する研修の内容を想像してみたが、想像はつかなかった。どのような配慮をすべきなのかといったマニュアルでももらえるのだろうか。
その当時は自分がLGBTQの一人だとはっきりとは自覚しておらず、何だかよくわからないけれど、釈然としない気持ちのまま、採用サイトを眺めていた。
LGBTQの人々と関わるには、知識も必要
釈然としない気持ちの正体は、障害のある人々やLGBTQの人々とどう関わったらいいのかを学ぶ検定が登場して広まるのを見ていることで、だんだんと言語化できるようになってきた。
もちろん、LGBTQの人々を理解しようと思うならば、必要な知識はある。例えば、性別が男女のみでないことや、人間の恋愛対象は異性と決まってはいないこと、など、基礎知識は必要だ。LGBTQであることを本人の許可なく勝手に広めてしまうアウティングを行ってはいけないことも、欠かせない知識だ。
LGBT研修、マニュアルを手にすればいいのか
しかし、知識を身につけ、対応の型を身につけることで、すべてが解決するのだろうか。LGBTQが何の頭文字を取った言葉なのか、どのような対応をすればいいのか、新しいマニュアルを手にすれば、LGBT研修は目的を達したといえるのだろうか。
そんなことはない、と私は考える。もし新たなマニュアルが欲しくて、LGBT研修を社内で実施するなら、そこには危険があるとさえ思える。
LGBT研修がマイノリティを型にはめてしまうリスク
LGBT研修の危険は、新たなステレオタイプを生産してしまう危険性があることだ。
「知ってるよ、LGBT研修受けたから」への危惧
最近では、私自身が、他人に性的な魅力を感じないアセクシュアルや、自身の性を男女どちらかと定義しないXジェンダーであると伝えると、「知ってるよ、研修受けたからね」と返される頻度が上がってきている。
研修により、理解啓発が進み、社会の中でさまざまな配慮が受けられるようになっていくこと、それ自体は本当に望ましい。今まで活動してきた方々が勝ち取った、成果の一つであり、私はそれに敬意を表したい。
その上で、こうも思うのだ。LGBT研修は、LGBTQはこう、という新たなステレオタイプを生み出してはいないだろうか、と。
何を望んでいるかまで、決められたくない
冒頭で紹介した会話は、その後に、「〇〇って対応をすれば、オッケーなんだよね」と無邪気に相手が発言し、その対応は望んでいなかった私が、相手との距離を置くことを静かに決めて、会話も相手との関係も、終わる。
自信満々で正解を答えたつもりの相手は、今も、当時の私にとっての不正解を答えたなんて、思っていないだろう。相手の中では、研修を通じたLGBTQ像が出来上がっていて、それに沿って、しかるべき配慮をしようとしただけ、なのだ。
例えば、私は視覚障害者でもあるのだが、何かが見えなくて困っているときに、見ず知らずの他人の助けが欲しいとは思わない。対象物をスマホで撮影して手元で拡大するなど、自分で取れる手段はいくつかあるし、じっくり時間をかければ見えるものもある。だから、「雁屋さんは、見えなくて困っているときに、声をかけてほしいですか」と問われれば、答えはNOなのだ。
でも、それは、私、雁屋優の考えであって、視覚障害者の総意ではない。このようなことは、LGBTQの人々に関しても、言えるだろう。研修で聞いたことを鵜呑みにし、それがすべてのLGBTQの人々に通用すると思われては困る。何を望むかは、人それぞれだ。
目に入るLGBTQの情報は、偏っている
少し前に、「フリーのレズビアンやゲイの生きづらさ」について書いているツイートを目にした。レズビアンやゲイだと明かすと、「パートナーがいる」もしくは「探している」前提で話が進んでしまうのだそうだ。積極的にパートナーを探していない、フリーのレズビアンやゲイの存在は、想定されていないという。
浅学ながら、私も、フリーのレズビアンやゲイの方の生きづらさについて、そのツイートを読むまでは、思いもよらなかった。出会いを求めて行動すれば、パートナー候補と出会えるのだろうと漠然と考えていたのだ。
なぜそのような思考に至ったのだろうかと疑問に思い、私は、自身の知る、レズビアンやゲイの方に関する情報が、どのような当事者からもたらされているか、考え直してみた。リストアップするまでもなく、答えは出た。
パートナーがいるLGBTQの人ばかり見ていたのである。そのため、私は、LGBTQについて理解を深めながら、「レズビアンやゲイの人々には、概ねパートナーがいるものだ」とのステレオタイプを作り上げてしまっていたのだ。
たしかに、パートナーがいる話の方が、書きやすいし、読まれやすいのだろう。でも、パートナーがいない方についても、知る必要があると感じた出来事だった。
このような事実は、LGBT研修で伝えられているのだろうか。おそらく、同性カップルがパートナーシップ制度を利用している場合に、結婚祝い金を出すべきではないか、といった発想はあるだろう。
では、パートナーのいないLGBTQの人々については、どこで話されているのだろう。もし、話されていないとしたら、それはLGBTQの人々の一部を、不可視化していることになる。
LGBT研修? 対応に正解はない
対人関係に正解がないのだから、もちろんLGBTQの人々との関わり方にも、正解がないのだと、私は思う。
LGBT研修の落とし穴
繰り返すが、私はLGBT研修を無意味で無価値とは思っていない。意義のあるものだと思っている。しかし、そこでの伝え方や受講者の心構え次第では、LGBT研修の受講が、マイナスにはたらくこともありうるのだ、という話をしている。
LGBTQについて知らなかった受講者にとって、仕事や社内コミュニケーションにおいて、気をつけるべきことが示されるのは、とても安心するだろう。このような属性の人には、こう対応する、と明文化されていれば、やりやすいのも、頷ける。
異性愛が当然の前提のようなコミュニケーションを行わないとか、仕事上で関わるLGBTQの人から配慮を求められたら、こう対応するといいとか、研修で学ぶことで、安心して業務に励める一面もあるだろう。しかし、それは最低限の水準でしかないこと、また、講師により偏りが生じる場合もあることを、受講者も実施する会社側も、知るべきだ。
マニュアル化による、ステレオタイプの生産
私は、コミュニケーションにゲームの攻略本のようなものが欲しいと考えていた時期が長く、今もその考えを捨てきれていない。毎回考えなければならないなんて、面倒だ、と心からそう思う。それでも、考えなければならないことも、理解しつつある。だから、やりたくはないが、考えながらコミュニケーションを行っている。
例えば、「あの大学を卒業しているなら、こういう人だ」と決めつけられるコミュニケーションがあったら、その受け手は楽しくないだろう。「あの大学を出ているなら、〇〇が好きだろう」とか言われることを想像してみれば、それが楽しくないことは明白だ。
ところが、LGBTQの人々は常に、「レズビアンなら、きっとこうだろう」とか、「ゲイならば、やはりこうでなくては」といった視線に晒されている。そのようなときに、LGBT研修が、ステレオタイプを強化しかねない事態は、存在しうる。
LGBT研修は正解を教えるものではない
多様性の理解啓発に努めていると対外的に示すべく、LGBT研修を取り入れている企業も少なくない。第一の目的が、対外的な評価である場合、ステレオタイプを新たに作ってしまう可能性には、なかなか目がいかないだろう。
もしLGBT研修がLGBTQの人々への対応の正解を教えるものだと考えて実施しているなら、考え直してほしい。
属性ではなくその人を見よう
あくまでLGBT研修は基礎を作るために受講し、自分で考え、相手に問いかける姿勢が大事だ。
属性は、その人そのものではない
人は皆、さまざまな属性を持って生きている。性別、家族構成、障害の有無、セクシュアリティ、学歴、などなど、挙げればきりがない。ここで注意したいのが、LGBTQに限らず、属性はその人そのものではない、ということだ。
私は、精神障害者で、視覚障害者で、アセクシュアルで、Xジェンダーであるが、それらの属性がイコールで私そのものではない。アセクシュアルの雁屋さんという言葉に間違いはない。間違いはないが、私は、何かの当事者であるという属性だけで構成されているわけではない。
属性は、人を構成する一部ではあるが、すべてではないのだ。
LGBT研修の活用のしかた
ここまで語ったが、LGBT研修はまったく無意味ではない。受講者の心構えや実施する組織の考えによっては、よい効果をもたらすこともできる。そのために必要なのが、知識はあくまで知識であると、心に刻むことだ。
例えば、パートナーシップ制度を利用しているLGBTQのカップルは、皆の前で祝われたいかもしれないし、まだカミングアウトを限定的にしておきたいから、上司への報告に留めたいかもしれない。そんなときに、決めつけで行動するのは、本人達を傷つける可能性のある危険な行為だ。
だが、そもそもにして、LGBTQの人々にどのような配慮ができるかを知らなければ、無知ゆえに傷つける可能性だってある。無知ゆえの加害を極力減らすことを目的にLGBT研修を受講し、それでも傷つけてしまう可能性を頭に入れておくのがいいのではないか。
LGBTQの人の話ではなく、目の前の人の話をしよう
属性によってコミュニケーションのやり方を決めるのは、たしかに非常に楽で、私自身も、ともすればそちらに流れてしまいそうになる。しかし、それは理解からは程遠いのだ。
研修で聞いた通りに行動しようと思ったときに、まずは、本人に聞いてみる。「このように習ったんですが、あなたは、どうしてほしいですか」と。
これからするのは、LGBTQの人の話ではなくて、目の前にいるその人の話だから。