02 もう一人の自分
03 あこがれの女の子
04 ささやかな反抗
05 逃げるように自立
==================(後編)========================
06 楽しい接客業
07 家族との出会い
08 子どもの成長がうらやましい
09 事後報告的なカミングアウト
10 心のふるさと・島根でLGBTQ支援を
06楽しい接客業
親との決別
高校を卒業するのとほぼ同時期に家を出た。
「就職先は上場企業だったので、その点では親は文句を言いませんでした。でも、家を出るときには『社員寮なら許すけど、一人暮らしはダメ』とかまたいろいろと言ってきたんですけど、無視しました」
「子どもは親の持ち物っていう意識があったから、親は私にあれこれ指図したんでしょうね・・・・・・」
ほとんど家出同然の独立。
家を出てからは親ともきょうだいとも、一切口をきいていない。
「就職先がスーパーだったから、親に勤務先を突き止められて乗り込まれたことはありましたけど」
社会人になって十数年経ったころ、生まれ育った家族から戸籍を分籍した。自分だけの新しい戸籍を作ったのだ。
「それまで、戸籍を抜けるにはだれかと結婚して新しい家庭を作らないといけないと思ってたんですけど、あるとき自分一人でも分籍できると知ってから、即分籍しました」
「名前の読みがなを変えたかったのと、戸籍の上でも縁を切りたかったんです」
今となっては、親もきょうだいも、存命なのかすら知らない。
1度目の結婚
男性として就職するにあたって、それまで楽しんでいた中性的な装いをやめて、元の「男性枠」に戻った。
「男性に戻らないといけないことに対しては、未練はなかったです。それよりも、絶対に女性と結婚して子育てしたい! って思いのほうが強かったからです」
でも、子どもには自分の遺伝子を引き継いでほしくなかった。
「小さいころ、近所の人に『お父さんによく似てるね』って言われて、ひどくショックを受けたことがあって。だから、容姿を含めて子どもには自分と似てほしくなかったんです」
「シングルマザーの連れ子で、人格形成期も終わってる子どもなら、自分でもちゃんと育てられるはずだって自信がありました」
30歳半ばで、シングルマザーと1度目の結婚をした。
「元パートナーの弟の奥さん、私から見れば義理の妹にあたる女性が、とても子育てが上手な人で、その人から子育てのイロハを教わりました」
「お兄ちゃん・お姉ちゃんなんだから~」とは言わずに、「大きい子だから小さい子を守ってあげなさい」など、子どもが納得しやすいちょっとした表現は、特に勉強になった。
「ほかにも、上の子は、下の子が生まれるまでお母さんを独り占めしてたけど、下の子は独り占めはできないんだからね、っていうフレーズを聞いて、なるほど! と思いましたね」
元パートナーと婚姻関係を解消してから義理の妹とも縁がなくなってしまったが、今でも出会いに感謝している。
スーパーでの接客
スーパーでの仕事を通して、人と接することを楽しめる自分を知った。
「今でも友人や家族といった親しい仲の人とは目を合わせて話せないんですけど、お店での接客みたいにその場だけのコミュニケーションだと、不思議と平気です」
「東京レインボープライドのボランティアをしたときも、来場者と接するようなポジションを希望しました」
接客の次に好きな業務が、伝票・倉庫整理だった。
「インテリア部門担当なのに、商品をきれいにディスプレイすることが苦手で(苦笑)。同僚は伝票・倉庫整理が嫌いなことが多かったので、お互いの仕事をよく替えてもらいました」
07家族との出会い
経理に転職
スーパーで昇進するにつれて、数値管理を任されるようになる。
「仕事は楽しかったんですけど工業高校卒業だったから、商業の専門知識がなくて」
それならばしっかり勉強しようと思い立ち、職業訓練校に半年間通ってOA事務と簿記を身につけた。
「ただ、未経験だから企業の経理部ではなかなか雇ってもらえなくて、初心者歓迎の税理士事務所に転職しました」
その職場で、今のパートナーと、連れ子である当時5歳の子どもと出会った。
のびのびと成長した子ども
パートナーと出会ってから1年後には同居を始めた。
「私もパートナーも自己表現が苦手なタイプなんですけど、子どもは私たちに全然似てなくて、とても表現力が豊か。ちゃんと自分の意思を持った子なんです」
「私のことは、出会った当初からずっと “なりちゃん” って呼んでくれてます」
家族と生活するなかで、ある日大きな気づきを得た。
「子どもが学校に向かう姿を見送っていて、こういう家族との穏やかな日常が私にとっての幸せかな、ってやっと気づいたんです」
08子どもの成長がうらやましい
子どもの姿を見ていて気づいたこと
子どもが思春期を迎え、おしゃれを楽しんでいる姿を見て微笑ましい日常を噛みしめた。
同時に、別の感情が湧き出てきた。
「女性として成長している子どもが、うらやましいと感じました」
それから、心の奥底に眠り続けていた「もう一人の自分」が表に出てくるように。
「スカートはまだはいてなかったんですが、レディースのXLサイズのパーカーを着たり、少しずつ中性的な服を選ぶようになりました」
ひょっとしたら性同一性障害かも?
50代半ばのとき、社会人劇団に入る。
「役者になりたい、舞台に立ちたいっていうよりは、呼吸や姿勢、立ち居振る舞いを学びたくて入団しました」
劇団のワークショップで「子どものころを思い出して演じてみましょう」と言われたときのことだった。
「それまで抑圧していた、トラウマの幼少期という『パンドラの箱』を開けてしまったようです。それと同時に女の子の自分も出てきて・・・・・・」
このときにようやく、自分は性同一性障害(性別不合/性別違和)なのではないか? と思い至った。
もし思い過ごしなら、それまで
インターネットで「性同一性障害」を調べ、セルフチェックを試してみたものの、70点程度とはっきりしない結果だった。
その原因として考えられることは、恐らく「女性だけど女性が好き」という、私の性的指向だろう。
「お遊びのサイトだったってこともあって、そのサイトが異性愛者を前提としてたから、微妙な結果にしかならなかったのかなと思います」
自己判断ではなく、専門医に診察してもらったほうがいい。
「もし性同一性障害ではないと言われたら、自分の勘違いだったと思ってあきらめよう。性同一性障害の診断結果だったら、男の子の自分を演じることをやめて女の子の自分に “政権交代” してもいいかな、って考えて診察を受けました」
2020年、コロナ禍が日本を覆い始めたころ、性同一性障害の診断を受けた。
09事後報告的なカミングアウト
カミングアウトも、夕飯で
性同一性障害の診断日、夕食で家族にカミングアウトした。
それから1週間後、家庭裁判所に赴き、名前の変更許可の申立書を提出した。
「うちは夕飯の時間が家族会議の時間でもあって、重要なこともその場で伝えることになってるんです」
まず、性同一性障害という診断が下りたことを伝えた。神妙な面持ちではなく、日常の報告事項のように。
パートナーは頭の上に「?」が浮かんでいる状態。一方、理解の早い子どもは状況をあっさり受け入れた。
「それから、今日裁判所に行って名前を変える書類ももらってきた、って言ったら、パートナーが『名前を変えるなんて、そんな面倒なことまでしなくてもいいじゃない』って反対しました」
「パートナーはLGBTQや性同一性障害については詳しくないけど、名前を変えるってことは理解できたから、反対したのかなって思います」
子どもは、名前変更にも前向きな言葉をかけてくれた。
「何かサインが必要だったら対応するし、名前も一緒に考えてあげるって言ってくれました」
現在の名前「有里梨」の「里」は、子どもの名前から1字もらった。
「ほかにも『なりの』とか『なりみ』とか別の案もあったんですけど、子どもから『それじゃ響きがかわいすぎる』と却下されて(笑)、『有里梨(なりな)』に落ち着きました」
子どもには感謝しかない。でも、それは私のセクシュアリティを受け入れてくれたからではない。
「子どもはセクシュアリティを受け入れてくれるはずだ、って確信がありました。仮に受け入れてくれなかったとしても、親子の関係性が変わることはないとも思ってました」
パートナーと子ども。セクシュアリティの受け入れ方は違っても、今でも家族の関係性が変わっていないのは、何があっても揺るがない信頼関係が築かれているからだろう。
スカートと性別役割と
家族にカミングアウトした際、パートナーから1つ、禁止事項を言い渡される。
「私と歩くときはスカートをはかないで、って言われて。1年くらいは守りましたね」
SRS(性別適合手術)は段階的に行ったが、家族への報告はすべて術後に手紙で伝えた。
「SRSしてからしばらくは言えなくて、でもどうしても言わなきゃなと思って。子どものころの性別違和から、今は心が安定してるよってことまで書きました」
「パートナーは、手術費用はどこから捻出したの? とは聞いてきましたけど、私についてどう思うかは言わなかったですね」
パートナーが今自分のことをどのように受け止めているかは、正直なところ定かではない。
「お互いに口には出してないですけど、今でも例えばお米を買って帰るみたいな、男性的な役割は私が引き受けるようにしています」
そのおかげもあってか、パートナーは私のことを黙認してくれている、と思っている。
配慮のある職場
性同一性障害の診断を受けてから現在まで治療を進めているが、勤務先は変えていない。
「LGBTQフレンドリーな企業ではないんですけど、コンプライアンス意識が高い職場なので、差別されることなく働き続けられてます」
スカートをはくようになる前までは、中性的な服を着て出社すると同僚から「ひらひらしていて、かわいいね」などと声をかけてもらうこともあった。
「それがスカートをはき始めてからは、服装については何も言われなくなりましたね。セクハラになるからだと思います」
服装に触れられなくなったのは配慮のためだと理解しているので、対応の変化については特に気にしていない。
10心のふるさと・島根でLGBTQ支援を
島根のLGBTQコミュニティ運営
2021年に「島根のちょっこしLGBTQ相談室」(しまちょこ)を島根に関わる仲間と立ち上げた。
でも、島根は生まれ故郷ではない。
「”乗り鉄” で列車に乗って出かけるのが好きなんですけど、島根に行ったとき、人がとても温かかったんです」
トラウマのある生まれ故郷を捨てたけれど、心の拠り所としての故郷がほしいと思っていたころだった。
「ふるさと島根定住財団が主催していた、島根の地域課題を考える講座に応募してから、私の心のふるさとは島根になりました」
「私自身、カミングアウトするまでLGBTQに関する情報にふれるのは避けてきたので、一から勉強中です」
「LGBTQの知識については、若い子から教わることのほうが多いですね。そのかわり、私のほうが長く生きているので、自分の人生経験をちょっとプラスして発信してます」
「そうすれば、LGBTQ当事者とその周りの人たちの間に立って、橋渡しができるかなって思うんです」
島根は、東京と比べればやはり田舎。
人が温かくて地域のつながりが強いことは、LGBTQ当事者にとっては逆風になることも考えられる。
「その一方で、一度でも私たちのほうを向いて味方になってくれれば、そのつながりもまた強固になると思っています」
トランスヘイトに対して、私ができること
近年ますますひどくなるトランスヘイト。
そこに目くじらを立てたり、強く非難することだけではない、自分なりのアプローチもあるのではないか? と考えている。
「SNSを頻繁に更新してるんですけど、マイナスなことや批判的な意見じゃなくて、楽しいことを発信するようにしてます」
トランスジェンダー女性として生きるようになってからも、周囲の人が優しいおかげで、悩んだことがない。
「だからその分、トランス女性として楽しいことを発信できるんじゃないかと思いました」
「過去がどれだけつらかったかを発信するより、未来をどう明るくしたいかに目を向けたほうがいいと思いますね」
このプラス思考も、子どもが教えてくれたもの。
「コップに水が半分入っていたら、以前の私は『あと半分しかない』と考えてましたが、子どもは『まだ半分もある』と捉えるんです」
5歳で出会った子どもは立派な大人に成長し、新しい家庭を築いている。
子どもが教えてくれたプラス思考や、家族で過ごすことのささやかな幸せ。その幸せを、今悩んでいるLGBTQ当事者におすそ分けしていきたい。