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性別移行は遅かったかもしれないけれど、人生の先輩として誰かの役に立てるはず【前編】

落ち着いた雰囲気をまとう石田有里梨さん。現在の生活スタイルに変化してからは、感情を表に出せるようになりつつあるが、子どものころは喜怒哀楽がなかったという。長年抑圧し続けてきた女性としての自分を解放するまで、半世紀近くの時間を要した。

2024/10/09/Wed
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
石田 有里梨 / Narina Ishida

1963年、奈良県生まれ。家庭で孤独と恐怖を抱きながら育ち、高校卒業とほぼ同時に独り立ちする。結婚後、子どもが成長していく姿を見守るなかで性別違和に向き合い始め、職場に在籍しながら医療的な性別移行を行う。2021年に「島根のちょっこしLGBTQ相談室」を立ち上げ、各地のプライドパレードにボランティアとして携わったりもしている。

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INDEX
01 自分を守ってくれる人はいない
02 もう一人の自分
03 あこがれの女の子
04 ささやかな反抗
05 逃げるように自立
==================(後編)========================
06 楽しい接客業
07 家族との出会い
08 子どもの成長がうらやましい
09 事後報告的なカミングアウト
10 心のふるさと・島根でLGBTQ支援を

01自分を守ってくれる人はいない

第一子・長男として感じる、家庭の窮屈さ

5人家族の長男として生まれる。

男尊女卑の固定観念が強い家庭環境のなかで、自分が男性という “枠” のなかにいることへの後ろめたさを感じながら育った。

「お正月に親戚が集まると、男性陣がテーブルで宴会を開いてるなか、キッチンの近くには女性が集まって給仕係をやってるんですよね・・・・・」

子どもだった私はその間を自由に行き来することができた。でも、そのころからすでに心の上では女性だった。

「自分は男性のスペースのなかにいてもいいんだろうか? ずるくないか? って思ってましたね。でも、そんなこと怖くて言えなかったですけど」

男尊女卑を感じたのは、親族で集まったときだけではなかった。

「それぞれ2つずつ離れてるきょうだいがいて、妹は親からぶたれてました。それがどんな場面かは記憶から消えてますけど」

「私は、父からはぶたれたことはないと思います」

しつけとして、親が子どもに手をあげることが少なくなかった時代。

でも、自分自身が暴力を受けることはほとんどないとしても、家庭内の張り詰めた緊張感は伝わるもの。

「時代が時代だったからしょうがないし、親のことを恨んでもないです。でも、今の時代だったらやっぱり虐待ですよね・・・・・・」

その光景がトラウマとなり、現在でもだれかが暴力を振るわれているところを目撃すると恐怖を感じる。

「幼少期の記憶がフラッシュバックすることも増えてきたんですけど、無意識に抑え込んでるようで、幼少期のことは未だに思い出せないことが多いですね」

感情のない子

家庭のなかで息苦しさを感じたり、恐怖心を抱いたりしていたからか、やがて感情を表に出さないことが癖づいていく。

「親や周りに合わせるうちに、保育園に通い始めるころには、喜怒哀楽のない、子どもらしくない子どもになってたと思います」

家族からも友人からも「何を考えてるのか分からない」とよく言われた。

「だってそう言われても、スカートをはきたい! なんて言えないから・・・・・・。親はきっと私の心の性別が女の子だったってことは知らないままだと思います」

大人の目の届く範囲のなかの私は、真面目な子だったかもしれない。でも、本当に根っからの真面目だったわけではないと思っている。

「大人が見てなければ、叱られなければ何をやってもいいと思ってました。ずる賢い子でしたね(苦笑)」

カミングアウトして女性として生活するようになってから、やっと感情を表に出せるようになった。

「ルールに厳格な男性経理部員としての私を知る人からは、優しくなったね! と言われてます(笑)」

02もう一人の自分

袴じゃなくて着物がいい

最も幼いころの性別違和の記憶は、七五三のとき。

「数え年で5歳のときに、七五三で男の子用の衣装を着ました。2歳下の妹は女の子の着物を着ていて、私も袴じゃなくて女の子の着物を着たい、って心の中では思ってました」

でも、女の子のものを身につけたい、とは口にしなかった。

「男の子の “枠” に収まっていれば優遇されるし、ぶたれたりすることはなくて安全だったんです」

「自分が女性だっていう思いは、幼いころからずっと心のなかにあるし、スカートをはきたいって気持ちもずっと持ち続けてました」

でも、遊びなどでスカートを試しにはいてみる、ということはしなかった。

「今日だけ女の子の恰好をしてもいいよ、ってほうが私にとっては毒でしたね。だったら、ずっと女の子の恰好をしないほうがまだましで」

「女の子として振る舞いたいのは、いっときだけじゃないから」

もう一人の、女の子の自分

男の子の “枠” のなかで生活をするなかで、本当は女の子として生活したいと考えている自分のことをおかしいと思ったことは、なかった。

「空想のなかに、常にもう一人の女の子の自分がいました」

現実の私は、ズボンをはいて黒いランドセルを背負って小学校へ通う。

でも、空想の女の子であるもう一人の私は、スカートをはいて赤いランドセルを背負っている。

「これが解離性障害なのかは、診察を受けたことがないので分かりませんが、そうやってもう一人の自分がずっと私を支え続けてくれました」

そのおかげか、セクシュアリティについて悩みが深まることもなかった。

「LGBTQ当事者の人って、自分は何者なんだろう? って悩んで、死にたいとまで思い詰める人もいると思うんですけど、私は1回も死にたいと思ったことがないんです」

厳しい家庭環境のなかで、その日その日を生き抜くことで精いっぱいだったからこそ、生きることこそが一番大事だと思っていた。

「食べるものに困らずに生きていければ、それでOKだったんです」

自分のなかのもう一人の女の子は、性別違和を抱えながらも過酷な環境のなかで男性として生き抜くための手段だったのかもしれない。

衝動的な自傷

第二次性徴を迎えた小学校高学年のころ、半ば無意識的に自傷行為に走ったことがある。

「陰部に毛が生え始めてきたのが許せなかったのか、はっと気づいたら陰部を傷つけてました。さすがに切り落とそうとは考えてなかったと思うんですけど・・・・・・」

自傷行為はその1度だけで済んだ。

でも、手首などとは違うためか、傷口が膿んできて、完治するまでには1年もかかった。

「親にもだれにも言い出せなくて、その1年間は第二次性徴に対する嫌悪感よりも、とにかく早く治って! って気持ちでしたね。治ったときは本当にほっとしました」

03あこがれの女の子

命の危険を感じた、プールでのいじめ

小学校ではいじめられっ子だった。

「小学生になっても感情表現ができなくてしゃべることも苦手だったので、何を考えてるのか分からないところが、いじめっ子の目に付いたんだと思います」

基本的には身体的な暴力の伴わない、物を隠される、落書きをされるといった陰湿なタイプのいじめだった。

ただ、1回だけ本当に怖い思いをしたことが・・・・・・。

「プールに沈められたことがあって、そのときは命の危険を感じましたね・・・・・・」

「その直後に臨海学校が予定されていたので、参加拒否しました。もし臨海学校に参加してたら、もっとひどいいじめを受けて、本当に命を落としてたかもしれません」

あのときは、自分を守る行動をよくとれたな、と過去の自分褒めたい気持ちだ。

母親は自分の味方ではない

いじめられっ子ではあったが、ただ黙っているだけではなく、ときには反撃にも打って出た。

「でも、反撃の度合いが分からなくて、ちょっとやりすぎちゃったこともあって・・・・・・(苦笑)」

学校に呼び出された母親は、自分ではなくいじめっ子の肩を持った。

「私が1つ言えば10倍くらいで返してくるような母親でした。そのうえ、そもそも私は口下手だったので、状況を上手に説明できないし・・・・・・」

親は信用できない。私のことはだれも助けてくれない。
親に対して絶望したと同時に、親を完全に見限った。

「家が安らげる場所じゃなかったので、いじめられるとしても学校のほうがまだマシ、と感じてました」

あこがれの女の子

小学3年生のとき、同級生の女の子に初めて恋心を抱く。

「目立ちたがり屋ではないけど、活発で目立つ子でした」

「男の子あるあるで、私もその子のことをからかって泣かせちゃいましたね(苦笑)」

心の性別は女性、好きになる相手も女性。もちろん、性自認と性的指向を分けて考えるなど、当時は知る由もない。

「私は自分のことを女の子だと思っているのに、女の子を好きなんて、自分は何者なんだろう? って疑問でいっぱいでした」

「でも、男の子としてこのまま黙って生きていれば、いつか女の子と結婚できるな、って。心の性別にそった生活はできなくても、女の子と結婚して家庭を築けるんだ! って分かったとき、なんとなく満足感を覚えました」

その女の子とは別々の高校に進学して疎遠となってしまった。それでも、高校生を卒業するまでずっと片想いをしていた。

「今思うと、その子のことが恋愛対象として好きだったというよりは、本当はああいう女の子になりたい、っていうあこがれの存在だったんですよね」

04ささやかな反抗

わずか1か月で退部

進学した中学校では、部活動に加入しなければならなかった。しかも、親は運動部に入るよう強制してきた。

「運動部のなかで男女分けがなくて一番楽そうだなって思ったバドミントン部に入りました。本当はめちゃくちゃ大変ですよね(苦笑)」

でも、そもそもバドミントンをやりたかったわけではなく、練習をさぼって約1か月後には退部した。

「親へ反撃するチャンスでした」

そのあとは、何もしなくても大丈夫だろうという目論見で、囲碁将棋部に入部する。本当に一切部活動をしないまま、幽霊部員として在籍した。

遊び相手の男子と、相談相手の女子

中学校に進学してからは、男子の遊び相手も何人かできた。

「クラスメイトとローラースケートで遊んだりしました」

「近所の山で、整備済みの登山道ではなく沢筋を登るような、危険な遊びをしたこともありましたね」

「もしあのとき崖から落ちてたら・・・・・・って思うと、今では冷や汗ものですね(苦笑)」

でも、本心から何でも話せるような男の子の親友はいなかった。

「今も親友と呼べる男性はいないですけど、当時は仲のよい女の子がいました」

「女の子からは、あの男の子が好きなんだけど~、って恋愛相談を受けることが多かったですね」

「もう少し年齢が上がってからは、女性と二人でイチャイチャしてるときの男性って何を考えてるの? って男性の気持ちを聞かれることもありました」

05逃げるように自立

学区外の工業高校へ

高校は、自分の住んでいる地域から離れた学校に通うため、工業高校を選んだ。

「普通科だと学力に合わせた地域の学校に振り分けられてしまうんで、自分の地域から出ようとすると工業高校しか選択肢がなかったんです」

「一応共学でしたけど、女子はいなくて実質的には男子校でした」

スーパーでアルバイトを始めて自分の力でお金を手に入れられるようになると、少しずつファッションを楽しむように。

「パステルカラーのトレーナーを着て中性的な服装をし始めました」

「学校もヘアスタイルについては割と自由だったので、当時、流行ってた松田聖子ちゃんのようなふんわりしたパーマをあててもらったりしました」

”特殊” な職業は選べず、手堅く就職

高校卒業後は一般企業に就職しようと考えていた。

当時、トランスジェンダー女性(MTF)が就く職業と言えば、ニューハーフとして水商売に従事するか、芸能界くらいしか選択肢がなかったからだ。

「自分にはコミュニケーション力がないと思ってたので、ニューハーフとして働くのはあきらめました」

「でも、ニューハーフの業界ってトランス女性もいなくはないけど、性自認が男性の方が多くて体育会系だとあとから知って、あの世界に飛び込まなくてよかったと、今は思ってますね」

工業高校卒業生の就職先として当時多かったのは、松下電工や三洋電機などのメーカーや、国鉄、電力会社だった。

「学力が足りなかったってこともありますけど、山奥で男性ばかりの職場で働くなんて、生きていけない! って(苦笑)」

アルバイト先だった総合スーパーの正社員採用試験を改めて受けて、インテリア用品売り場の担当として就職した。

 

<<<後編 2024/10/16/Wed>>>

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06 楽しい接客業
07 家族との出会い
08 子どもの成長がうらやましい
09 事後報告的なカミングアウト
10 心のふるさと・島根でLGBTQ支援を

 

 

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