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女装とトランスジェンダー女性の違いは “覚悟”。小さな幸せを積み重ねていけば何歳からでも幸せになれる【前編】

もともとの長身に5㎝のヒールでさらにスタイルアップし、赤いチェックのスカートとトレンチコートの裾をなびかせながら現れた坂井未夢さん。「プライベートな話題で話せないことは、ほとんどないですよ。むしろ、話すことでトランスジェンダーの認知度を高めないと」と語る。現在は妻と娘と3人で暮らす主婦。男性社員として勤めていたこともバーテンダーだったこともあるという、さまざまな経験をオープンに話してくれた。

2025/02/17/Mon
Photo : Tomoki Suzuki Text : Kei Yoshida
坂井 未夢 / Mimu Sakai

1968年、愛知県生まれ。幼い頃から女性服やメイクに興味をもってはいたが、ジェンダー・セクシュアリティには違和感なく育った。アニメ好きが高じてコスプレにハマり、48歳のときに男性服を着ることが苦痛になったことから、自らの性別に違和感をもち始める。54歳でジェンダークリニックを受診、性別不合(性同一性障害)の診断を受けて改名し、ホルモン療法を開始。「調布LGBT&アライの会」副代表、「ALLYES」多摩地区リーダー。

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INDEX
01 セル画を描くほどのアニメ好き
02 不登校も喫煙も責めなかった母
03 パソコン仕事をするはずだったのに
04 ぶっ倒れても楽しかった自分の店
05 男性服を着ると吐くほどの違和感が
==================(後編)========================
06 名古屋から東京へ “嫁入り”
07 ジェンダークリニック受診後に改名
08 母と妹へのカミングアウトは写真から
09 トランスヴェスタイトではなくトランスジェンダー
10 小さな幸せの積み重ねが大きな幸せに

01セル画を描くほどのアニメ好き

妹の服を着て、母の口紅をつけて

「子どもの頃の遊びといえばゴム跳び」

「うちの前に電信柱があったので、そこにゴムを引っ掛けて、近所の女友だちといつも一緒に、技を競ってました」

近所に女の子の友だちが多かったせいか、女の子がよくやる遊びを一緒にすることが多かったが、アニメキャラクターの超合金も好きだった。

3つ年下の妹ともよく遊んだ。

「妹とはケンカしたことないです。いまもすごい仲いいですね」

小学校では勉強も運動も成績は中くらい。

「なんていうか、ふつうの子。本当に平々凡々でしたよ(笑)」

「美化委員になって、教室に花を飾ったりしてた記憶があります」

意識してはいなかったが、かわいいものが好きだったのかもしれない。

「母によると、幼稚園の頃から妹の服を着たがっていたらしいです」

「あと、母の口紅をつけてみたこともありますね。それは覚えています」

「どんな感情だったんだろうな・・・・・・」

コミケでセル画を販売

学校では、得意な教科も苦手な教科もなかったが、縄跳びは上手かった。教師から褒められた記憶といえば、縄跳びのことくらい。

運動神経は悪くなかったと思う。背も、クラスでは高いほうだった。

「中学は帰宅部だったんですけど、途中から美術部の漫画部門に入りました。パラパラ漫画を描いて撮影をした覚えがありますね」

「絵を描くことは、小さい頃から大好きでした」

特にアニメが好きで、セル画を描くこともあった。
サークルに参加して、コミケ(青空コミック即売会)でセル画を販売したことも。

「楽しかったですね。サークルの仲間とコスプレもしました」

「すごい覚えてるのは、自分が『銀河鉄道999』の星野鉄郎、先輩たちが『ルパン三世 カリオストロの城』の次元大介とクラリスのコスプレをしたことです」

「その頃熱中してたのは、部活よりもアニメ、サークル活動ですね」

アニメ作品はジャンル問わず好きで観ていたが、特に好きだったのが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』。

セル画を描いたり、コスプレしたり。

アニメの世界は奥が深く、ハマればハマるほどおもしろかった。

02不登校も喫煙も責めなかった母

4つも仕事を掛け持ちして

「学校では、周りから “オタク” だと思われてたと思いますよ」

「その頃は、性に関する悩みもなく過ごしてましたし、ほんと漫画とアニメが好きな “ふつうの男子生徒” として学校に通ってました」

初恋は小学校の担任教師。
覚えてはいないが、母がそう教えてくれた。

妹の服を着たい。
担任の先生が好き。
そんなふうに、母にはどんなことでも話せた。

「母は・・・・・・褒めるわけじゃないですけど、おおらかな人。あと、放任主義(笑)」

「やりたいことを母に止められたことがないんですよね」

放任主義というよりは、子どもの主体性を認め、尊重してくれる人。

しかし、離婚して女性ひとりで子ども2人を育てていることもあってか、決して甘やかさず、子どもたちに厳しいことも言ってきた。

「なにかにつけて『お兄ちゃんなんだから』『男らしくしなさいね』とは言われました。あ、髪の毛を伸ばすことは反対されましたね(笑)」

母は、多いときには4つ、仕事を掛け持ちして家計を支えた。

「市の施設の仕事がメインで、ホテルの清掃とかスナックとか・・・・・・いつも大変そうでした」

「休みの日に家族揃って出かけるなんてことは、全然できなかったですね」

そんななか、高校1年生で不登校になる。

タバコは外で吸うな、うちで吸え

「いじめっ子じゃなくて、いじめられっ子になっちゃったんです」

「いろいろされましたよ、椅子に画鋲とか(苦笑)」

「いじめられていることは母に黙っていたので、朝『いってきます』って出かけて、母が仕事に出る頃に家へ戻って引きこもってました」

当然のことながら、学校から自宅へ連絡が入る。
母の耳にもすぐ届く。

「でも母は、なにも言わなかったんですよ」

「私に『あんた、今日学校行かなかったんやね』って確認するだけで」

「母がなにか言ったとしても『行けたら、行きなさいよ』くらいでした」

いじめられたこと。学校に行けないこと。
怒りとも悲しみともつかない感情を吐き出せずにいた。

その苦しみに突き動かされ、母のタバコを吸った。

「それでも母は止めなかったんです」

「外でタバコを吸うな、吸うならうちで吸えって。『外で吸って、誰かに見つかったらあんたが悪いように言われる。でも、うちで吸えば誰もなにも言わないから、うちで吸え』って言うんですよ」

「母としては、隠れて吸われるくらいなら目の前で吸われたほうがマシ、って思ったのかもしれません(笑)」

自己責任。
母が、生きていくうえで大切だと考えていたことのひとつ。

「きっと『あんたが決めたことだからいいんじゃない。自分で責任をとるんでしょ』ってことだと思います」

「でも、親として、いつも私のことを心配してくれてましたよ。私が喘息もちだったこともあるので、特に体のことは」

不登校になって半年後、無事に復学できたのは、子どもを信頼して責めなかった母と、ほぼ毎日、自宅まで様子を見に来てくれた担任のおかげだ。

いじめっ子とも和解できた。

「私がナヨナヨしているってことで、いじめてたらしいです(苦笑)」

03パソコン仕事に就くはずだったのに

大学でコンピューター言語を学びたい

いじめの件は、大きな心の傷にはならなかったが、その後の進学については少なからず影響が出てしまった。

「入学したのは、ほとんどの生徒が就職する工業高校の進学クラス」

「でも、学校を半年間休んでしまったせいで単位が足りず、2年生からは進学クラスに上がれなかったんです」

その頃、スマホやタブレットの前身となるポケットコンピューターが広く使われ、そこからプログラミングに興味をもつようになる。

コンピューター言語を学びたい。
将来はパソコンを扱う仕事をしたい。

そう思って、なんとか進学できないか、3年生のときの担任に相談した。

「ちょうど、うちの高校の系列短大ができるからって言われて、そこの経営科に進学して情報処理を専攻することにしました」

その頃、妹は中学3年生。
いわゆる “グレてる” 生徒だった。

「でも、絶対に家庭内暴力はなかったですね」

「母が頑張っているのを見てきてたから、妹も、母を助けたいと思ったんでしょうね、高校に進学せずに就職することに決めたんですよ」

「いまでは資格もとって、病院で介護士として働いてます」

ひょんなことからスナックのチーフに

短大卒業後は、パソコン室志望として企業に就職。

入社時に1年は営業を担当し、2年目からパソコン室勤務だと聞いていたが、2年目もパソコン室への異動がなかったため退職した。

「それで仕方なく “プー太郎” をしているときに、電気屋さんで働いていた友だちから『電気工事室を手伝ってほしい』と言われてバイトをしたら、そこの社長に気に入られて、社員として働くことになったんです」

「でも、仕事するのが工事現場じゃないですか・・・・・・もともと喘息をもってたんで、発作が出てきちゃって」

「もうすぐ勤めて3年目になるところで、仕事を休むことになってしまって、これ以上休んだら会社に迷惑がかかるので、『辞めさせてもらっていいですか』って社長に話しをしました」

それからは半年ほど養生に専念し、無事に復調する。

「その頃は、お酒が好きだったので、近所のスナックによく飲みに行ってたんですよ」

「そしたら、その店の人から『知り合いがスナックを始めるから、手伝ってほしい』って言われて、チーフをやることになって」

「それから仕事は水商売です」

04ぶっ倒れても楽しかった自分の店

バーテンダーからバーの店主に

「スナックのチーフをやっていたのは29歳くらいだったかな・・・・・・」

「未経験だったけど、お酒が好きだったし、水商売もおもしろいだろうなって思ってたので、スナックで働くことには躊躇しなかったですね」

そこでは2年働く。

「店上がりにいつも飲みに行ってたショットバーのママさんの弟さんが、バーをオープンするというので、バーテンをやってみないかって誘われて、そこからバーテンの道に入りました」

2年近くバーテンとしての経験を積んでいるあいだに、出会った女性と結婚し、子どもも授かった。

「でも、いろいろあって・・・・・・セクシュアリティの問題ではないんですが・・・・・・。息子が2歳になる前に離婚してしまいました」

離婚はつらい決断だったが、改めてひとりになったことで新たな挑戦に向けて姿勢を整えることができた。

「自分の店を始めたんです」

「家族がいると、借金を抱えることはできなかったんで」

バーではアルコールはもちろん、食事も提供した。
昼間はランチ営業もやっていた。

「ランチのときはアルバイトを雇ってたんですが、夜はワンオペ」

シェーカーを振るのも、料理をつくるのも、客と話すのも自分だけ。

「バー営業が終わって、ランチの仕込みを終わらせてから、そのまま店で寝て、うちに帰ってシャワーを浴びて、また店に戻る生活で(苦笑)」

「結局、店を始めて1年半で過労でぶっ倒れて、3日間くらいお休みさせてもらうことになってしまいました」

「でも、自分の店だから。楽しくやってたので、仕方ないんですけど(笑)」

水商売は「やり切った」

酒を介して人がつながっていく空間が好きだった。
なにより、“人” に興味があった。

「人間観察がすごく好きなんです。この人はどんな人か、見ているとなんとなく雰囲気でわかるんですよね」

苦しくも楽しいバー経営は3年ほどで終わってしまった。
客の大半が勤めていた企業の移転が大きな原因。

赤字になる前に撤退を決断する。

「店を始めるときは、仲間にお願いして内装工事をやってもらって、自分も手伝ったりしたので、思い入れがあったんですけど、やり切った感があったので閉店を思い切ることができました」

店を閉め、人生の小休憩をしているとき、母から連絡があった。

「遊んでるんだったら、実家に戻ってきたら? って」

そこで、実家に帰ることにしたのだが、その頃母は、現在は事実婚関係となっているパートナーと暮らしていた。

05男性服を着ると吐くほどの違和感が

女性服を着ると落ち着く

実家に戻ってみたものの、どうにも居心地がよくない。

「母の彼氏さん・・・・・・いまでこそ柔軟な感じですけど、その頃は “昭和のおじさん” って感じで、とにかく頭が固かったんですよ」

「パソコンを使った仕事をしてるって言っても、『やっぱり男は家から出て外で仕事しないとダメだ』とか、すごい言われたんで(苦笑)」

「それじゃ、なんか外出できる仕事ないかなって探してみたんですよね」

すると、母の職場で警備員を募集していると、母から聞いた。

「それから警備員を10年続けて、副隊長まで務めました。警備員も、水商売も、楽しかったですね」

「仕事が楽しかったから、その頃は恋愛にはまったく興味なかったです」

しかし47歳のとき、私生活の大きな変化が始まりつつあった。
最初は「なんだかイライラするな」という気づきだった。

「イライラするな、なんだろうな、って」

「なにかきっかけがあったわけじゃなくて、本当にジワッとなんだかイライラするなって・・・・・・」

「その頃、コスプレにもハマっていて、いろんな格好をしてたんですが、女性服を着たときに、あれ、なぜか落ち着くなって気づいて」

逆に、男性服を着るとイライラするということがわかった。

そして次第に、男性服を着ると気分が悪くなり、嘔吐するまでになる。

女装さんか、トランスヴェスタイトか?

「不思議ですよ。同じTシャツでも、女性ものとして買ったら平気なのに、男性ものとして買ったら具合が悪くなるんです」

「一番抵抗感があったのは下着ですね・・・・・・」

女性ものの下着を身につけると、不快感がなくなる。

「それからは少しずつ女性服を通販で買っていって、その頃自分は “女装さん” なのかなって認識でいました」

しかし、女装をしても高揚感や幸福感があるわけではなく、ただただホッとする、落ち着く、違和感がなくなる・・・・・・そんな感覚だった。

「もともとコスプレをしてたんで、ウイッグもメイク道具も持っていたし、女性の格好をするのは難しくはなかったですね」

「ウイッグがカラーウイッグじゃなくて、自毛っぽいウイッグになって、メイクがアニメ用じゃなくて、だんだん女性としての自然なメイクになっただけ」

「だから自分は、“女装さん” あるいは “トランスヴェスタイト(異性装者)” なんだろうなって思ってたんです」

やはり “女装” ではないと思ったのは、24時間女性の姿で過ごすようになってからだった。

「トランスヴェスタイトじゃなくて、トランスジェンダーなのかな」

「そういえば、子どもの頃から『女っぽい』って言われてたし」

警備員の仕事は、男女共用の制服だったため支障はない。
男性ものばかりだったクローゼットには、女性ものが増えてきた。

 

<<<後編 2025/02/24/Mon>>>

INDEX
06 名古屋から東京へ “嫁入り”
07 ジェンダークリニック受診後に改名
08 母と妹へのカミングアウトは写真から
09 トランスヴェスタイトではなくトランスジェンダー
10 小さな幸せの積み重ねが大きな幸せに

 

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