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4人の子育て、夫との死別、46歳で初めて自分はトランスジェンダー男性と気づいた【後編】

4人の子育て、夫との死別、46歳で初めて自分はトランスジェンダー男性と気づいた【前編】はこちら

2024/07/14/Sun
Photo : Taku Katayama Text : Kei Yoshida
瀬尾 美穂 / Miho Seo

1973年、山形県生まれ。22歳で長女を、26歳で次女を出産する。28歳のときに子宮頸癌を患ったが克服し、30歳で三女を出産。さらに32歳で乳癌が発覚するも再び克服し、35歳で長男を出産する。夫と死別したのち、突然46歳で体調を崩したことから、自分がFTM(トランスジェンダー男性)であることに初めて気づき、49歳で性同一性障害(性別違和/性別不合)の診断を受けた。

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INDEX
01 喧嘩して父に飛び蹴りを
02 ももちゃんのパンツが見えてしまって
03 女同士なんておかしい
04 性行為は取っ組み合い
05 結婚→ 妊娠・出産・子育て→ 闘病、そして
==================(後編)========================
06 子がダウン症なのは誰のせいか
07 病床で夫が言った「今日、死んでもいい」
08 自分がトランスジェンダーだなんて
09 更衣室は男性女性どちらも入りづらい
10 自分らしくあれ!

06子がダウン症なのは誰のせいか

「障がいのある子どもが生まれる気がする」

第四子となる長男を妊娠したのは34歳。
乳癌の抗癌剤治療を終えて1年以上経っていたが、不安はあった。

「妊娠したことについて主治医に相談しました。そしたら、抗癌剤治療の妊娠への影響は0パーセントに等しい、と言ってくださったんです」

「それじゃあ産もう、ってなったんですが、夫が『俺、昔から思ってることがあって』って、話してくれたことがありました」

小学生のとき、道徳の授業で障がいのある子どもの映像を見たのだという。
すると不思議なことに、自分が結婚したら、障がいのある子どもが生まれる気がする、と思ったのだそうだ。

「学校から帰って、『障がいのある子どもが生まれる気がするから、自分は結婚しない』と母親にも話したらしくて、『障がいのある子どもが生まれるとは限らないし、障がいのある子どもが不幸せだとも限らない。だから、そんなことを言わないで、結婚してもいいんだよ』と言われたそうです」

「だから、長男が生まれて、ダウン症だとわかったときに、私よりも夫のほうが落ち込んでいて・・・・・・。『やっぱり俺のせいだ』って」

「たぶん、障がいのある子どもが生まれたときに責任を感じてしまうのは、母親のほうが多いと思うんですよ。夫の感覚っておもしろいなって思いました」

自分だけのせいじゃなく半分こ

長男は1歳半のとき、心臓の手術を受ける。
15時間もの手術を、小さな体で懸命に乗り越えたのだ。

「その、長男の天真爛漫な姿と、生命力に救われました。障がいがあっても、生きていこうとする力に、夫は救われていったのかなって思います」

そして、家族の転機ともいえるこの大手術を新潟の病院で担当したのは、偶然にも自分の乳癌手術を山形の病院で担当した医師だった。

「びっくりしました!」

「あ、じゃあ、この子に障がいがあって、心臓の手術を受けることになるのは、私が乳癌の手術を受けるときに決まってたのかなって思いました」

「そんなふうに夫に話したら、『じゃあ、自分だけのせいじゃないのかな。うん、半分こ、半分こ』って言ってました(笑)」

本当はたぶん誰のせいでもないことなのだろう。
それでも夫が言った、この「半分こ」が忘れられない。

父親が違っていても、4人のきょうだいはとても仲がいい。
特に、長女は13歳下の長男に、まるで自分の子どものように接している。

07「今日、死んでもいい」

私のことが好きだったから

夫が亡くなったのは、長男が12歳のとき。
大腸癌だとわかってから3年半だった。

「旦那の最期を見ていて、『いいなぁ』って思ったんですよ」

「毎日毎日、『今日もいい日だった。今日でもいい。今日、死んでもいい。人生に悔いなし!』って言っていて。なんでだろう・・・・・・」

「私のことが好きだったからかな(笑)」

どんなことを言っても、なにをしても、いつも夫は自分を肯定してくれた。
君がそう思うなら俺は支持する、と。

「夫は、治療のための薬の影響で精神機能や意識が混乱する “せん妄” という状態になって、夫の母親に対してさえ暴言を吐くようになってしまっていたんですが、私に対しては『あ! 来た来た来た!』って手を叩いて病室に迎え入れてくれました」

「入院中の夫の発言、おもしろかったですよ。『いま薪割りしてるから、終わったら一緒にアイス食べよう』と言われたことも。いつの間に木こりになったの(笑)?」

「突然、意味不明の言葉を叫ぶこともあったし。言ってはだめなこと、してはダメなことがなくなってました。でも、最期に言いたいこと言って、したいことをする、この時間があって、ある意味よかったなって」

違いを指摘されることを恐れないで

夫を担当していた看護師には「奥さん、ショックでしょうけど」と言われた。
しかし、むしろ「私の出番が来た!」と思った。

「カウンセラーになったのは、もしかしたらこのためだったのかもしれないって思いました。看護師さんには『ここ、落ち込むところですよ』って言われましたけど(笑)。私は『よおし!』と張り切ってましたね」

自分は癌を克服して生きている。
夫は癌のせいで死に向かおうとしている。

亡くなる前、「どうやったら、君みたいに生きられるの?」と夫にきかれた。

「腹黒くないと生きられないよ、って答えました。自分がこうだと思うことに正直になって、自分らしくあることが大切だよ、と」

「なにかを言って、誰かに違うって言われることをそんなに恐れなくてもいい。違いを指摘されることは新たな発見。それは喜びでしかないから、恐れる必要なんかないと思うんです」

「夫は、本当は言いたくても言えないことがあって、ストレスもいっぱいあったのかもしれないですね。とてもいい人だったから」

08自分がトランスジェンダーだなんて

トランスジェンダーの人に会ってみて

大人になった子どもたちが自分のもとから巣立っていき、夫が亡くなったあと、46歳のときに突然 “そのとき” は来た。

「急に具合が悪くなったんです」

「決まって生理のときに、死にたいっていうか・・・・・・トイレに流れて行きたくなってしまって・・・・・・間違いなく詰まっちゃうんですけど(笑)」

「それだけじゃなくて、トイレで無意識に頭を壁にガンッて打ち付けてたようなんです。3番目の子から『なにしてんの!?』って言われて、ハッと我に返ることがあって、これはなにかおかしいって思ったんです」

その変調は月経周期に関係しているという確信があり、おそらくPMS(月経前症候群)だろうと考えて婦人科を受診する。

しかし、医師の診断は「おそらくPMSではない」とのことだった。
「もう少し様子を見てください」と。

「私がカウンセラーだということもあってか、様子を見てるうちに自分の状態もわかってくるんじゃないか、って思われたみたいです」

それでも、この変調を自ら明確に説明することはできない。
そこである日、気心の知れた友人に話してみた。

「そしたら、『いとこに(トランスジェンダー)FTMの人がいるんだけど会ってみる?』って言われたんです。正直『ええっ!?』ってびっくりしました」

「でも、試しに会ってみたんです。『自分がそうなのかどうなのかもわからないんだけど』と言ったら、その人は『きっと、こっち(FTM)ですよ』と」

「そこでまたさらに『ええっ!?』ってなって・・・・・・まったく思ってもみなかったことだったので。でも、それをきっかけに、どんどん “解放” が始まっていったんです」

トランスジェンダー「前」と「あと」??

まずは、胸を押さえつける “なべシャツ” を着てみた。

「もう、なんて言うんだろう、しっくりきたというか、あっ、自分これかもって思って、どんどんどんどんそっちに入っていったんです」

いままで着ていた女性用の下着をすべて捨てた。
スカートやワンピースも捨てた。

「そしたら、もっと気分が晴れていって、男性用の服を買いに行ったら、もっともっと満足して。そこから止まらなくなって、突き進んでいきました」

「不思議ですよね、トランスジェンダー男性だって自覚してから、ホルモン治療もしてないのに、声も低くなっていって・・・・・・。高校で合唱するときはソプラノだったのに(笑)」

「自分は、これだったんだなって思いました」

32歳で乳癌のために左の乳房を切除したときは、無くなった乳房の代わりにパットを着けていた。

いまはもうパットは必要ない。
むしろ右の乳房を押さえつけている。

「ほんと真逆のことをしてますよね。自分って都合いいなって思います。術後はあれほど無くなってしまったことを気にしてたのに、トランスジェンダー男性だとわかったいまは、無いほうの胸を見せて歩きたいくらい(笑)」

「ズレないか気にしながらパットを着けてたときよりも、なべシャツを着てるいまのほうが、ずっとラクです。もうすごいラクで。こんなラクなことがあったなんて!(笑)」

素のままの自分でいられる感覚だった。

09更衣室は男性女性どちらも入りづらい

表に出せなかった苦しさ

「まったく思ってもみなかった」ことだったが、自分がFTMであることを自覚してからは、子どもの頃を思い出し、当時はなぜだかわからなかった自分の気持ちや言動が、徐々に腑に落ちていった。

女性を守りたいという気持ちになったり、女性の仕草にグッときたり。
あの頃の自分も、男性として女友だちを見ていることがあったのだ、と。

「まだはっきりとFTMだと自覚していないときから、女性に対して男性っぽい振る舞いをしてる自分に気づいたことがありました」

「知り合いの女性の誕生日に、花束を渡したりして。『え、なんで美穂さんが私に!?』ってびっくりされましたけど、自分もびっくりでした(笑)」

「でも、思えば彼女のことが好きだったんだな、って」

いまはその女性と恋愛関係にある。
ようやく、女性に対する気持ちを素直に表現できるようになったのだ。

「いまの状態は、ずーーーっと便秘だったのが解消されてスッキリした!  って感じ(笑)」

表に出すことができなかった素の自分、あるいは気づくことさえできないでいた本当の気持ちは、長い時間をかけて重く溜まっていった。

その苦しさのために、トイレの壁に頭を打ち付けたのかもしれない。

トイレは多目的トイレに

男性として生きるいまは、素のままでいられる解放感と同時に、不便さを感じてしまうこともある。

「女子トイレに入ったら『こっちじゃないよ』って言われたこともありますし、病院とかで『自分は性同一性障害(性別違和/性別不合)なので女子更衣室にも男子更衣室にも入りづらいです』と伝えると、『大丈夫大丈夫、女にしか見えないから』って言われたり」

「そういう問題じゃないんですけどね(笑)」

「でも、ちゃんと配慮してくれる施設もあって、健康診断のときに更衣室として個室を用意してくださる場合もあります。トイレは多目的トイレに入るようにしています。多目的トイレがないと、困りますね・・・・・・」

戸籍は変えるつもりはない。
ホルモン治療もしないつもりだ。
ただ、右の乳房だけは切除したいと考えている。

「なべシャツでこんなに満足するんだから、取ってしまえばもっと満足するだろうなって思います。手術したら、夏は上半身裸で過ごしたいですね」

「子どもたちには、性同一性障害の診断があったときに話しました。まずは1番目と2番目に話したんですが、『大丈夫、ママは昔からそうじゃん』って言われました(笑)。まぁ、予想どおりの反応でした」

「3番目は当時高校生だったので言わないでいたんですが、つい先日、『ママってさ、LGBGTQなの?』って言われたので、うん、そうだよって」

実は、以前からそうじゃないかと気づいていたのだが、聞いてはいけないことのような気がして、聞けずにいたらしいのだ。

「3番目が言うには、『いま仲良くしている友だちが2人いて、どっちもLGBTQなんだけど、ママのことを話して、写真を見せたら、たぶん、うちらとおんなじだよ、聞いてごらん』って言われたそうなんです』

「子どもたちには言いましたが、自分の親には言わないでおこうかなと・・・・・・。でも、彼女を連れて母親と旅行に行ったりもしてるし、もしかしたらわかっていて言わないのかも(笑)」

10自分らしくあれ!

不満を言うだけの場にはしたくない

チャイルドカウンセラーや家族療法カウンセラー、発達相談士、ヒプノセラピストなどさまざまな資格を活かしながら、心理セラピストとして多くの人の悩みを聞く日々。

同時に、障がいの有無や性的指向などの違いを認め合いながら生きる社会を目指す「みんなでつくるインクルーシブ・鶴岡」や、乳癌啓発のための「ピンクリボンTsuruoka」を立ち上げた。

どちらの団体も、当事者と非当事者が一緒に活動することを大切にしている。

「障がいをもつ子どもの親だけの集まりで、健常者に対する不満を言うだけで終わってしまったことがあったんですよ」

「たとえば、障がいをもつ自分の子どもに対して、学校が配慮をしてくれないと愚痴を言っていて、私が『配慮してもらうために説明して、お願いはしたの?』ときくと『してない』と」

「健常者が障がい者に対して配慮するのが当たり前、っていうのは違うと思うんです。しかも、配慮しないことを責めるのはもっと違う」

理解できていないからこそ一緒に

健常者には知り得ない、障がい者にとっての問題がきっとあるはずだ。
だからこそ、理解できるようにコミュニケーションをとる必要がある。

理解できていないことを責めるだけでは、なにも変わらない。

「変わらないどころか、健常者と障がい者の距離を広めてしまうような気がするんです」

「乳癌の団体にも、乳癌になっていない人たちがたくさん参加しています」

「障がい者同士、乳癌患者同士はきっと黙っていてもわかり合えるはず。そうではなく当事者と非当事者とは、理解できていない、知らないことがあるからこそ、集まって活動する意味があると思うんです」

もちろん、当事者同士のコミュニケーションは心の支えになるはず。
必要な集まりであるといえるだろう。

「でも、私は、傷の舐め合いだけでは終わらせたくないんですよ」

自分らしく生きる

「LGBTERとの出会いもきっかけになって、仲間とともに新しい団体『Be Yourself. JAPAN』を立ち上げました」

さまざまな人のライフストーリーから受けた影響は大きい。そのおもいを賛同してくれた友人たちと一緒にかたちにしたい。

「8月には、FTMのかたを酒田市に招いて、講演会を開催することになりました。今後は、LGBTQだけではなく『自分らしく生きる人』をテーマに、いろいろな催しを考えてます」

「LGBTERは、当事者のインタビューが中心だけど、世の中に対する不平不満を言って傷を舐め合っているのではなくて、一人ひとりが自分の表現をしている場だと感じました」

「だからこそ出てみたいと思ったんです。私も、これからはそういうふうに、自分を表現していきたいって思ってます!」

 

あとがき
瀬尾さんと一緒にいると、いい湯加減の温泉につかっているよう。「誰かに違うって言われることをそんなに恐れなくてもいい」。穏やかな声色でそう言ってもらえたら、誰でも心のこわばりがほどけるだろう■大人になるにつれて、経験のたくわえが増える。誤りがないように努めるから、完璧思考が強くなるのかな。指摘は、否定と感じやすいけど、違いは “違う” だけ。違いを知ったときこそ、お互いをあらたに知ることができるのかもしれない。(編集部)

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